Light Blue Romance
短い置手紙を残して白い牢獄から逃げ出したのは、手術の前々日のことだった。
でたらめに列車を乗り継いで、長い長い時間をかけて、ようやくたどり着いたその場所は、北川村と言った。
富士の樹海とまではいかないが、鮮やかな緑が目にしみる。
できるだけ遠くに、できるだけ人の目の届かぬ場所に……。
死に場所を求めていた俺は、立ち木にしがみついたり、石にけつまずいたりしながら、ひたすら山の中を歩き続けた。
どのぐらい時間が経っただろう。
視界がかすみ、息が切れ、そろそろ限界だと思った時、木々にふさがれていた視界が開け、はじけるような日差しに包まれた。
最初はまぼろしかと思ったが、そうではなかった。
眼前に聳える巨大な絶壁の上に、濃いシルエットが佇んでいる。
思わず目を凝らした時、被っていた麦藁帽子を颯爽と空に放ったその人は、はるか足元に広がる紺碧の水面にダイブした。
長い髪がひるがえる。
空に溶け込んでしまいそうな水色のワンピース。
オリンピックの飛込競技を彷彿とさせる見事なフォーム。
呆然と見とれていた俺は、派手に湧き起こった水音に鞭打たれたように覚醒した。
草木をかきわけるようにして岸辺にたどりつき、水の中に走り込んだまでは良かったが、ガクンという奇妙な感覚とともに身体が沈み込み、たちまち水中に引きずり込まれた。
(昔は結構泳げたはずなのに……)
滅茶苦茶に手足を動かして、音がしたあたりに近付こうとした所で、あろうことか足がつってしまった。
溺れながらも必死で相手の姿を探したが、自分の声と自分がたてる水音以外は何も聞こえない。
何度も水を飲み、何度も息を詰まらせながら、俺はおのれの無力さに歯噛みした。
(手術台の上で切り刻まれて死ぬのと、川で溺れて水死体で発見されるのと、どっちがましだろう)
そんな思いが一瞬脳裏をよぎったが、もはや選択の余地はない。
(ここが俺の死に場所か)
まあいいかと思った時、身体中の力が抜け落ちた。
目に飛び込んできたのは、三途の川でもなければ、きれいな花畑でもなく、いくつもの染みが浮かんだ年代物の板天井だった。
「生きている」
「あたり前じゃない、何言ってるの!?」
蚊の鳴くような俺の声を耳ざとく拾い上げ、小生意気な言葉を返してきた小娘のことは知らないが、ハンガーに吊り下げられ、軒先で揺れている水色のワンピースには見覚えがあった。
「君も助かったのか」
誰が助けてくれたのかと訊ねると、はじかれたように笑い出した。
笑うようなことかと思ったが、それで事態が飲み込めた。
この上なく情けないことに、俺は助けようとした相手に逆に助けられていた。
「目の前でブクブク沈んじゃうんだもん、びっくりしちゃった。本当に大変だったんだから」
苦労して岸に引きずり上げた後、村の人たちを呼びに行って、ここまで運んでもらったのだという。
「みんなには親戚だって言っておいたから大丈夫よ」
何が大丈夫なのかはわからないが、仕方なく礼を言う。
満足そうに頷いた小娘は、ネコのような大きな瞳を一つ二つ瞬いて、俺の顔を覗き込んできた。
「私の名前は桜。桜の花の桜。あなたは?」
「……シロー」
子供の頃に飼っていた犬の名前を口にすると、良い名前だとほめられた。
「シロー、今夜はここに泊めてあげるね」
偉そうな物言いに腹が立たぬでもなかったが、出て行く気力も体力もない。
せめて小娘の親に挨拶だけでもしておこうと、苦労して上半身を持ち上げた。
「親?いないよ。今、ここにいるのは私だけ。あ、でも、シローを着替えさせたのは、私じゃないから」
聞かれもしないことまでしゃべってから、桜はすっと立ち上がった。
そのまま出て行くのかと思いきや、最後にもう一度振り返り、これまでの生意気な口調とは不釣合いな、優しい笑みを向けてきた。
「明日も泊まっていいからね」
驚いて顔を上げた俺と、視線を合わせることを拒むかのように、すっと襖が閉められる。
軽やかな足音がだんだんと小さくなっていき、そして何も聞こえなくなった。
眠ったら永遠に目が覚めないような気がしていたのに、意外にもすっきりと目が覚めた。
「シロー、朝だよ、ご飯できてるよ」
勢いよく襖を開けた小娘が、朝日を背にして無邪気に笑う。
今日は昨日のお嬢様スタイルとはうって変わったジーンズ姿だ。
白いTシャツからのぞく腕は、うっすらと小麦色に焼けていて、眩しいほどに健康的。
すっと伸びた足に細身のストレートジーンズがすばらしく似合っていて、無意識に見とれていた俺は、あわてて視線を泳がせた。
上がり気味の大きな瞳を持つエキゾチックな美少女は、俺には関係ないことだけど、あと数年もすればさぞかし魅力的な女になるだろう。
「残念だ」
ぼそりとつぶやいた時、小娘と目が合った。
食欲は全くと言って良いほどなかったが、身内に向けるような笑みにつられてノロノロと起き上がる。
洗面所には来客用の洗面道具が揃えられていた。
(歯ブラシはわかるとして、ひげそりまであるのは、なんでだ?)
