第126話 悪魔の所業に等しい行為について
「師匠は、あくまだ!」
私は目の前で“拷問器具”を持ち上げた師匠に向かって、精一杯の罵声を浴びせた。
だが、それだけだ。逃げることも、抵抗することもできはしない。
なにせ腕一本、足一本、指一本動かせないのだから。
「君が悪いんだよ」
師匠はいつもの彫像の様な顔のまま、ほんの少しだけ眉根を下げて、そう言った。
その眼には憐憫の感情が浮かび、この行為が師匠の本意ではないことを窺わせる。
「私だって辛いんだ。だから、無駄な抵抗はしてくれるな」
言いつつ師匠は、その“拷問器具”を私の眼前に突きつけてきた。
白く、酸っぱい匂いのするそれは、私の尊厳と純潔を奪い去る凶器だ。
「あ・・・あ・・・」
私はあまりの恐怖に、引きつった顔を背けた。
すると師匠は無理やりに、その“拷問器具”を私の口元に押し付けてきた。
ひんやりと湿ったそれは、私の唇をぷにぷにと変形させる。
なんとも気持ちが悪い。
こんなものを口に含んでしまったら、私はどうにかなってしまう。
私は断じてそれを口の中に入れさせまいと、固く歯を食いしばった。
耐えろ!
耐えるんだ、私!
私は眼を瞑って歯をむき出しにしながら、強く念じていた。
「君、往生際が悪いよ」
師匠はしつこく“拷問器具”で私の口元を突き回すが、私は決して折れなかった。
こんなものに敗北したら、私は私でなくなってしまう!
私はそう思いながら、“拷問器具”を弾き飛ばすようにして勢いよく顔を振った。
すると。
「あぁっ!?」
その衝撃で、師匠の手から“拷問器具”がすっぽ抜けた。
師匠の悲痛な声に、私が思わず眼を開くと。
肉叉が突き刺さった“拷問器具”が、食卓の外側へ向かって飛んでいき・・・
がぶっ!
跳び上がったしろすけが、それにぱくりと噛みついた。
そして突き刺さっていた肉叉だけを吐き出すと、満足げに“拷問器具”、もとい“蕪の酢漬け”を飲み下した。彼はすでに昼食を終えていたが、いつも通りに満腹になれなかったらしい。
「しろすけ!これは君のご主人様のものだよ!」
師匠は逃げ去るしろすけに向かって、非難の声をかけた。
私はそんな師匠を見ながら、自らの身に降りかかる苦痛がほんの少しだけ遠のいたことを安堵した。
そう。
師匠は嫌がる私に無理やりに、野菜を食べさせようとしているのである。
今、眼前の私の席に並べられているのは、緑と白と赤という面白みに欠ける色合いの野菜を使った料理の数々。すべて師匠が、私の昼食として用立てたものである。
どれもこれも私の嫌いなものばかりなので、まったく口をつける気にはならなかった。
だが、この場を離れることもできない。
私はそれを口惜しく思いながら、身体を揺らした。
椅子の脚に括り付けられた二本の足は、つま先を丸めるくらいしかできない。
背もたれに回された二本の腕は、縄抜けができないようにと親指同士が縛られていた。
これもまた、恐ろしい師匠からの仕打ちである。
思えば、警戒しておくべきだったのだ。
昼時。
珍しく師匠が、『美味しいお菓子を買ってきたよ』などと言って食卓の上に様々な菓子類を広げ始めたので、私はうっかりと拘束具がつけられた椅子に腰を下ろしてしまった。
甘い香りと、見ているだけで涎があふれ出てくる美しさに気を取られた私は、そのまま油断して椅子に縛り付けられてしまった。
そして師匠は、我に返った私の前に、次々に野菜で作った拷問器具を並べていったのだ。
そして一言。
『食べたまえ』
である。
まったくもって、師匠は非道で外道な男である。
いや、あるいはそれ以上なのかもしれない。
「飽くまでも、拒むのだね?」
「まけるもんかっ!」
肉叉を拾い上げた師匠が、私に確認するように言った。
決まっている。
こんな苦くて臭くて歯ごたえ最悪なものを、誰が口に入れるものか。
「では、仕方がない」
私の決意が固いと見た師匠は、今度は自分の眼の前に並べられた小皿の内の一つを手に取った。
私の席のそれらとは違い、実に美しく、香り豊かで、食欲をそそる品々。
そこには、師匠が買ってきた数種類の焼き菓子の一つが乗せられていた。
「もしも君が恭順の意を表するというのならば、これらを与えるというのもやぶさかではないのだが?」
師匠は動けない私の鼻先に、その小皿をゆっくりと近づけてきた。
途端に、ふんわりと香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。
私の眼前に並べられた拷問器具とは違う。
これこそ、人が食すべき芸術品だ。
私が思わず生唾を飲み込むと、師匠はそれを見計らったかのように、さっと小皿をひっこめた。
まるで躾のなっていない愛玩動物への調教の一種のようである。
酷い。
酷過ぎる。
これが人間のやることだろうか!?
