工場
ファッションビルの灯りを背にして、歩きはじめる。
二十分ほどで、街の顔は変わった。
最初に現れるのは、静まり返ったオフィスビル群だった。
昼間の気配を失い、ガラスの壁は灰色の空をぼんやり映している。
人影は少なく、足音だけが通りに響く。
さらに歩く。
やがて、建物の形が変わった。
背の高いビルの代わりに、低く横に広がる建物。
鉄の門、錆びたフェンス、太い配管。
工場が並ぶ地域に入っていた。
空気が少し重い。
遠くで機械の低い音が鳴っている。
街は、もう完全に別の表情をしていた。
「どこまで行かれるんですか?」
と俺は尋ねた。
「ちょっと待ってな」
と本郷所長はスマホを取り出し、どこかへ電話をしだす。
「工場の近くに来てるんやけど、今日はどこにおる?」
誰かと話している。
「わかった。じゃあこっちまで来て」
と言った。
「誰か来られるんですか?」
と俺は尋ねた。
「相沢っていうな。ここら一帯を見てる奴や」
と本郷所長は答えた。
ここら一帯を見てる奴ってどういう意味だろう。
俺は考えていた。
3分ほど経つと、
スキンヘッドで、強面の男が一人近づいてきた。
こっちに手を振っている。
あれが、相沢という人か?
「おぉ。すまん、すまん」
と本郷所長は手を振る。
「こいつは神原。うちで面倒みるからよろしくな」
と本郷所長は言った。
決まっているように言われることに多少躊躇したが、
もうあらがうのをやめた。
「神原です。よろしくお願いします」
と俺は頭を下げた。
「なにこの子、可愛いじゃない。よろしくね。相沢よ」
と相沢はウインクをした。
キャラにギャップがあり過ぎる。
「それで、今日は何の仕事をしてた?」
と本郷所長は尋ねた。
「今日は、印刷所のところの霊が、締め切りが怖いって暴れてたから、さとしてきたの」
と相沢は答えた。
「あぁあいつな。ひさしぶりだな。1年くらい大人しかったのに」
と本郷所長は顎をかいた。
「そうなのよ。
たまたま、持ち込んだ同人サークルのメンバーと霊が相性が悪かったんでしょうね」
と相沢は言った。
「そうか……それで、その同人サークルのメンバーには、何もなかったのか?」
と本郷所長は尋ねた。
「そのメンバーの子。結構トラブルメーカーらしくって、色々憑いてたんだけど、まぁ特に問題なかったわ」
と相沢は答えた。
(ぴゅーバタン)
相沢の来た方角から大きな音がした。
「おい相沢。あれ……」
と本郷所長は尋ねた。
「またあの子だわ。ちょっとゴネだした。私、見に行ってくるわ」
と相沢は来た方向に戻っていく。
午後六時半。
工場街の奥まった通りに、ひときわ小さな建物があった。
薄汚れた印刷所。
外壁はくすみ、看板の文字もところどころ色が抜けている。
工場の巨大な建物に挟まれて、
そこだけが取り残されたように建っていた。
入口の脇に、手書きの板が立てかけてある。
――「同人誌歓迎」
その文字は、なぜか勘亭流だった。
芝居の看板のように太く、妙に力の入った筆致。
古びた建物の前で、
その言葉だけが、妙に浮いて見えた。
「俺らも行こう」
と本郷所長は言った。
「はい」
と俺はうなづいた。
(ぴゅーバタン)
印刷所では、アルミ製の扉が開いたり閉まったりしている。
その傍らには黒い影があった。
どうもその影が、
それが扉を操作しているようだ。
「ちょっと……どうしたの?急に不安になった?」
と相沢は黒い影に向かって語りかけている。
どう見ても奇妙な光景だが、
印刷所のスタッフは誰一人特に気にもしていないようだ。
一人霊に語りかける相沢と、印刷所のスタッフのコントラストが、不可思議に感じた。
「皆さんにはこの現象が視えていないのですか?」
と俺は尋ねた。
「いや見えてるし、気付いているよ」
と本郷所長は答えた。
