第16話
学校は本当に何事もなく終わった。というのも、彼は今日ずっと来なかったから。
こっちはいつ来るかとひやひやしてたのに損した気分だ。
麻海はあのあと一日中ポーッとして、授業中もあらぬ方向を見つめていた。話しかけても、あたしの声が脳みそに届くまでに2秒はかかった。
一目ぼれなんてマンガの中だけのことだと思ってたのに、まさかこんな形でお目にかかるなんて。しっかり者の麻海をこんなにしちゃうとは、恋愛って恐ろしい。かわいいって言えばかわいいけど、今の麻海は本気で心配だ。ふらふらと事件に巻き込まれそうでほんと危なっかしい。
あの男の子のどの辺にクラッときたのかあたしには理解不能だけど、きっと麻海にはキラキラの王子様に見えているに違いない。
友人として文句の付け所ありすぎだけど、でも麻海が本気で好きになった人なら応援するつもり。根っから悪い人ってわけでもなさそうだし。
あたしはせいぜい麻海が危ないことに巻き込まれないように見守っていよう。
いつもより200%くらい輝きを増している麻海の笑顔に「バイバイ」と言って、家に向かった。
あたしは人通りの少ない道をとぼとぼと歩いていた。すぐ横のバリケードの向こうからは工事のけたたましい音が聞こえてくる。
「はあー…恋かあ」
ひとりでに口からこぼれた。
『はーん、小娘も男が恋しくなったか?』
「違うわよ!」
男がほしいって訳じゃなくて、恋がしてみたいと思っただけ。恥ずかしいことに、この17年間誰かを好きになったことがない。
だから恋愛と言われても想像でしか知らない。好きになった男の子と付き合って、手をつないだりキスしたりするんだろうな、ぐらい。
きっとすごく幸せなんだろうなとは思うけど、あたしのもとにはなかなか舞い降りてきてくれないんだから仕方ない。
「はああー、いいなあ麻海…」
『お前もその辺の男適当にひっさらえばいいじゃねーか』
「だからそうじゃなくて――」
そう言いかけたあたしの目に映ったのは他でもない、「彼」だった。
道の向こう側を歩いている彼は制服のままだ。やっぱりさぼりだな。
すると、あたしの視線に気づいたのか彼はこっちを向いた。そしてあたしと目が合うと明らかに嫌そうな顔をした。失礼なんだから。
あっかんべーでも返してみようか。
そう思ったとき、彼の表情がさっと変わった。
あたしはどんな反応を返すかで頭がいっぱいで、そんなことは微塵も気にしなかった。
でもあたしがその意味を察したのは、何かの影があたしをすっぽり覆ったからだった。
あたしはすぐに上を見上げた。
なんと、大きな鉄のかたまりがあたしに向かって降ってくる。
それがちらっと見えたのを最後に、視界は一瞬で暗くなった。耳元で風がごうっとうなるのが聞こえる。
風が鳴り止んだのと、ごおおんとすさまじい地響きがしたのは同時だった。
あたしはいつの間にか目をつぶっていたらしい。かたく閉じていた目をそっと開けると、最初に見えたのは成神聡也の横顔だった。すごくきれいな横顔。あたしはそれにしばらく見とれていたが、自分の肩をしっかりと掴まれている感触があることに気がついた。
よく見てみると、あたしはあろうことか、彼にお姫様だっこされていたのだ。
な、な、な、なんで―――!?
顔は一気に熱くなり、頭は湯気が出るんじゃないかというほど沸騰してあたしは危うくパニックにおちいりそうになった。
そんなあたしのことなんかつゆ知らず、彼はしゃがんであたしを支える手をはなす。
あたしはドスンとおしりから地面に落下し、情けない声をあげた。
「―――おーい!あんたら、大丈夫かー!」
工事現場の人たちがどたどたとこっちにやってくるのが聞こえる。
あたしは地面にへたりこんだままあたりを見回した。人だかりでよく見えないが、巨大な鉄筋コンクリートがひび割れたアスファルトに半分埋まっているのがわかった。間違いない。さっきあたしの上から降ってきたやつだ。
――なんで当たらなかったの?
「大丈夫です。離れたところにいたので」
「ああ、良かった…!ほんとに怪我がなくて何よりだよ…」
成神聡也が冷静に説明している声も、あたしの耳には入らなかった。
あたしは頭の中で今起きたことを整理した。
1、道を歩いていて、彼を見つけた。
2、見上げると、鉄骨が落ちてきた。
3、なぜか助かって成神聡也にお姫様だっこされていた。
4、おしりから落っことされた。
どう考えても2と3の間がおかしい。――ていうかありえない!
ばっと顔を上げると、成神聡也は工事現場の人に一通り話をつけてすたすたと立ち去ろうとしていた。
「ま…待って!」
声を出すのがずいぶん久しぶりのように感じた。彼は足を止めずに歩き続けた。
あたしは追いかけようと自転車の姿を探した。それはすぐに見つかった。
――変わり果てた姿で。
さっきの鉄筋コンクリートの下でぺしゃんこになっていたのだ。
「あああーーっ!あ、あたしの自転車…」
おんぼろだけどお気に入りだったあたしの赤い自転車…
だけど今は彼を追いかけるほうが先だ。自転車のなきがらに泣く泣く別れを告げ、あたしは遠ざかっていく彼を全力で追っていった。
何分経っただろうか、あたしのお粗末な体力は限界に近づいてきた。
こっちは走ってるのに、早歩きに追いつけないってどういうこと?
すると、ありがたいことに彼は足を止めた。
あたしはよろよろとスピードを緩め、ぜいぜい言った。
「なんでついてくるわけ?」
振り返った彼の顔は、いつもと変わらない無表情だ。
あたしは呼吸を整えて彼と向き合った。えらく走らされたおかげで、足がふらついている。
「ねえ…さっき、道の向こう側にいたはずだよね?」
興奮して声が震えた。あたしがそう言うと、彼は目をそらした。
「さあ」
「絶対いた!なんであたしを助けられたの?遠くにいたのに?普通あんなに速く動けるわけない!」
「普通だったら、な」
あたしは口をつぐんだ。その言葉の意味がわからなかった。あたしのことをからかってるんだろうか。
「何それ…普通じゃないって言いたいの?」
冗談のつもりで言った。だけど彼の表情は少しも揺らがなかった。
「――だとしたら?」