私は親の仇とばかりに・・・
いや、この表現は洒落にならないな。
とにかく、憎たらしい師匠を睨みつけた。
「いらないのかい?残念だなぁ」
「あくまめぇ~」
正に誘惑しようとしてくる師匠の魂胆は、分かっている。
先日の、“戦天城”での一件。
あの心優しい人工知性のことを、まだ諦めていなかったのだ。
師匠は空飛ぶ城の管理人たるゼークトロンを、不死人の遺産として滅ぼそうとした。
だがあの城へ行き来できるのは、連絡手段を知る私とクリス君のみである。
自力で到達することができないのならば、放置していても問題ないだろうと思っていたのだが、まさかこんな手段に打って出るとは。
「従わないというのならば、これはやれんな・・・」
師匠は悔しさに歪んだ表情の私を見つめながら、肉叉を焼き菓子に突き立てた。
何のために?
簡単である。
「やめろーーー!」
私は師匠の真意に気づいて、絶叫した。
師匠は、叫ぶ私の眼の前で。
ぱくっ
その焼き菓子を口に含んだ。
そして彫像の様な顔のままに無言で噛み砕き、一気に飲み下した。
「ふむ。まったりとしているが、しつこくはないな」
その無感動で事務的な感想に、私は絶句した。
もしもそれを食したのが私だったのならば、菓子職人に対して全身全霊で感謝の舞を踊ったというのに!
これでは、食べられたお菓子が可哀そうではないか!
「まあ、こんなものかな」
しかし師匠は、そんな私の想いを踏みにじる様に次の小皿を手に取った。
そしてそれを私に見せつけながら、もったいぶる様にして上に載っていた菓子に肉叉を突き立てた。
それは、焙煎した甘豆の汁を固めて作った焼き菓子だった。
甘さとほろ苦さをあわせた独特の風味を持つが、人肌程度でも容易に融けるという特性から、『飲める菓子』と称される。
そんなオトナが食べるような品のあるお菓子に対しても、師匠は無造作であった。
師匠は歯ぎしりをする私をよそに、それを先刻と同じようにして自分の口の中に突っ込んだ。
「ふむ。トロリと口の中で溶けていく甘味に、砕いた種実の歯ごたえが加わり、お互いを引き立てているな。」
「うぎぎぎ・・・」
肉叉についた甘豆汁を軽く舐めとりながら、師匠は私に眼をくれた。
そこには、美味しいお菓子を食したという感動は大して見られない。
むしろ私の心情を推し量ろうとするような、探るような、そんな気配に満ちていた。
「君。いい加減に、屈服するかね?」
「いやだ!」
私は、間髪入れずに答えてやった。
こんな悪魔の所業に等しい行為になど、絶対に屈服してやるものか!
そして、こんな行為を平然と行う悪魔のような師匠に、友人を売り渡すものか!
そんな強い決意を込めた答えに、師匠はさも残念だと言わんばかりに嘆息した。
「そうか。では・・・」
すると師匠は、今度は果蜜の焼き菓子に手を伸ばした。
色とりどりの果物の蜜漬が乗せられたそれは、まるで宝石のようである。
これらの菓子類の中でも、私の一番の好物だ。
そしてこの悪魔は、恐らくそれを分かっているのだろう。
師匠はそんな宝物のようなお菓子に大した感慨もなさそうに肉叉を突き刺すと、まるで私に見せつけるようにして大口を開けた。
「あー・・・」
思わず私もそれに倣って大口を開けるが、それで欲求が満たされることなどあり得ない。
師匠はそんな私の眼の前で菓子を一気に頬張ると、むしゃむしゃごくんと僅か数秒で咀嚼と嚥下を済ませてしまった。
「ふむ。甘酸っぱい果実が蜜によってまとめられ、サクサクと砕ける生地と絶妙に調和している」
私は、がっくりとうなだれた。
私の好物を眼の前で奪われたこと。
それをほんの数秒で済まされたこと。
そして、いちいち無感動のままに味を分析されたこと。
この拷問によって、私の心が悲鳴を上げていたのだ。
「くっ・・・、ころせっ!」
最早私は、限界だった。
このままでは、お菓子惜しさに。ついでに野菜に耐えかねて、友人を売ってしまうだろう。
そんなことになってしまったら、女が廃るというものだ。
その最悪な未来が訪れる前に、いっそ命を絶ってしまう方が・・・!
