第143話 領主への嘆願について
小さな執務用の机と、来客用の席寝椅子に小さな卓。
そして壁には、良く分からない専門書がぎっしりと詰まった本棚。
以前お邪魔した時とまったく変わりない、殺風景な部屋だ。
だが私は、こんな飾り気のない部屋で日夜仕事に励んでいる重要人物に対して、嘆願をしなければならないのだ。
だが、しかし。
「さあ、どうぞ」
「あ、あ、あ、ありがとう、ございます・・・」
私は震える手で、紅茶の入った湯呑を受け取った。
前回同様に、酷く緊張しっぱなし。
是非とも聞いてもらいたい願いがあるからと、わざわざ師匠に頼み込んでこの会談の場を設けてもらったというのに、なんとも情けないことであった。
だが、それでも。
私は、目の前の女性に。
“生ける伝説”に、訴えねばならないのだ。
私は熱い紅茶の入った湯呑を見つめながら、ごくりと生唾を飲んだ。
先日の、リベルカの脱走が発端となった騒動。
一時は街の危機にすら発展しかけたその事件は、私とクリス君の懸命な説得に心を開いてくれたリベルカのおかげで、どうにか事なきを得た。
だが街の暗部として秘匿されていたらしい彼女は、闖入してきた師匠が連れ込んできた騎士たちにさらわれてしまったのだ。
『やくそくだよ!ぜったい、たすけてあげるから!』
『うん!信じてるよ!』
私の根拠のない言葉を、しかし新たな友人となったリベルカは心から信じてくれたようだった。
まるで犯罪者の様に拘束され、大勢の騎士たちに護送されていくリベルカの眼には、希望の光があったからだ。
助けねばならない。
救わねばならない。
あの哀しい半魔の娘を、私が!
そう心に固く誓っていたはずなのに。
しかし私は、紅茶と領主アーマ様の顔を交互に見つめるばかりであった。
「それで、今日はどういったご用件なのですか?」
この街の最高権力者にして最強の女騎士であるアーマ様は、上品に微笑みながら師匠の方を向いて問いかけた。
まあ、それも当然の判断である。
小娘の私が、領主である自分に用があるだなんて思いはしないのだろう。
「別に私は、話などない。この娘に頼まれただけだよ」
師匠は何処か冷たい口調でそう言い放つと、黙って湯呑を傾けた。
いつもの無表情だが、眉根がつり上がっている。
その不機嫌さは、一体何が理由なのだろうか。怖くて聞くことができない。
「まあ、貴女が?」
一方領主様は、その言葉に眼を丸くした。
「一体何のお話ですか?」
「そ、それは・・・」
言いかけて私は、口をつぐんだ。
リベルカという存在は、どうやらこの街においては最高機密に属するらしい。
そんな彼女の行く末を自由に裁量することができるのは、この街の最高権力者である領主様を置いて他にはいない。
だったら彼女に直接お願いをすればよいではないか、という浅はかな考えだったのだが。
「じ、じ、じ、じつは、りべるかのことで・・・」
「ああ!お話は聞いていますよ」
領主様はそう言いながら、私の前に砂糖の入った壺を勧めてきた。
「貴女とご友人が説得をしてくれたから、あの娘は暴走せずに済んだとか。大活躍だったのですね」
「え?いや、まあ・・・」
私は“首筋を撫でながら”、生返事をした。
こんな偉大な人物から褒められるだなんて、素晴らしいことである。
だが、凄くこそばゆい。
確かに領主様の言う通りなのかもしれないが、あの時はリベルカのためを思って行動しただけなのだ。それが結果として彼女の悪行を止めることに繋がったのは事実だろうが、そんなに過分な評価をされてしまうと・・・
私は顔を真っ赤に染めながら、勧められた砂糖をどばどばと紅茶に入れていた。
「君、本題からずれているよ?」
「うぇっ?」
突如隣から声をかけられて、私は思わず師匠の方を見た。
すると師匠は、湯呑を傾けつつも私の顔を静かに見つめていた。
まるで、介添人である。
今回のお願いをするにあたって師匠は、『助け舟は出さない』ときっちりと釘をさしてきた。
もとよりほとんど私の個人的な事情で動くのだから、それは当然だと思ってはいたのだが、何だかんだと気にはしてくれているようであった。
ああ、そういえば。
師匠は、こうも言っていた。
『あの女性と渡り合おうというのなら、覚悟を持って挑みたまえ』と。
私はただお願いごとをしたいだけだったのだが、渡り合うとはどういう意味なのだろうか。
全体、私のような小娘が、英雄であるアーマ様と対等に争える筈がないというのに。
だがそれでも、言うべきことは言わねばならない。
「そ、そう!おはなしが、あるんです!」
私は砂糖を掬っていた匙を離すと、両手を握りしめた。
今から私は、領主様に直訴するのだ。
この街を統べる、最高権力者に。
その事実は、ここにきて私の心に不思議な高揚感をもたらしていた。
ううん。
そうなると、なんだか師匠の言う通りに彼女と渡り合う様な気分になってきたぞ。
英雄に挑戦する私。なんだか、少しだけ心が沸き立つではないか!
