第九話 血縁の影
元服の夜から、どれほどの月日が流れただろうか。
弁慶の瞳が映す平泉の山々は、幾度となくその色を変えた。春の桜が谷を埋め、夏の緑が滴り、秋の紅葉が馬の蹄を赤く染める。その傍らには常に、風を切り、泥を跳ね上げ、誰よりも鮮やかに駆ける牛若の背があった。
弁慶にとって、国衡や忠衡と共に奥州の険しい山河を縦横無尽に走り回るこの日々は、夢のような凪であった。牛若の貌は時の流れを拒むように瑞々しいままであったが、その双眸には、北の大地で研ぎ澄まされた武人の鋭さが静かに宿り始めていた。
この凪が永遠に続くのではないか。弁慶がそう錯覚し始めた、ある秋の夕暮れのことである。
柳之御所の夕餉を、庭の暗がりから弁慶は注視していた。
夜気が肌を冷ややかに撫でる。隣では三郎が、久方ぶりに姿を現したあの「影」――藤原基成を、油断なく見据えていた。
広間では、秀衡と牛若が向かい合っている。その傍らで基成が、盃を置くわずかな音に乗せて牛若に囁きかけた。
「……何でも、関東のあたりで、源家の者が……」
「基成殿」
秀衡の地を制すような声が庭まで届いた。その眼差しは氷のように冷たく、基成を射抜いている。
「今宵の酒が不味くなる。下らぬ噂話は、そこまでになされよ」
何を隠そうとしているのか。秀衡がこれほどまでに露骨な拒絶を見せるのは、これまで一度もなかったことだ。
「……弁慶。あんた、これ、絶対によくねえ話だぜ。大方、牛若さまを追い出す策謀に違いねえ」
様子をうかがっていた三郎が、耳元で吐き捨てるように言った。弁慶は答えず、ただ広間の中央で不思議そうに首を傾げている主の、折烏帽子から覗くうなじを見つめていた。ざらりとした、嫌な予感が胸の奥を這い回った。
吉次の屋敷を夜の闇が覆う。
心地よく酔いながら帰宅した牛若を、弁慶と三郎が寝所に導こうとしたその時、表から不意の来客を告げる声がした。
「……このような刻に、どなた様で」
屋敷の主、金売吉次が、燭台の火を揺らしながら現れた。
弁慶は、吉次の目が一瞬で温度を失うのを見た。現れた基成と泰衡に対し、吉次は商人らしい深々とした礼を捧げたが、その背後には隠しきれない棘があった。
吉次にとって牛若は、単なる預かり物ではなく、手塩にかけて磨き上げた至宝のようなものだ。その清らかな光を汚しに来た「影」たちへ向ける吉次の眼差しは、鋭い拒絶の色を帯びていた。弁慶は、自分と同じ「守護する者」の焦燥を、吉次の中に見た気がした。
「……家人の方々は、廊下へ。父上にも内密の話ゆえな」
泰衡の冷ややかな一言に、弁慶は長刀の柄を握りしめた。だが、酔ったままの牛若が「構わぬ、少しの間だ」と告げたため、背中を向けて下がるほかなかった。
閉ざされた襖の向こうから、低い話し声が漏れてくる。だが、厚い木板に阻まれ、言葉の意味までは届かない。
三郎が廊下の柱に背を預け、腕を組んだ。
「……ちっ、あの二人、何を腹の中に隠してやがんだか」
弁慶は闇を見つめた。内容は知らずとも、この気配は知っている。秀衡という完璧な慈愛から、あの無垢な天界の稚児を引き剥がそうとする、悪意の匂いだ。
さほど長居せずに二人が静かに去った後、部屋に入ると、牛若は興奮に顔を上気させたまま、畳の上で寝入っていた。三郎がそっと毛布をかけるその横で、弁慶は眠る主の睫毛の震えをじっと見つめ続けていた。