「大げさだなぁ、君」
ぺろりと口周りを舐めながら、師匠が言った。
可愛い弟子をかように拷問しておいて、よくもまあそんな平然としていられるものだ。
・・・いや、まあ、師匠はいつだってこんな彫像の様な顔なのだが。
だがそんな師匠の能天気さは、返って私の怒りに火をつけた。
そうだ。
こんな悪魔に、従ったりはしない。
せっかくできた新しい友だちのために、私は折れたりなんかしないんだ。
今こそ、立ち上がる時だ!
いや、縛り付けられていて立ち上がれないのだが。
そう言う物理的な意味ではない!
「わたしはぜったいに、ぜーくとろんをまもる!」
私は師匠に屈服しないという意思表示をするために。
そして自分自身を奮い立たせるために、叫んだ。
そうだ。
私は、絶対に友人を売るような真似はしない。
そんなことをしたら、ゼークトロンどころかクリス君にまで幻滅されてしまう。
そんな、強く気高い決意を込めた宣言。
だのに師匠の反応は、予想外であった。
「・・・何を言っているんだい?」
師匠は彫像の様な顔のまま、首を傾げた。
私を見つめる眼は、心底不思議そうである。
なんとも白々しい。
それ以外に、どうしてこんな外道な行いをする理由があるというのか。
私はその態度に憤りつつ、答えてやることにした。
「なにって、“せんてんじょう”につれていけっていうんでしょ?」
分かっているんだぞ、とばかりに私は胸をそらした。
こんなことで状況が好転するとも思えないが、精神的に優位に立つ材料になるかもしれないのだ。
こんな拷問に耐えるには、それこそ精神力が物を言う。
気を強く持つためにも、相手を威圧するのは悪い策ではない。
と、思っていたのだが。
やはり師匠の反応は、予想外であった。
「ああ、いや。その件についてはもういいんだ」
首筋を撫でながらそう言う師匠に対して、私は思わず『へ?』と聞き返してしまった。
もういいってなんだ。
あれ程に拘泥していたというのに、こんなにあっさりと諦めるとはどういうことなのか。
というか、だったらこの拷問ってなんなのさ。
そんな私の疑問に答えるように、師匠は語り出した。
「・・・色々あって、考えを改めたんだ。今回のこれは、君の野菜嫌いを矯正するためのものだ」
いつもの彫像の様な顔だったが、そう言う師匠の態度は何処か気恥ずかしさが見え隠れした。
先日しつこくゼークトロンの危険性を訴え、滅ぼすだの許さんだの認めんだのと言っていたのを覆したものだから、きまりが悪いのだろう。
「じゃあ、このごうもんは・・・」
「いや、なに。好物をお預けにされたら、我慢して野菜を食べてくれるかと思ったんだよ」
「なあんだ・・・」
私は縛められたまま、脱力した。
どうやら、師匠のあまりの剣幕に勘違いをしていたらしい。
てっきりゼークトロンのもとへ連れていくことを強要されているのかと思っていたが、実際は私の問題だったのだ。
「まったく、勘違いも甚だしいね」
「いや、こんなことしといて・・・」
わざわざ椅子に括り付けて逃亡と抵抗を防ぎ、その上で無理やりに野菜を食べさせようだなんて、虐待も良いところではないか。
街の衛兵さんたちにお願いしたら、きっとこの悪魔のような男をしょっ引いてくれるに違いない。
それに師匠のアリシアさんは、こんな凶行を許しては置かないだろう。
だが、そんな風に気が抜けつつあった私は、師匠の残酷な一言で現実に引き戻された。
「まあ、それはともかくとして、とっとと食べたまえ」
「・・・は?」
「いや、だからね、これは君の野菜嫌いを矯正するための必要措置なんだってば」
「・・・えぇー!?」
再び窮地に立たされた。
いや座らされたままだが、とにかく状況が変わっていないことを悟った私は、仰天した。
結局のところ、野菜を食べなければ解放されないばかりか、眼の前のお菓子にありつけないということなのだ。
「さあ、観念したまえ」
今度は肉叉を人参の酢漬けに突き刺すと、師匠はそれを私の眼前に突き出してきた。
紅く、酸っぱい匂いのするそれは、私の尊厳と純潔を奪い去る凶器だ。
「あ・・・あ・・・」
拘束されたままの私には、逃げることも抵抗することもできなかった。
「ここに、野菜とお菓子があるだろう」
「はい」
「これを」
「えっ」
「こうだ」
「ああーーっ!?」
「こうして一緒にしてやれば、食べられるだろう」
「・・・」