などと、下らないことを考えていると。
目の前の女性の雰囲気が、一変した。
「・・・お話、とは?」
そう言って手にしていた湯呑を卓上に置くアーマ様は、微笑を一切崩さなかった。
しかし、纏う気配がまったく違う。
師匠が稀に放つような、あんな粗雑で乱暴な気配ではない。
優雅で、気品に溢れていて、でも眼の前の私を容赦なく押しつぶす力。
まるで、圧倒的な高みから卑小な私を見下ろしているような、そんな絶対者としての貫禄がある。
「あ・・・う・・・」
私はその凄まじい気迫に飲まれ、発しかけた言葉を忘れてしまったかのように押し黙ってしまった。
固く誓った筈だったのに、リベルカへの思いが崩れ去っていくのが分かった。
そして、背筋どころか指先までもが凍り付いたかのような感覚に襲われ、私は身動き一つとれなくなってしまった。
“生ける伝説”。
その呼称は、まったくもって真実である。
彼女と渡り合おうだなんて、愚の骨頂だ。
ああ、なんてことだろうか。
この人にお願いしようだなんてのが、そもそもの間違いだったんだ。
全体、私の様な小娘に、リベルカを救ってやる力なんてなかったんだ。
ごめんね、リベルカ。
約束は、守ってあげられないよ・・・
恐るべき気迫によって、私が心を折りかけた、その時。
突然、私の頭の上に師匠の手が置かれた。
大きく、温かく、力強い。
安心する手だ。
「落ち着きなさい」
師匠は、優しく言った。
「君の伝えたいことを。思いを、言葉にするんだ」
その静かだが力強い言葉に、私の身体は芯から熱くなった。
そうだ。
私には、師匠が居てくれる。
私は息を整えると、きっ、と領主様を見据えた。
もう、気圧されたりなんかしない。
私は大切な友人のために、この人に嘆願するのだ!
「おねがいが、あります!」
自分でも驚くほどに、力のこもった声であった。
師匠に勇気づけられ、吹っ切れたらしい。
すると、眼の前の女性の笑みが深くなったような気がした。
「なんでしょう?」
真っ向から受けて立つ。
そう言わんばかりに、領主様はどっしりと席寝椅子に構えていた。
私はそんな彼女に対して、お願いを口にした。
「・・・りべるかを、じゆうにしてあげて」
それは、無理難題であった。
リベルカは、邪神の眷属と人の間に生まれた“半魔”だ。
この地上に災厄を振りまく眷属たちの悪行は、その容姿も伴って様々な教会で語られている。
あの二対の捻じくれた角に、血の様に紅い眼。口から覗く牙なんかを見た日には、街の一般人は恐慌状態に陥ってしまうのだろう。
あるいはリベルカが何もしないと分かってもらえたとしても、今度は彼女への迫害が起こるかもしれない。
それ程に、この街の人間というのは排他的である。
つい最近までの私がそうだったから、それは良く分かる。
案の定、アーマ様の返答はにべもなかった。
「それは、難しいですね」
「でも、おねがいします!」
私は、再び湯呑を手に取った領主様に言いすがった。
こんなに簡単に否定されるとは予想していなかった。
少しくらいは、事情を聴いてくれるかもしれないと思っていた。
いやはや全く、見通しが甘かったと言わざるを得ない。
しかし。
「わたしは、あのこにやくそくしたんです!」
私だって、譲れない。
あの、涙に濡れながらも希望に満ちていたリベルカの眼。
私の新しい友だちは、私のことを信じてくれている。
地獄の様な境遇から救い出してくれると、願ってくれている。
だから私は、約束を果たさなければならない。
必ず彼女を自由にし、私とクリス君と一緒に三人で遊ぶのだ。
そうして、彼女に教えてあげるのだ。
この街は。
この地上は、決して彼女にとって冷たいばかりではないのだ、と。
「おねがいです!わたしにできることなら、なんでもしますから!」
私はそう叫ぶと、領主様に向かって大きく頭を下げた。
ごちん!と卓に額をぶつけたが、構わなかった。
今もあの友人は、この程度の痛みなど笑ってしまう程の逆境に身を置いている筈なのだ。
彼女を救ってやることができるのならば、喜んで引き受けようではないか。
「・・・ふむ」
私のそんな思いを伴った宣言であったが、しかし領主様は黙ったままだった。
たっぷりと三十秒は経っただろうか。
一向に貰えない返答に、私が最悪の結末を予期したその時。
「では、条件があります」
私のすぐ耳元で、陶器同士が軽く接触する音が聞こえた。
領主様が、自分の湯呑を卓上の皿の上に置いたのだ。
どうやら、願いを聞いてくれる気になったらしい。
