旅の始まり
僕たちが産まれたころには既に、寄生菌との戦いが始まっていた。
正式な名前はトゲヒフヒトダケという名前で、子どもや免疫の弱った人が吸い込む事で寄生が開始する菌類だ。
感染された人は、最初は易刺激性、易怒性等といった怒りっぽさが見られるようになり、徐々に物忘れ、物盗られ妄想、幻視や見当識障害など認知症様相の症状がみられるようになってくる。
一方でこの菌に寄生された人は肉体的には健康になっていく。末期のがん患者がこの菌に寄生された結果ガン細胞の減少が見られ、肉付きがよくなり、運動量と筋肉量が年齢に関係なく増加していく。
また肉体の活性化と同時に、寄生された人の手のひらには、目に見えない程の細かい産毛のようなトゲが隙間なく生えるようになる。これが接触感染の原因となるのだ。
最終的にはその人の元ある人格は退廃し、暴力的で常に誰かしらを攻撃するようになる凶暴な人間へと変革していき、最後には菌が成長しやすい湿気の多く周囲に植物のない地下鉄の中や建物の地下に移動し、寄生された人は絶命する。
亡骸は大量の菌が成長する肥料として活用され、さらに多くの菌がそこから生み出される事になる。
こんな凶暴な菌ではあるが、僕たちが産まれてくる10年ほど前には、この菌を活用して様々な病気に対する治療薬を開発しようとする試みが世界中で行われていたのだ。また、この菌と共生できるよう品種改良を試みる動きもあったそうだ。
結果は惨敗。単純な空気感染だけならまだしも、接触感染の被害もあり、この菌の被害者はネズミ算的に増えて行った。
そうして、気づけば人類はかつて暮らしていた人工的な産物を捨てて、野山に逃げ込む事を余儀なくされた。
人類がわかっている事は唯二つ。菌は他の植物の存在を嫌う為人工的な建物と湿気を好む事、空気感染そのものはガスマスクによって防げる事、だけだった。
こうして、僕たちは大人たちから昔話のように聞く文明の話を指をくわえながら聞いて、羨ましがる生活をしているのだった。
とは言え、僕たちだってそれだけで終わっちゃいない。
「おい、こっち来いよ! 缶詰だ!」
仲間の西田が指笛を鳴らして呼びかける。
周囲を警戒していた村井と岩下が慌てて駆け寄った。
「バカ、でかい音出すな。気づかれるだろ」
村井が西田の頭を小突きながら言う。
「ここら辺にキャリアーが居るわけないだろ。もう十年以上前に封鎖されてるんだぜ」
西田が苛立たしそうに言うと、岩下は二人をなだめるように間に入る。
岩下が缶詰を手に取ると、感嘆の声を小さく漏らした。
「すっげぇ、サバの味噌煮缶だ。初めて見た。すっげぇうまいって貧乏横山が言ってたやつだろ」
貧乏横山は四十代後半の男性で、いつも若い頃は貧乏だったと自慢話のようなものをしていた男だ。
今思えば子供好きだったのだろう、いつも僕たちを見つけると当時の話をして、牛丼という食べ物に大量の紅ショウガをかけて食べた話や安売りの缶詰を大量に買い集めて友人たちと缶詰をつまみに酒を飲んだ話等、かつての日本の話を色々と聞かせてくれた。
横山はいつだか僕たちに缶詰を見せてやろうと言ったきり、姿を見せなくなった。
それ以降、大人たちの間ではこの話はタブーとなった。そして横山は僕たちのレジェンドになった。
貧乏横山などと言っているが、僕たちは結局横山が好きだった。だから、こうして街に降りて横山が話していた街の景色や缶詰、様々な生活の道具等を見つけては、彼の遺物のようにして集めるようになったのだ。
「まだ食えるのか? 缶詰に賞味期限ないって言ってたよな」
表情は見えないが、村井の声は少し泣きそうに震えていた。
「ばっか、お前こんなん食えるわけないだろ。菌まみれじゃねぇか」
周囲にはほこりのような菌糸がついているのが見てとれる。村井は腰に下げたポーチから葉っぱを取り出すとそれで表面を拭った。
