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影の弁慶  作者: 甲田太郎


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第八話 黄金の鎖

 元服の夜を境に、平泉の時間は、()いだ水面のように穏やかに流れ始めた。


 奥州の主である秀衡が「この者は我が子なり」と公に宣言したことは、この地における不可侵の(ことわり)となった。牛若は血の繋がりこそないものの、秀衡の最も愛しい身内として、柳之御所(やなぎのごしょ)の日常に深く、静かに溶け込んでいった。


 ただ、あの日以来、泰衡と基成の二人が牛若や弁慶の前に一切姿を見せなくなった。廊下の角を曲がれば、そこに確かにいたはずの気配すら、陽炎(かげろう)のように消え失せている。弁慶は、その不自然なほどに静かな空白に、時折、言いようのない肌寒さを覚えることがあった。


 衣川(ころもがわ)の奥深く、深い緑に囲まれた谷底に、乾いた(ひづめ)の音が響き渡った。


 急な斜面を、一騎の馬が土煙を上げて駆け下りてくる。折烏帽子(おりえぼし)の下、汗の滲んだ額から耳元にかけての白い肌が、修練による高揚でうっすらと朱に染まっていた。かつて額を隠していた前髪はなく、露わになったその貌は、少年の危うさと武人の凛々しさが入り混じった、不思議な魅力を漂わせている。


「牛若さま、そんな急な坂、いくら身軽でも危ないですよー!」


 谷底で待っていた三郎が、やれやれといった風に手を振りながら駆け寄った。馬から飛び降り弾むような息をつく牛若の肩に、三郎は無遠慮に手をかける。


「ほら、見てください。せっかくの着物が土埃で真っ白じゃないですか。吉次さんが見たら、また泣き言を言いますよ」


 三郎は小気味よい手つきで牛若の袖や背中をはたき始めた。


「……こら、三郎。御身に気安く触れるなと、何度言えばわかるのだ。それに貴様、もう元服なされたというのに、いつまでその呼び名を……」


 一歩後ろで、長刀を傍らに置いた弁慶が、堪えきれぬように声を荒らげた。だが三郎はどこ吹く風で、牛若の襟元を整えながら、弁慶の方を振り返って薄笑いを浮かべる。


「弁慶、あんたはいつもいつもうるさいんだ。もっと楽にすれば良いのにさ」


「……よいよい。三郎、弁慶。そなたたちは、これまで通り『牛若』で良いぞ。その方が私も落ち着く」


 牛若は、二人のやり取りを愉しげに眺めると、潤んだ瞳を細めて微笑んだ。その言葉に、三郎は「ほら見ろ」と得意げに笑い、弁慶は一瞬、戸惑うように視線を泳がせたが、やがて深く、静かに一礼した。


「かしこまりました……牛若さま」


 ようやく喉の奥から絞り出したその呼び名は、どこか甘く、同時に重い誓いのように谷底へ響いた。


 そこへ、追いかけてきた国衡と忠衡が、静かに馬を並べて現れた。


「実に見事な手綱さばきでございますな、義経殿」


 国衡が、落ち着いた重みのある声で牛若を讃えた。


「谷を駆け下りるその度胆……まさに我ら奥州武士の魂を、既にその身に宿しておられるようだ」


 続いて、忠衡がいくぶん柔和な、丁寧な口調で言葉を添えた。


「父上が授けられた『義経』という御名……。鞍馬寺での尊きお経の学びを重んじられたのはもちろんのことでございますが、義経殿、実はそれだけではございませぬ」


 牛若が不思議そうに、首をわずかに傾げる。折烏帽子から零れた一筋の髪が、汗ばんだうなじに張り付いていた。


「名に、別の意味が……?」


 国衡が、深々と頷く。


「左様。我ら藤原氏の(いしずえ)を築かれた祖、経清つねきよ公。……理不尽な死を遂げられた先祖の御名から一字を継がれたのは、父上の深い思し召しに他なりませぬ。そなたを単なる客人ではなく、我ら一族の魂を繋ぐ鎖として迎え入れるという、不退転の誓いなのでございます」


