第七話 源九郎義経
元服の儀の準備を待ちながら続く酒宴の席は、もはや祝儀の枠を超え、狂熱を帯び始めていた。
柳之御所の広間には、奥州の力強い地酒の香りが満ち、男たちの粗い吐息が灯火を揺らしている。
「さあ、牛若殿。もう一杯だ。そなたにこそ、この雫を味わってほしい」
秀衡は、自ら大きな杯に酒をなみなみと注いだ。
それまで少年らしくわずかしか酒に口を付けていなかった牛若は、秀衡に対してだけは見せる、蕩けるような柔和な微笑を浮かべて杯を受け、小さく喉を鳴らして飲み干した。初めて口にする酒の熱は、またたく間に少年の陶器のような肌を朱に染め、その澄んだ瞳を潤ませた。
弁慶は、一歩引いた場所でその姿を凝視していた。
普段の主は、家来に対しては優雅な尊大さがあり、触れることすらためらわれるほどに峻厳な気品ある対応を貫いている。だが、今宵の主は何かが違った。
牛若はゆらりと腰を上げ、足取りも危うげに弁慶と三郎のもとへ近づいてきた。
「……弁慶、三郎」
その声から、いつもの鋭い響きが消えていた。酒の香りを孕んで甘く上擦っている。牛若は弁慶の目の前で膝をつくと、重みに耐えかねるようにして、弁慶の太い腕にもたれかかった。弁慶は反射的に支えたが、腕の筋だけが固くなった。
「弁慶……なぜ、そのような怖い顔をしている。せっかくの平泉、せっかくの宴だ……。そなたたちが笑わねば、私は寂しくて、酒も苦く感じてしまうではないか」
湿り気を帯びた眼差しが、弁慶の目をじっと覗き込む。続いて、隣で呆然としていた三郎の首筋に、やや冷たい指先がふわりと這った。
「三郎。そなたもだ」
「あ、ああ」
真っ直ぐに見つめられた三郎は、いつもの無礼な口の聞き方はどこへ行ったのか、ただ口をもごもごさせ、指が膝の上で空を掴んでいる。
「鞍馬を出てから、そなたたちの背中ばかりを見てきたが……今宵は、私の方を見てくれ」
秀衡に甘えていた時の、幼子のような口調で囁かれる言葉だ。
弁慶は、心臓が爆発するかのような衝撃を受け、言葉を失った。あの豪胆な三郎でさえも、首筋に指が触れた瞬間から色を失い、呼吸を忘れたように視線を泳がせている。
(……まずい。普段のあのつれない様子はどこへ行った。この御方は、ご自身がどれほど残酷なまでに人を惑わせているか、微塵も気づいておられないのだ)
酒の力で、秀衡に向けるはずの「愛を乞う子供」の部分が家来にまで漏れ出している。その隙だらけの、心酔わせる甘やかな毒に、弁慶は不覚にも動揺を叩きつけられていた。
そこへ、基成が優雅な足取りで近づいてきた。泰衡もその背後に従っている。
「牛若殿、元服の儀を前に、心からお祝い申し上げます」
基成が扇を畳み、皮肉な光を宿した目で牛若を見下ろした。
「都を追われた源氏の種が、奥州の泥にまみれてようやく花開く。落ちぶれた家の末路としては、なんと物悲しく、憐れみ深い風情ではございませぬか」
泰衡もまた、棘のある声で追随した。
「まさに。我らのような者に拾われ、ここで名を成す。……ある意味では、都での惨めな死よりも、幸せな余生かもしれませぬな」
弁慶は怒りで拳を握ったが、酔いの中でゆらゆらと身体を揺らしていた牛若は、春の陽光を透かした花のような、どこまでも清冽な微笑を基成に向けた。
「……物悲しい風情。左様でありますな。基成殿は、散る花こそが最も尊いと説く教えを、よくご存じのようです。私の散り際まで案じてくださるとは、なんと情け深い……」
牛若はさらに泰衡の方を向き、とろりとした瞳で頷いた。
「泰衡殿。幸せな余生というのも、その通りかもしれない。私には、そなたたちのような兄が、これほど大勢いるのだから」
基成と泰衡の顔が、一瞬で強張った。嫌味が一切通じないどころか、牛若は彼らの悪意を「兄としての慈愛」として勝手に解釈し、慈悲の心で返したのだ。
「……聞いたか、基成っ」
少し離れた場所で聞いていたらしい秀衡が、酒で赤らんだ顔で声を張り上げた。
「わはははは」
基成と泰衡が決まり悪そうに退く。
「牛若殿は、自らの覚悟を花の如しと語られたぞ! 自らの最期を予見しつつ、なお散り際の美学を説き、泰衡を兄として慕うと言われた。なんと気高く、なんと深い洞察か。基成、お主が引き出してくれたこの言葉、まさに奥州の宝ぞ!」
基成は脂汗を拭い、泰衡はうつむいて拳を握りしめている。弁慶はその光景を背筋の凍る思いで見つめていた。
(……秀衡殿もまた、正気を失っておられる。主の放つ理に当てられ、基成や泰衡の低俗な悪意が、もはや耳に届かぬ聖域にいるのだ)
「さあ、時は満ちた。皆の者、源氏の血筋の正統なる継承者の、門出を見届けよ!」
秀衡の号令と共に、広間の中央に祭壇が設けられた。秀衡が重々しい足取りで牛若の前に立つ。
「これより、加冠の儀を執り行う」
秀衡の手が、震えながらも力強く、牛若の稚児特有の結び髪を解いた。解かれた髪が漆黒の滝のように少年の背に流れる。秀衡はその髪を一つにまとめ、大人の証である髻を固く結い上げると、その上に真っ直ぐな立烏帽子を戴せた。一人の武士としての、凛とした輝きが宿る。
「そなたの名は……源九郎義経と定める」
秀衡の声が、広間の隅々にまで染み通る。
「鞍馬寺での、孤独な修行の日々……そなたが修めた『経』の字を、これからは仏への祈りではなく、この世を正しく治めるための『義』の智慧とせよ。祈りを、祈りのまま終わらせぬ名だ」
王者の声に力がこもる。
「……義経、我が息子よ。そなたの歩んできた道は、全てに深い意味があったのだ。安心してこの陸奥に身を置かれよ」
初めて自分の過去を丸ごと肯定された牛若は、秀衡の手を握り、静かに目を潤ませた。
「……ありがたき、お言葉。この義経、一生涯、秀衡殿を父として仰ぎ奉ります」
その幸せに満ちた光景の背後で、いささか不快さを隠せずにいる基成の横で、泰衡の瞳に決して消えることのない冷たく濁った思いが宿っているのを、弁慶は見逃さなかった。弁慶は、新しく名を得た主の、あまりに清冽な背中を見つめた。
(……あの御方は今日、この眩い揺りかごの中に、ご自身を焼くための火種を蒔かれてしまった。その火が燃え上がる時、老いた秀衡殿は守りきれぬかもしれない。だが、俺だけは……俺だけは、その影の底で、あの方を抱きとめよう)
祝いの酒宴は続いた。牛若は酒の酔いと満足感にまどろみながら、秀衡の胸で安らかに目を閉じている。弁慶はその寝息の届かない距離に身を置いていた。




