2.ロード・オブ・ザ・トロージャン(3) <完>
「乳父温泉旅館 つるや」自慢の露天風呂からは、森林や小川などの爽やかな自然を臨むことができた。ぴかぴかに磨かれた岩に囲まれた湯舟には、絶えず源泉がつぎ足されている。豊富な湯につかりながら、遊笑は沸き立つ湯気が、秋の朝の柔らかな陽に向かって昇っていくのをぼんやりと眺めた。
「くはー……」
さらりとした湯を肩にかけながら、ついつい年寄りめいたため息をこぼしてしまう。体の芯まで温まったおかげで、肩や腰に滞っていた血が巡り、自然、体が伸びる。あまりの心地良さに、遊笑は陶然となった。
――日本人に生まれて良かったと思うこと。その一は、風呂である。
朝風呂を満喫して部屋に戻ると、食事が用意されていた。座卓の上に並ぶそれらを見た途端、遊笑の腹はぐうと鳴った。
よく考えたら、昨日昼食を食べたのを最後に、何も口にしていない。思い出した途端、ますます空腹を感じた。
浴衣のまま、いそいそと座椅子に腰を下ろし、望みもしないのに夜を共に過ごしたあの男を探す。
――プルート。宇宙からやってきた美しき侵略者は、窓の側に置かれた籐製のアームチェアに座って、外を眺めていた。
「プルート。ご飯食べないの?」
「いらん」
遊笑のほうを向きもせず、プルートはそっけなく答えた。
二人は昨晩危うく肉体関係を結ぶ直前までいったのだが、プルートのムードぶち壊しの発言を受けて、なんとか踏み留まることができた。今思えば遊笑は、この男の無神経さに感謝するべきなのかもしれない。
「でもほら、美味しそうだよ」
「…………」
気を使って誘うが、プルートは相変わらず外を見ている。その態度にカチンときて、遊笑は構うのをやめた。
昨晩は彼にプロレス技をかけたあと、寝室から無理矢理追い出した。そのあとプリプリ怒りながら、勢いのまま布団に横になった途端、あっさり睡魔に飲み込まれてしまった。救世主だの、侵略者との戦いだの、様々なプレッシャーに苛まれて、心身ともに疲れ果てていたのだろう、遊笑はそのままぐっすり朝まで眠ってしまった。 プルートも、寝室に踏み込むような狼藉は控えたようだ。そういうところは紳士なのかもしれない。――侵略者だけれど。
白木でできたおひつを開けると、炊けたご飯の匂いがもわっと湧き立ち、食欲を更にそそった。つやつやと一粒一粒が立った米飯を茶碗に盛ると、遊笑は嬉々として箸を動かした。
おかずは肉厚なアジの開きに、綺麗に巻かれた厚焼き玉子。地元産だろうか山菜のおひたしに、具だくさんの茶碗蒸し。海苔と香の物も付いている。味噌汁の具はわかめと豆腐だった。
まずは夢中で胃に収めて、やがて勝手に顔がほころんだ。質素だがどれもこれも上品な味付けで、食べれば食べるほど、体が喜ぶような感じがする。
「ああ、幸せだなあ……」
――日本人に生まれて良かったと思うこと。そのニは、食事である。
腹が膨れてくると、余裕が生まれるのか、プルートのことが気になった。
こんな幸せを一人で享受していていいのか。せっかくはるばる宇宙から来たのだから、プルートにも地球の、日本の良いところを知って貰いたい。彼は別に観光に来たわけではないのだが、遊笑はその辺りをすっかり忘れ、妙な使命感に燃えていた。
「あの……。ねえ、プルート。ご飯、本当に美味しいよ? 少しでも食べない?」
「…………」
ようやくプルートは遊笑を振り返った。
「私に食事は必要ない。だから、気を使わなくていい」
「そうなの?」
驚きに瞬いた目を、遊笑はあらかた食べてしまった食事の膳に戻して、改めて同情した。こんなに美味しいものを食べられないなんて。
「何も食べられないの?」
「食べられないというか……」
プルートは少し困ったような顔をして、視線を朝食が置かれた座卓の上に流した。
「それはなんだ?」
茶筒に急須、湯呑みと、一揃い載っている盆を、彼は指した。
「ああ、お茶の道具だけど……」
「お茶とは飲み物か?」
「うん、そうだよ。あ、飲んでみる?」
「――うん」
興味を持ってくれたことが嬉しい。遊笑はテキパキと急須に茶葉を入れ、お湯を注いだ。中身を湯呑みに移すと、茶柱が立った。
「あ」
「どうした?」
浴衣の袂をもう片方の手で押さえながら、遊笑はプルートのもとへお茶を運んでやった。自分の分も淹れて、持っていく。
「ううん。ほら、これ。小さな棒みたいなのが立ってるでしょ? これね、茶柱っていって、いいことがあるってしるしなのよ」
「ほう」
