第20話:消えてない
ケータイの時計は8時28分を指している。
学校が始まるのは30分。そして、こんなに一生懸命歩いてるのにまだ学校は見えてこない。
完璧ムリでしょ、これ。
急いだところで、汗でベトベトになって教室に入るハメになるだけだ。
あたしは無駄な抵抗はやめて、潔く遅刻していくことにした。
はあーっ、疲れた。息が苦しい。
早歩きで息切れなんて、体育のゴリが聞いたらきっと号泣するだろう。自分が体育向きじゃないってことくらいよーくわかってる。
一応頭はそこそこいいほうだけど、でも運動に関してはからっきしダメ。
50メートル走はみんなの100メートルと同タイム、ペアでキャッチボールをすれば友達の頭に飛んでいく。
なのであたしはなるべくスポーツと関わらないようにしてる。
これ以上担架を出動させないためにも。
あたしはケータイをつつきながらゆっくり歩いていくことにした。
ウサギのぬいぐるみは、うんともすんともしゃべらない。
最近義将はふらっといなくなるようになったからだ。
義将のことだから、どっかその辺でもうろついてるんだろう。
ほんっとに、自分から行きたいって言い出したくせにお気楽なんだから。
まあ、おかげであたしは今日一日気兼ねなく生活できる。体育の着替えのときケータイをカバンに置いていかなくてもいい。
通りには学生服の姿なんて一つもなかった。
あたしは本格的に遅刻してるらしい。
ぶらぶら歩いていくと、少し先の曲がり角から男の子が歩いてくるのが見えた。しかも、うちの高校の制服を着ている。
まさかあたし以外にも遅刻者がいるなんて。
でも、あいさつしちゃおうなんてことは思わない。
背も高いし茶髪だし、派手な先輩かもしれないから。そういう先輩ってニガテ。
だけどこのまま行くと、交差点で接触しなくちゃいけない。
あたしは迷ったけど追い抜くことにした。
目を合わせないように、下を向いて。もうちょっと…
「あれ、君…」
え?あたし?
しかもこの声には聞き覚えがある。
「ああやっぱり。この前の子か」
顔を上げてみると…げっ!
うっかり口から悲鳴が出そうになった。
あたしと目が合うと、『ナルシスト』はホストみたいに華やかな笑みを浮かべた。
今にもバラがこっちに降りかかってきそう。
「あ、どうも…」
あっちゃー、ついてない。
相手はそんなあたしを見下ろして言った。
「そういえば、まだ名前聞いてなかったよね」
「あ、朝日奈万夜…です」
「僕は高槻千尋。ちなみに3組」
「えっ同級だったんですか?」
相手は、にこりと優雅な笑みを浮かべた。揺れたピアスの銀色がきらりと光った。
「そ。だから敬語はナシね」
びっくり…てっきり先輩かと思ってた。
制服じゃなかったら大学生に見えたかもしれない。
でも良かった。麻海に報告するネタができたし。『高槻千尋』ね。
それにしてもこの人、何食べて生きてるんだってくらい華やかなオーラを発してる。
コーンと竹輪入りの味噌汁は食べてないってことは確かだ。
あたしみたいな一般庶民と立ってると、まるで雑種とドーベルマンを並べたように見えるに違いない。
しかも雑種のほうはヘアスタイルが相当崩れている。
あたしは何だか身体がぞわぞわしてくるのを感じた。
別に彼の高級感におじけづいたわけじゃない。
そばを通り過ぎていく女の人が、みんな彼のことをちらちら見ているからだ。それも、目をハートにして。
うげーっ、自分じゃないとはいえ、こんな熱い視線が飛び交う中にいたら窒息死しそう。
あたしは手早く話を終わらせて、ここから脱出しようと思った。思ったのだけれど…
「ねえ、よかったら一緒に学校まで行かない?」
「え…?」
不運なことに、彼のほうが先手だった。
とっても嬉しいお誘いだけど、なんていうか、正直言って、行きたくない。
今日初めて名前を知ったような人と何を会話すればいいのよ?
こういうのは、遠慮するに限る。
「あー、でもほら、高槻クンは急がなきゃいけないんじゃない?こんな時間だしー」
彼はぽかんとした顔をした。
「それはお互い様でしょ」
「うっ」
ま、負けた…
そのあと、あたしたちは学校までの長ーい道のりを歩いた。
意外とこの人と会話するのはラクだった。自分で勝手にしゃべってくれるから。
彼がテストの成績とか嫌いな先生の話をするのを、あたしは「うん」「へえーそうなんだ」を呪文のように繰り返しながら聞いた。
彼の長い足には、あたしのスピードは少々遅いらしい。すごーくゆっくりと歩いて、あたしに合わせてくれている。
こんな派手な見た目なのに、けっこう紳士なのかも。
「――そういえばさ」
「うん」
ああ、もう三百回目くらいの「うん」だ。
「万夜ちゃんのクラスって、この前転校生来たんでしょ?」
「あー、うん、来たよ」
万夜ちゃんなんて呼ばれたことにぞわっとしながら答えた。
「うちのクラスでも女子が騒いでたよ。すごくかっこいいらしいね」
「そう、だと思うけど」
「でもまあ、そういうやつに限って心は鬼のようにすさんでたりするけどね」
あー、ホントそれ。鬼のようっていうか、実際鬼だし。
そう、本物の…鬼…――?