翌朝、弁慶と三郎を待たず、牛若は屋敷を飛び出した。慌てて後を追った弁慶と三郎が柳之御所に駆け込んだ時には、広間から、これまでに聞いたこともないような秀衡の咆哮が響いていた。
「……ならぬと言えば、ならぬのだ! 牛若、そなたはこの奥州から出てはならぬ!」
板敷を震わせる怒鳴り声。弁慶は、その「呼び方」に息を呑んだ。
「……牛若、と、呼び捨てにされたぞ」
三郎が、隣で声を震わせている。
「『義経殿』じゃねえ。……あれは、父親が息子を叱り飛ばす時の声だ」
その通りだ、と弁慶は思った。あの穏やかな王者が、一人の父親として、なりふり構わず我が子を繋ぎ止めようとしている。秀衡はしわがれた声を震わせ、逃げ場のない正論で牛若を諭していた。
「秀衡殿、私は生き別れた、亡父そっくりと噂される兄上に会いたいのです! 命を賭けて孤独の中挙兵されている兄上を、弟として見捨てるわけにはまいりません!」
弁慶にも事情は飲み込めた。牛若の叫びが、鋭い刃となって秀衡の理屈を真っ向から切り裂いた。その言葉に、秀衡の声音が目に見えて崩れた。
「牛若……わしはそなたの『父上』ではないのか……。これだけ長くわしの元にいてくれておるのに……」
その悲痛な問いかけに、牛若は「あ、あの……」と言葉を詰まらせた。返すべき言葉が見つからないのか、あるいは「父」という呼び名を、どうしても秀衡に重ねることができないのか。秀衡を深く傷つけたことを悟り、牛若はそれ以上、何も言えなくなっていた。
沈黙が広間を支配する。秀衡は、泣き出しそうな、けれど王としての威厳をかろうじて繋ぎ止めた声で、ぽつりと漏らした。
「……しかしながら、亡父の面影を持つ兄君に会いたい気持ちを、無下にはできぬ。万が一、万が一だ……万が一、ここを出ることになろうと、その際は精一杯の準備をしてやる。だから今は……いったん頭を冷やしておれ」
そのままそっと追い出された牛若は、谷底の道をふらふらと歩いていた。弁慶は、一歩後ろでその危うい足取りを見守っていた。三郎が必死に声をかける。
「牛若さま、早まっちゃいけねえ! あのじいさんの言う通りだ。何の算段もなくここを出て、会ったこともない兄君のもとへ行ってもどうなるか……」
「……三郎、止めるな」
牛若は泣き腫らした顔を上げ、熱っぽい瞳で二人を見た。三郎はその涙にぎょっとしたように色を失う。その目は、もはや平泉の黄金を映してはいなかった。
「ただの我儘と思ってくれるな。それだけではないのだ……ここにいては、秀衡殿に多大な迷惑がかかってしまう……私が、秀衡殿の疫病神になってしまう……私は、兄上に会い、助けねばならぬのだ。それが私の、定めなのだから……」
「う、牛若さま……」
弁慶は言葉を飲み込んだ。大粒の涙を溜めながら言葉を紡ぎ出す牛若に、三郎はおろおろするばかりだが、比叡山で学問を修めながら僧兵の場違いな醜い俗世も見てきた弁慶には分かる。牛若は昨夜、基成と泰衡の毒気に当てられたにちがいない。全ては二人の入れ知恵であり、策謀であろう。
牛若は、昨夜基成と泰衡に注がれたであろう毒を、自らの意志だと真っ直ぐに信じ切っている。
弁慶はごくりと唾をのみ込んだ。牛若がこれほどまでに秀衡を慕いながらも、最後まで彼を「父上」とは呼ばぬその一線に、奇妙な戦慄と、そして冷たい安堵を覚えていたのだ。あの方の心の「父」を埋める場所は、ここではない。ならば。
「……牛若さま。某弁慶は、どこまでも牛若さまのお供をいたします」
弁慶の低く力を伴った声が、秋の谷底にそっと響いた。




