第4話
キッチンに戻ってくると、女の人は頬杖をついてぼんやり外を眺めていた。憂いを浮かべた顔はさっきとは別人みたい。
あたしがぱたりとドアを閉めると、奥さんは顔を上げた。
「あら…もう終わったのね〜」
そう言ってにっこりと笑った。その笑顔は、あの男の子にそっくりだ。
「何か、考え事してたんですか?」
女の人は、また窓の外に視線を移す。
「ええ…ちょっと、死んだ弟のことをね――」
「えっ?」
あたしは思わず、女の人に歩み寄っていた。
「どんなことを?」
奥さんはあたしを見てにこっと微笑んだ。
「大したことじゃないのよ〜?ただ、私が結婚したってことを知ったら喜んでくれたかしら…ってね」
「…。」
「弟が死んだとき…本当に悪夢みたいだった…。あたしが夕飯の買い物を押し付けて、その帰り道にトラックにひかれたの」
奥さんの手が小さく震えているのがわかった。
「あの子…文句を言いながらも買いに行ってくれたわ。そのあと事故に逢うとも知らないで…
まだ、ほんの小学生だった…。私が行かせたせいで…私のせいで死んだの」
あたしは違うと言ってあげたかった。でも、話を聞いてあげなくちゃと思ってぐっと飲み込んだ。
「私は自分を責めたわ。どうして…どうして行かせたのって。あたしが自分で買い物に行っていれば、弟は生きていたのに、ってね…。毎日悲しみと後悔でいっぱいだった。物も食べずに家に閉じこもって…地獄のような日々だったわ」
あたしにはこの人が絶望の中で暮らす姿なんて、想像できなかった。
「でも、このままじゃいけないって気づいたの。こんな私を見たら弟が悲しむ、って。その気持ちが心の支えになって、今私はこうして生きているの」
奥さんはすっと顔を上げた。
「だから、弟に伝えたいの。私は今とっても幸せだから…安心して天国に行ってねって。
…無理な話だけどね」
奥さんはふふふと笑ったけど、あたしは笑えなかった。
「それで、ケティちゃんはどうだった?」
言うのがためらわれたが、ゆっくり口を開く。
「あの…実は弟さんに…あたし伝えるように頼まれてきたんです。あなたに、『結婚おめでとう』って」
奥さんははっとした顔になった。立ち上がり、両手をあたしの肩に優しく置いた。手の震えがあたしの肩に伝わってくる。
「あの子が…そう言ったの?あなたに?」
あたしは奥さんの目をまっすぐ見つめた。大きな瞳は涙で潤み、今にもあふれ出しそうだ。
「はい」
あたしは微笑んでうなずいた。
奥さんはそれ以上何も聞かなかった。代わりにぽろぽろと涙をこぼした。
厚いメイクが流れていくのも気にせずに黙って泣いていた。
そして、あの子と同じ笑顔でにっこり微笑んだ。
「ありがとう…」
帰る頃にはとっぷり日が暮れていた。女の人はもうすっかり泣き止み、旦那さんも帰ってきて、あたしは吐き気がするほどのあつーいラブラブっぷりを見せつけられた。
でも、あたしはムカつかなかった。これが、この人が悲しみを乗り越えた先で掴んだ、幸せの形なのだと思ったから。
一仕事終えて体はくたくたに疲れていたけど、妙にぽかぽかした気持ちだった。
あたしの人を見る目もまだまだってことが判明したし。
オレンジの屋根の家を振り返る。
見送りに出て来てくれた女の人は、旦那さんの腕の中でにっこり微笑んでいる。
その幸せな夫婦に手を振り、あたしは我が家へ向かって自転車を飛ばした。