頭をひねりながら男物の浴衣を脱ぎ、自分の服に着替えると、ふわりと良い香りがした。
「アイロンもばっちりかけたからシワ一つないわよ」
フフンと得意そうに笑った桜は、その得意そうな表情のまま、もといた座敷に俺を引っ張って行った。
「すごい、サザエさんの世界だ」
古風な卓袱台の上に純和風な朝食が並んでいる。
白い湯気をたてている味噌汁の香りを嗅いだ時、わけもなく涙が出そうになった。
それをごまかすために、下らぬ冗談を口にすると、桜はクスクス笑い出した。
「会ったばかりの男に、やたらと笑顔を見せるのは危険だと思うぞ」
老婆心で忠告してやると、きょとんと目を丸くした。
「シローも危険なの?」
「いや、俺は無害だ」
「どうして?」
「どうしてと言われても……」
箸を動かすことで辛うじて追求をかわしたが、桜は俺から視線を離さない。
穴のあくほど見つめられて、いいかげん居心地が悪くなった頃、ささやくような声で俺の、いや、俺が飼っていた犬の名を口にした。
「シローってきれいだよね」
「は?」
「あいつとは大違い」
「あいつって?」
思い切り俺の気を引いておいてから、桜はひょいと話題を変えた。
「夏休みは毎年ここに来ているのよ」
「十代のガキをたった一人でこんな田舎に住まわせる親の気が知れないな」
そのガキに翻弄され、内心舌打ちしながらも、俺は冷静さを装った。
「ここはお父さんの実家なの。以前はおばあちゃんが住んでいて、でも、少し前に亡くなって……」
「もう誰もいないのなら、どうして来た?」
浮かんだ疑問をそのまま口にすると、急に悲しげにうつむいた。
ふいに訪れた気まずい沈黙で、桜はじっと身を硬くしていたが、意を決したように顔を上げた時、その目は涙で潤んでいた。
見も知らぬ男に、なぜそんなことを話す気になったのか、わからない。
ひょっとすると、見も知らぬ相手だからこそ話す気になったのかも知れないが、俺は事の深刻さに青ざめた。
桜の父は桜が幼い頃に他界した。
母親は最近になって若い男と再婚したというのだが、その男がくせものだった。
「そいつ、何歳?」
「二十九」
俺と五つしか違わない。
「最低だ」
短い感想を漏らした俺は、味噌汁を静かに飲み干して箸を置いた。
きちんと手を合わせ、ごちそうさまと頭を下げてから、揺れている瞳に微笑みかけた。
「一宿一飯の恩義だ。俺に任せろ」
そうと決まれば、ぼやぼやしてはいられない。
桜が食器の片付けをしている間に、一万円札一枚を卓袱台の上にぽんと置き、そのまま出て行こうとした俺は、目の前に立ちふさがる小娘を見て、ぎょっとした。
「黙って行こうとしたのは悪かったが、怒るほどのことじゃないだろう?」
桜は何も答えない。
そのままどんと抱きつかれ、壁に背を預けたまま、俺はずるずると滑り落ちた。
「殺す気か!」
冗談のつもりだったのに、短い沈黙の後、きゅっと引き結んでいた唇から嗚咽が漏れ、俺をにらみつける瞳から涙がぼろぼろと零れ落ちた。
(ああ……そうか……)
濡れた瞳を覗き込んだ途端、相手が考えていることがわかってしまった。
急に脱力した俺は、右腕で桜を支えたまま、空いている方の手でこぼれかかる前髪をかきあげた。
「気を失っている間に医者を呼んだだろう?」
桜は何も答えなかったが、俺はそれを無言の肯定と受け取った。
「で、その医者は何て言っていた?」
やはり桜は答えない。
死のうと思って病院を抜け出したのに、上着のポケットに薬を入れておいたのは失策だった。
なかなか泣き止まない少女をもてあましたまま、俺は小さく吐息をついた。
「神は時として気まぐれだ。だが決して、無慈悲ではない」
気恥ずかしくなるような台詞だが、それが今の正直な気持ちだ。
親が望む大学を出て、中央省庁の官僚となり、フランスへ留学。
順風満帆だった人生に、ある日病魔が取り憑いた。
手術が成功する可能性はごくわずかだと知り、恐怖のあまり逃げ出したが、病院からは逃げられても、死からは決して逃げられない。