私は思わず笑みを浮かべて、頭を上げた。
すると。
「地下施設の捜索に、“貴女たち”が全面的に協力すること。その条件を飲むのならば、件の半魔の娘の生活環境の改善を約束しましょう」
「何・・・っ!?」
領主様からの提案に、師匠は無表情ながら不服そのものと言った声を上げた。
だが。
私の答えは決まっていた。
帰り道。
黙りこくったまま歩く師匠に、私はどのように謝罪すればいいのかを分かりかねていた。
「ねぇ、師匠。おこってる?」
「怒ってなどいないよ」
「じゃあ、かなしんでる?」
「まさか」
いつもの無表情につっけんどんな口調が相まって、今の師匠は不機嫌そのものとしか言いようがない。だが本人に言わせればこれだ。
アーマ様の執務室を出てから、ずっとこの調子である。
私が何を言っても、取り付く島もないのだ。
「わるかったよぅ、師匠。だから、もうおこんないでよぅ」
私は、ずんずんと大きな歩幅で歩いていく師匠に必死に追いすがりながら、そう言った。
領主様からの提案を勝手に受けてしまったのは、申し訳なく思う。
だが、あそこで突っぱねてしまったら、リベルカはどうなってしまうというのだ。
またぞろ地獄の様な環境に引き戻されて、今度こそ心を壊してしまうかもしれない。
そんな憐れな彼女を救ってやりたいからこそ、領主様のもとを訪ねたというのに。
「だから怒ってなどいないよ。ただ、自分自身に呆れているだけさ」
若干鼻声になってしまった私のことが、気になったのだろうか。
師匠はようやく歩くのを止めると、私の方に向き直った。
いつもの無表情だが、確かに機嫌がよくない。
それは、眼の中に浮かぶ憤りの様な感情からはっきりと分かった。
「あうぅぅ・・・、ごめんなさぃぃ・・・」
「ああ、いや、ちがうんだよ」
師匠からの怒りを受けたような気になって、私は眼に涙を一杯ためてしまった。
だが師匠は、慌てたように取り繕った。
「・・・私は、自分が赦せなくなってしまったんだ」
「・・・え?」
師匠の予想外の言葉に、私は間抜けな声を出した。
自分が赦せない。
それは、師匠自身が何らかの失態を犯したということなのだろう。
だが、一体師匠が何を間違えたというのだろか。
鼻をすすりながら首をかしげる私に対して、師匠は迷うそぶりを見せながらも語りだした。
「私は固定観念にとらわれて、あの憐れな娘の心を傷つけてしまった。それは聖職者として許されない罪だ」
言われて私は、思い出していた。
地面を戦鎚でたたき割って地下へと侵入してきた師匠は、怯えるリベルカを脅しつけるような言葉を口にした。
確かにあの時は頭にきたが、しかし私が師匠の立場だったらどうだっただろうか?
私がリベルカを救いたいと願ったのは、彼女と語り合い、その心を理解することができたからだ。
初対面の師匠があんな態度を取ったのも、今になって考えれば仕方のないことのような気がする。
まあ、頭にくるが。
「・・・そんな彼女を本当の意味で救ったのは、誰あろう弟子である君なんだ。普段は師匠だなんだと偉ぶっておきながら、なんと情けないことだろうと思ってしまったんだよ」
そう言って無表情の師匠は、いつもの様に首筋を撫でだした。
困ったときによくやる癖。
いま師匠は、自分の心情を吐露したことと、私を不安にさせてしまったことで困り果てている。
成程、その気持ちは分からなくもない。
だが、しかし。
「そんなことないよ、師匠!」
私は師匠に飛びつくと、首筋を撫でている右腕をとって無理やりに握りしめてやった。
強く、大きく、温かい。
安心する手だ。
そんな素晴らしい手を持つ貴方が、そんなちっぽけな失態でくよくよしていてはいけない!
「いまのわたしがあるのは、師匠のおかげ。だから、りべるかをたすけてあげられたのも、師匠のおかげなんだよ?」
涙ぐむ私のその言葉に、師匠は少しだけ頷いてくれた。
そうとも。
あの時、心の底からリベルカを救いたいと願ったのは、確かに師匠のもとで育てられ、鍛えられ、学んできたからだ。
それならばいっそ、師匠がリベルカを救ったとも言えるのではないか。
なにせ私は、師匠の弟子なのだから。
「ところで、君。彼女に一杯食わされたようだね」
「へ?」
「彼女は即断即決をしない人物だ。それなのに、君の要求をすぐに呑んだ」
「・・・はじめから、りべるかをたすけるつもりだった?」
「そうとも。私たちはまんまと、ただ働きをさせられることになってしまった訳だね」
「・・・」