プルートは湯呑みを両手で受け取って、その中をまじまじと見詰めた。少々行儀が悪いが匂いを嗅いでから、茶を口に含む。遊笑は、プルートの正面にあった、彼の座っているものと対のアームチェアに、腰を下ろした。
「どう?」
「苦い……というんだろう、これは」
「ああ、まあね」
煎茶は上級者向けだったろうか。だがプルートは、続けて湯呑みに口を付けた。
「正直、これが美味いのかどうか、私には分からん。だがこれを飲みながら、お前と過ごしていると、なんだか落ち着く……」
「……ふふっ」
プルートが真顔でそんなことを言うので、遊笑は思わず笑みをこぼした。――悪い気はしない。
それからしばらく二人は、のんびりとお茶を飲みながら、外から聞こえてくる鳥の囀りに耳を傾けていた。
チェックアウトは十時だった。時間より少し前にフロントへ向かうと、宿泊料金は既に受け取っているとの説明を受けた。
「領収書の宛名は、どなた様に致しましょう」
「えーと……。上様で結構です」
「かしこまりました」
言われたとおりペンを走らせる宿の主を見て、昨日聞いた話を思い出した。
奥様を亡くし、その悲しみのあまり仕事に身が入らない……。このままでは早晩、この宿は閉じられてしまうのではないか。風呂も食事も素晴らしかったし、それはあまりに勿体ない気がした。
だからといって、自分に何ができるというのか。
「あの、とてもゆっくりできました。また来ます」
「……ありがとうございます」
せめてと感想を伝えると、宿の主人は深々と頭を下げ、どこか寂しそうに微笑んだ。
外は爽やかな秋晴れだった。
「とりあえず、駅に……って、どこ行くの!」
玄関から出た途端、プルートは旅館の敷地を一直線に歩き出した。足の長い彼について行くのは、なかなか骨が折れる。小走りになって、遊笑がなんとか追いかけると、プルートは隅の一角で立ち止まり、地面を見下ろしていた。
林との境になっているそこは、帯のように細長く十mほど、赤茶のレンガで仕切られている空間があった。土が盛られているところを見ると、花壇か何かだったのだろうか。だが今は何も植えられていない。
「どうしたの?」
遊笑が尋ねると、プルートは手の平を下にして、腕を伸ばした。
次の瞬間、彼の体は光りに包まれた。
「!」
昨晩、OMIYAスタジアムで見たのと同じ――だがあのとき白く輝いていたそれは、今日は黒炭のように真っ黒だった。黒々とした墨汁のようなそれが、プルートの手を伝って、目の前の土くれに零れるように落ちていく。ほんの数秒間の出来事だった。
「なに……?」
思わず遊笑は地面を凝視した。するとプルートの放った光を飲み込んだそこから、ひょっこりと若芽が顔を出した。
「えっ」
驚いている遊笑の前で、地面からは最初に誕生したそれを中心に、次から次へと新しい芽が誕生し始めた。あっという間に緑に包まれたそこは、間違いなく「花壇」である。
突如芽吹いた彼らの成長は止まらない。ぐんぐんと細い茎を伸ばし、たくさんの蕾ができた。早回しの映像を見せられているかのようだ。
遂に開いた花は、雅やかな紫色をしていた。
「わあ! コスモス!」
花壇一面を埋め尽くしたコスモスは、儚げな外見に似合わずしっかりと根付き、自身を揺らす風を物ともせず、咲き誇った。
「綺麗……。すごいね、あなたの力」
思わず感心して、遊笑はプルートを見上げた。
「たいしたことはしていない。この土は、まだ生きている。持ち主が丹精込めて世話をしていたのだろう。私は少し力を貸してやっただけだ」
「これは……」
驚いたような声に振り向くと、旅館の主がこちらに駆け寄ってくるところだった。
「一体どうしたことか……」
「さ、さあ……」
まさか宇宙人の変な力で咲いたとも言えず。すっとぼけることにした遊笑は、ちらりと傍らを仰ぎ見た。余計なことを言わなければいいがと心配した相手は、美しい顔を動かそうとしない。
「そう言えば、秋にはいつもこの花が咲いてたなあ……。うちのは土いじりが好きで、亡くなる直前まで世話をしていたものです。
でもワタシは、あいつが死んでから、手入れなんて全くしなかったのに。どうしていきなりこんな……?」
「た、種が残ってたとか? ――でなければ、奥様のメッセージじゃないでしょうか」
「え?」
「……頑張れって」
苦し紛れの台詞だったが、口に出してみると、あながち間違っていないのではないかと思えてきた。
土には、世話をした人間の想いが宿っていたに違いない。奥方が心をこめて育てた花壇は、きっと花を咲かせたがっていたのだ。
そして、その想いを、宇宙人が拾った。
病を押してまで手入れをしていたという、その花を咲かせたいという願いは、一体誰のため?