だったら死ぬ前に何か一つぐらい、人の役に立つことをやっておきたい。
桜のダイビングフォームは完璧な美しさを保っていたが、やはりあれは自殺行為だ。
父親とは名ばかりの、血のつながらぬ男に慰みものにされて、十五歳の少女が平気でいられるはずがない。
「こうして出会えたのも何かの縁だ。君をひどい目にあわせた男は必ず社会から抹殺する。ついでに君が独り立ちするまでの学費と生活費も提供しよう。ラッキーだったな。俺はこう見えても資産家の息子なんだ」
同情の涙なんてまっぴらだったから、俺はことさら笑顔をつくった。
本当はもう少し抱きしめていたかったけど、それはさすがに罪作りというものだ。
そっと引き離した身体は怯えるように震えていたが、俺は気付かないふりをした。
「いやなことがあっても、もう飛び込むんじゃないぞ」
頬を伝って落ちる涙も見えなかったことにして、背を向ける。
「シロー!」
悲痛な叫びも聞こえない。
「シロー、行かないで!」
何だか恋愛映画のラストシーンみたいだ。
そんな下らないことを頭の隅で考えながら、俺は一度も振り返らなかった。
病院の屋上にのぼり、青い空を眺めていると、あの日の鮮烈な記憶が蘇ってくる。
多分俺は、あの見事な跳躍を見せ付けられた時から、九つも年の離れた美しい少女に引かれていた。
桜の母親には悪いが、叩けば山ほど埃の出た男は、今は留置所の中にいる。
そのことを伝える手紙に同封した通帳と印鑑を、桜はちゃんと受け取っただろうか。
シローという名前で送った手紙には、この病院から遠く離れた郵便局の消印が押されているはずだ。
桜は俺を探せない。
単なる俺のうぬぼれかも知れないけど、探せない方がいいと思う。
全ての用事を済ませて病院に戻った俺は、医者に叱られ、両親に泣かれ、そして全てを受け入れた。
桜に出会った日から二週間ほどが経っていた。
そして明日は二度目に設定された手術の日。
往生際の悪かった俺も、さすがにもう、逃げようとは思わなかった。
(君は俺の分も幸せに)
空に向かってキスを投げた時、ガチャンと鈍い金属音がした。
落ち着きのない足音がまっすぐこちらに近付いてくる。
無粋な闖入者を無視したまま、万感の思いで空を見上げていた俺は、いきなり背後から抱きつかれ、がくりとひざまずいた。
「シロー!」
君に殺されるのなら本望だけど、それはやっぱりまずいだろう?
「……頼むから……首を締めないでくれ……」
ぱっと離れた腕を掴んだ俺は、そのまま身体を反転させて、水色のワンピース姿の美少女を腕の中に抱きこんだ。
「どうしてここがわかった?」
東京中の名だたる心臓外科医を片っ端から当たったのだと聞かされて、ヒュッと小さく口笛を吹いた。
東京の消印だけを頼りにそこまでする根性は絶賛に値するが、空しい努力と言えなくもない。
「おめでとう、ぎりぎりセーフだ」
俺にしがみついたまま、わんわん泣いている桜の耳元でささやいた。
「だが、手術が成功する可能性は二割に満たない。残念ながらこれでゲームオーバーだ」
冗談ぽく告げた途端、違うと思い切り否定された。
ただそれだけのことで、俺のできの悪い心臓が、柄にもなくどきんと鼓動した。
「シローは死なない、絶対に死なない、私、待ってるから、手術が終わって戻ってくるのを待っているから……」
途切れた言葉の続きが気になって、思わず身を乗り出すと、いきなりパジャマの襟を引っ張られた。
(病人を病人とも思わない、この大胆な小娘を誰か何とかしてくれ)
いくら待った所で、心の叫びを聞いて駆けつけてくれる者などいるはずもなく、ついに観念した俺は、せがまれるままに唇を重ねながら、水色の宝石を抱きしめた。
神は時として気まぐれだ。
だが決して無慈悲ではない。
奇跡なんか期待していないけど、それでも運命の女神が、俺にも桜にも微笑んでくれることを祈りながら。
―了―
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