「埃……かもしれないけど、危険すぎるよ」
少しためらいがちに岩下が言う。村井は葉っぱで可能な限り缶詰を拭くと、僕が受け取る。
自分のポーチから封付きのビニール袋を取り出して、缶詰を中に入れた。なるべく空気を抜いてやり、慎重に封を閉めると岩下の背負っているカバンにそれをしまった。
「だな。だけど、持って行こう」
ボクは言って、岩下の背を叩いた。岩下は一番臆病だが、一番力持ちで体力がある。彼がちょっと弱気になった時、僕たちが慰めるように肩や背中を叩くのが習慣になっていた。
岩下自身も、それで気持ちを切り替える事できるのか、今もこちらを見てうなずいている。
持って帰る為の荷物を岩下が、ちょっとしたところを拭くのに使える葉っぱや清潔な布、傷の治療用の薬を村井が、収集用のビニールやチリ吹きやタワシ等は僕が、そして先頭に立って道を決めるのは西田が。
誰が決めたわけでもないが、そういった役割分担に自然となっていた。
かつて岩下が一度、西田に先頭を交代制にするかと申し出たことがあった。
「ばっか。これは俺の役目だ。お前ら後ろに居るから、俺がてきとうに歩けるんだろうが」
それ以来、互いの役目に何か言う事はなくなった。
太陽はまだ真上にある。周囲も明るく、何かが動く気配もない。僕たちが住む村から原付で三十分ほど進んだこの街は、かつてここら辺で一番栄えていた場所らしい。何階建てにもなったビルが連なり、そのビルに蔦が這い、無機質な人工物と自然の融合した姿が見られる
僕はこの街のこうした異様な光景が好きだった。かつてこの場所には想像もつかないほど多くの人々が暮らしていて、毎日草の生えていないコンクリートを歩き回り、ガスマスクをつけることなく生活していた。
横山の話していた日常とはかけ離れた街の姿に、僕は神々しさすら感じるのだ。
「おい、あそこ」
西田が珍しく小さな声で、こちらを呼んだ。
一番近い距離に居た僕が西田に近づき、他の二人が周囲を警戒する。
西田の指先には、僕らぐらいの年齢の女の子が裸で立っていた。ガスマスクもつけずに。
「なんだあれ」
遠くて見えないが素手で地面に生えた草をむしっているようだった。
「いや、待てよ。あそこにも……」
ぎょっとした僕が指をさす先には、ビルの窓から身体を乗り出して蔦を外している男の姿があった。
男も同じように裸で、蔦を外す際に何かでけがをしたのか腕からは出血している様子が見てとれた。
「気持ち悪」
西田は言いながら、ガスマスク越しに口に手をあてた。他にもいないか確認しようと目を凝らすが、二人以外は見えなかった。
「どうする」
西田は肘でこちらを小突く。僕は手で彼に手で地面を指さし、両手をわっかにして顔の前にもっていき、片腕で人のいる方を指さした。西田は親指を立てて応じる。
それから周囲を警戒している二人に、人がいる事を伝える。
岩下はすぐに逃げて大人に相談しようと言い、村井は様子見をしようと言った。
「大人に相談するのは少なくとも反対だな。街に出た事がばれたら、最悪殺されるよ」
僕が岩下に言うと、岩下は何も言わずうつむいた。
「けど、放置しておくのも気持ち悪くね? 周囲を見張りながらあの二人が帰る場所とか見て、それから判断してもいいんじゃないか?」
村井はそう言って、近くに落ちていた棒を拾って、コンクリの隙間に生えている雑草めがけて、無理やりに突き立てた。影の出来た位置から、少しずれた位置に石で印をつける。
「影がここまで来ても動きがなかったら、一度帰ろう。嫌な予感がする」
村井の言葉に僕はうなずく。岩下も弱いながらも頷いて反応をする。村井はこういった時、冷静に判断できる頭がある。
今話した事を西田に伝え、僕も周囲の警戒にあたった