 牛若の瞳が、驚きに大きく見開かれた。次の瞬間、その顔に陽だまりのような、混じりけのない喜びが弾ける。


「……経の字に、そのような重い祈りが。秀衡殿の情け、そしてお二人の温かさ! ……嬉しい。私は本当に、この地で新しい我が家を授かったのですね」


 牛若は、国衡たちの手を交互に握らんばかりの勢いで、幼子のように声を弾ませた。その無垢なまでの法悦(ほうえつ)は、彼を縛る鎖の重さなど微塵も感じていないようだった。


 会話が途切れた頃、国衡がふと、末席に控える家人の方々に視線を向けた。 「家人の方々。義経殿は、奥州に来られてから、いささか表情が柔らかくなられたのではないかな?」


 三郎が、すかさず弁慶の脇を小突いた。


「ほら弁慶、聞かれてるぜ。牛若さまが甘々になったってよ」


「黙れ、三郎」


 弁慶は少しだけ深く息を吸い込んだ。


「……国衡殿、恐れながら申し上げます。(それがし)は、あの五条の大橋で、この御方と極限の刃を交え、御身をお守りすると誓いました。貴殿らが知る今の牛若さまは、慈悲に満ちた一面に過ぎぬと心得ております」


 弁慶は、堅苦しいまでに背筋を伸ばし、主君への敬畏を言葉に込めた。


「……俺だけが、あの夜の、人を超越した真実を知っております」


 その言葉が終わらぬうちに、牛若が不意に歩み寄り、弁慶の太い腕にその指先を添えた。弁慶の身体が、一瞬で石のように硬直する。


「弁慶。そなたの言う通り、あの橋での出会いがなければ、私はただの木偶(でく)として終わっていたであろう。……三郎、そなたもだ。そなたたちの背を追ってここまで来たからこそ、私はこうして平泉の風を吸える。忘れてはおらぬよ」


 牛若は、弁慶の目を真っ直ぐに見つめた。


「そなたが私の孤独を終わらせ、私を人としてこの世に繋ぎ止めてくれたのだから。……もちろん三郎もな」


 三郎は主からの思わぬ称賛に「へへっ、当然ですよ!」とこれ以上ないほど鼻を高くし、満足げに胸を張った。


 一方で弁慶は、顔が焼けるように熱くなるのを抑えきれなかった。指先から伝わる主の微かな体温が、首筋を這うように駆け上がり、呼吸が浅くなる。


「……もったいなき、お言葉にございます」


 弁慶は、やっとの思いでそう絞り出し、耳まで熱くなりうつむいた。三郎が「あはは、牛若さま、こいつ本当に単純なんですよ」と囃し立て、国衡たちも快活な笑声を上げた。胸の奥が妙に熱くなる。三郎と同列であろうとも、今の牛若の言葉は身体の芯に響き、心臓を高鳴らせたのだ。


 その幸せな笑い声の中、弁慶はふと顔を上げた。


 遥か遠く、御所の高台に建つ物見櫓(ものみやぐら)の影。陽炎のように霞む距離ではあったが、そこには確かに、こちらを静かに見下ろす泰衡と基成の姿があった。


(牛若さまも、国衡も忠衡も、あまりにまっすぐ過ぎる……)


 彼らは、この均衡がどれほど危うい土台の上に成り立っているかに、まだ気づいていないのだ。


(……あの二人が姿を見せぬのは、諦めたからではない。この(なぎ)の時間に潜む影が、いつか牙を剥くのではないか……)


 弁慶の胸の奥に、不気味な寒気が音もなく忍び寄る。主がこの地で幸福であればあるほど、その裏側で、目に見えぬ影が濃くなっていくのを、弁慶は本能的に察していた。


 牛若は、再び馬に跨り、国衡たちと競うようにして駆け出していく。


「……牛若さまの後ろ姿、綺麗だな……」


 ぽつりと呟いた三郎の言葉を、弁慶は否定することができなかった。

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