――後に残した夫を、慰めるためではないのだろうか。
「そうか……。そうですね……。そうかもしれません。あいつが死んでから、ワタシはあまりにも不甲斐なかった。この宿はあいつと二人でここまでにしたのに、それを潰すようなことをして……」
宿の主は眼鏡を外し、目頭を抑えた。
人は姿を失っても、きっとこうして、何かを残していく――。
「ワタシにはこういう趣味はなくて、無関心だったんだけど。
だけど――こんなに美しい花だったんだなあ」
男はしゃがみこむと、コスモスの花びらにそっと触れた。
「サトコ……」
それは亡き妻の名前だろうか。
「もう一度やってみようか。お前がしてくれたことを、ひとつひとつ思い出して」
まるでその言葉に答えるかのように、花々が風に吹かれて揺れる。
遊笑はプルートの背中を押し、涙を流しながら静かに思い出に浸る旅館の主を残し、そっとその場から離れた。
乳父駅へと向かう道は、人も車もまばらだった。
「少し見直した」
「何が」
「おじさんのこと、慰めてあげたんだ」
「……あいつはお面をくれたからな」
あの般若の面のことか。見れば、プルートは背中側のベルトの辺りに、あの面を括りつけている。しっかり持 って帰るつもりらしい。
「花は、人の慰めになるんだろう?」
それも遊笑の記憶を覗いたことで得た知識だろうか。
「優しいんだ」
「あの男が囚われていた感情は、孤独……だな。そういうのは、何となく分かる。――そのつらさも」
プルートもまた、孤独を知っているのだろう。
この男は、遠い宇宙を旅してきた。――きっともう長いこと、ひとりぼっちで。
想像するとたまらない気持ちになって、遊笑は思わずプルートの手を取った。
「…………」
握られた自らの手をじっと見詰めたあと、プルートは目を細めた。
「違うよ、これは! 恋とか愛とかそういうんじゃなくて、同情だからね!」
誤解させないためにと、随分ひどいことを言った気がする。気が咎めたが、プルートは微笑んだままだ。
「そうか。それでもいい。憐れみでも、何でも。
お前が私のことを思ってくれるのなら、その感情はあたたかい」
「…………」
遊笑はプルートの手をきゅっと握った。
侵略者らしく、乱暴で怖い人だったら良かったのに。
――どうしよう。どんどん惹かれていく。
背後から来た白いワゴン車が、二人の脇で停まった。
「遊笑さん!」
窓から顔を出したのは、怪しい三人組――もとい、地球防衛軍の面々である。
彼らは、遊笑とプルートの繋がった手を見詰め、うんうんと大きく頷いた。
「ち、違います! これは違うんです!」
遊笑の声が爽やかな森林の中、空しくこだました――。
後部座席に乗り込むと、遊笑は早速、例の布袋を取り出した。
「ミチルさん! これ! ひどいじゃないですか!」
「あら……」
ミチルはそれを受け取ると、袋を開けた。中身を確認してみれば、当然未使用である。
「使わなかったの? 遊笑さん、ダメよ! 一時の劣情に流されては! 傷付くのは、いつも女のほうなんだから!」
「そーじゃなくて! 使うようなことしてませんから!」
遊笑は真っ赤になりながら、ミチルの主張を遮った。
「大体なんなんですか、この袋の中身は! 一体、何が! 何から! 私を守ってくれるんですか!」
「だから……」
――適正な避妊具の使用は、女性を、予期せぬ妊娠と性病から守ってくれます。
ミチルはアナウンサーのような口調で、教科書に書かれているようなことを言った。
「………………………………………………………………………………」
ダメだ、こりゃ。遊笑は脱力し、話題を変えることにした。
「どうして、私なんです?」
それがずっと疑問だった。
プルートは、運命だの何だのテキトーなことを言っていたが、そもそも地球防衛軍が遊笑に目を付けた理由は何なのだろう。それこそ、ただのイケニエなら、他のもっと可愛い女の子でもいいではないか。
「いい質問だね、遊笑くん。ミチルくん、資料を」
「はい」
ミチルは傍らにブリーフケースの中から数枚の書類を取り出すと、遊笑に渡した。上質の紙の上には、「極秘資料」などと物々しい赤いスタンプが押されている。遊笑はどきどきと緊張しながら、それを読み進めた。
「侵略者プロフィール。身長198cm、体重不明」
どうやらこれは、プルートについて書かれた資料らしい。
「魚座、B型(共に地球人換算)」
「…………」
遊笑は資料から顔を上げた。
「これが何か?」
尼崎は助手席から身を乗り出し、振り返って言った。
「君の星座と血液型は?」
「………………………」
昔、こんなことがあったような気がする。
学生時代のことだ。
自分と相性のいい星座は?血液型は?