「ではなんで平然としているのですか?」
と俺は尋ねた。
「例えば、スーパーで、ある店員がクレーム対応をしているとする。
ほかのスタッフはそれを気にしてチラチラ見たりするか?」
と本郷所長は尋ねた。
「いえ、しません」
と俺は言った。
「それと同じよ。私たちは霊専門のクレーム対応部署みたいなものよ」
と相沢は笑った。
「もう治まったのか?」
と本郷所長は尋ねた。
「おはぎで手を打ったわ」
と相沢は答えた。
「じゃあ、いつものように領収書を頼むぞ」
と本郷所長は言った。
相沢はうなづく。
「おはぎってなんですか?」
と俺は尋ねた。
「あぁ、この霊はね。おはぎが好きなのよ」
と相沢は答えた。
「交渉はいるけどな。だいたい霊の好きなものをやると、治まるんだわ」
と本郷所長は言った。
「交渉って霊と話すんですか?」
と俺は尋ねた。
「話すって言い方は、少し伝わりにくいわね。実際、会話はしないから」
と相沢は腕を組む。
「どういうんだろう。話さなくても、目と目で伝わる愛みたいなのがあるだろ」
と本郷所長は答えた。
「そうね。私達みたいに」
と相沢は本郷所長の肩に頭を傾ける。
本郷所長は笑っている。
本気なのか、冗談なのか、まるでわからない。
「テレパシーとか、感覚的にわかるってことですか?」
と俺は尋ねた。
「そうね。感覚的にわかるってことよね」
と相沢はうなづいている。
「あとは場数で、答え合わせだよな」
と本郷所長は答えた。
「じゃあ、読み違いとかも、あるんですか?」
と俺は尋ねた。
「そうよ。初めて受け持つところはね」
と相沢は言った。
「この初めのすれ違いを調整するのが、うちらの業界で、クラッチをあわせるって言うねん」
と本郷所長は答えた。
「クラッチをあわせるですか……」
と俺は呟いた。
「そうよ」
と相沢は言った。
「こういう仕事を君にもやってもらうんや」
と本郷所長は俺の肩を叩く。
「しかし経験ないし、そもそも大学生ですよ。フルで勤務とかできませんし」
と俺は言った。
「受け持ちの場所が少なければ、特にやることのない仕事よ」
と相沢は答えた。
「そうやな。相沢も巡回しながら、落語のテープとか聞いてるもんな」
と本郷所長は言った。
「もう、いじわる。だって暇ですもん。落語のテープくらい聴くわ」
と相沢は本郷所長をつついた。
「あの、時給とかおいくらくらいなんでしょうか?」
と俺は尋ねた。
「相沢で今いくらやった?」
と本郷所長は言った。
「2,000円からスタートして、今で4,300円」
と相沢は答えた。
「そんなに貰えるんですか?」
と俺は尋ねた。
「受け持つところが増えたら、もっと増えるで」
と本郷所長は笑った。
俺は計算する。
時給4000円として、一日8時間労働、週休2日で年に768万。
4500円なら、一日8時間労働、週休1日で年に1036万。
「時給4500円で、一日8時間労働、週休1日で年に1036万になりますね」
と俺は興奮して言った。
二人は笑い出す。
何がおかしいんだ?
「まぁ計算は間違ってない。たしかにそうや。でもな、案外ハードやねん」
と本郷所長は笑った。
そりゃそうか。
ほんの数時間前まで、霊のせいで、地獄にいるように感じていたのに。
それで稼げると知ったことで、こんなにも浮かれてしまっている。
浅はかだったかもしれない。
「考えが甘かったかもしれません」
と俺はうつむいた。
「やっぱりあなた可愛いわね。少し甘いかもしれないけど、そのスイートさは大事になさい」
と相沢は笑った。
「要は効率化が上手くいけばいいだけやからな。
うちとしては、問題を起こさなければ、年収1000万でも2000万でも稼げるポテンシャルはある。
まぁ励めよ」
と本郷所長は笑った。