友達同士で回し合い、読み耽った雑誌には、確か占いの特集が組まれていて――。
まさか。
「私は占いで選ばれたんですか……?」
深々と頷いてから、地球防衛軍極東支部長官、尼崎一郎は、得意気に続けた。
「星座と血液型だけではないんだよ。四柱推命、風水、手相、人相。ありとあらゆる占いを試してみたところ、君が世界で一番、プルート様と相性の良い女性だという結果が出たのだ!」
「……………」
言葉が出ない。
「ちなみに、ミチルくんとイサムくんの相性もバッチリだったぞ」
「ま、イヤですわ、長官たら」
イサムは黙って運転しているが、ルームミラーに写った彼の顔は、まんざらではない表情を浮かべていた。
車内に、選ばれし乙女の叫びが響き渡る。
「あんたたち、三十年間も何やってたのよーーーーーーーーーー!!!!」
救世主が大暴れし出したために、徐行運転になるワゴン車の、その最後部に腰掛けた侵略者は、車内の騒ぎに一切関知せず、地球人たちの作った町並みを物珍しそうに見詰めていた。
「まあまあ、遊笑くん。ほら、お土産を買っておいたんだよ。ここの温泉まんじゅうは美味しくてね。多めに買っておいたから、ご家族や会社の方にも分けてくれたまえ」
「…………」
疲れたせいかようやくおとなしくなった遊笑は、尼崎から土産がぎっしり詰まった紙袋を受け取り、だが怒りは完全におさまらず、美貌の隊員に恨み言を言った。
「あの布袋に刺繍してあった、プロジェクト『ML』って『Make Love』ってことなんでしょう?最初から私をプルートのイケニエにするつもりで……。ひどいです!」
「え?」
ミチルが目を丸くする。尼崎にも遊笑の言葉は聞こえたらしく、彼は楽しそうに笑った。
「Make Loveか! なるほど、そうも取れるね。実にいい!」
「え? 違うんですか?」
「――違わないわよ、遊笑さん。結局はそういうことですもの」
ミチルは魅力的な笑みを浮かべながら、そう答えた。
「なんか引っかかる言い方するなあ……。
ところでこの車、どこに向かっているんですか? うちに送ってくれるの?」
「もちろんそうよ」
ふと遊笑は、自分の後ろの席にいる宇宙人のことが気になった。
「プルートはどこへ行くの?」
「同じところへ。君たちはこれから一緒に暮らすんだよ」
「!!!!!」
あまりのことに固まる遊笑に、ミチルは畳み掛けるように説明した。
「地球防衛軍のビルって、一部の施設以外は居住区――賃貸マンションになってるの。その一室に、遊笑さんとプルート様の新居を用意したわ。尼崎長官がオーナーだし、私とイサムくんも同じ建物内に住んでるから、安心して。困ったことがあったら、何でも言ってね」
というか、困ったことだらけではないか。
「いやそれは、無理です! 私、一応まだ嫁入り前だし! 男の人と同居なんて……!」
今まで沈黙を守っていた宇宙人が、ぼそりとつぶやく。
「遊笑が一緒じゃないなら、地球を滅ぼす」
「……!」
遊笑の「救世主」改め、「イケニエ」ライフは、もうしばらく続きそうである。
つづく
トロージャン(Trojan)=アメリカで広く使われているコンドームの商品名です。なぜアメリカかは深い意味はありません。すみません。