第六話 泰衡と牛若
柳之御所の広間に漂う香の匂いは、どこか粘りつくような湿り気を帯びていた。北上川のせせらぎも届かぬその場所は、平泉にあって唯一、京の空気を呼吸しようともがいている異質な空間だった。
上座に座すのは、奥州の主である秀衡だ。そしてその傍らに、当然のような顔で収まっているのは、都から下向した貴族だと吉次が言っていた、藤原基成だった。
基成は扇で口元を優雅に隠しながら、切れ長の目を細めて牛若を見つめた。
「……いやはや、都からこれほど清らかな真珠が届けられるとは。秀衡殿、奥州の泥にまみれたご子息たちも、これから少しは身なりと立ち振る舞いを正さねばなりませぬな。のう、泰衡殿」
名を呼ばれた泰衡が、僅かに肩を震わせた。弁慶が吉次に聞いたところによると、彼は次男でありながら、秀衡の跡継ぎとされている。外祖父が都人の基成であるがゆえに、その血筋から御所の「京風」を体現すべき立場にあるようだ。
「……祖父上の仰る通り。都の風を運んでくださった牛若殿の存在は、我らのような辺境の者には眩しすぎますな」
泰衡の声は低く、丁寧だった。だが、その言葉の端々には、へりくだるふりをして、背後に控える長兄・国衡ら「奥州の生え抜き」たちを暗に貶める、冷ややかな優越感が滲んでいた。
弁慶は、末席でそのやり取りを凝視していた。
(この泰衡という男、己の脆弱さを『都の血』という薄い絹で包んでいる。だが、その内側で燃えているのは、本物の貴種であるあの御方への、拭い去れぬ気後れだ)
「都人を気取った基成の口も、それに呼応する泰衡の口も、俺は好かんな」
「慎め、三郎」
弁慶はたしなめたが、あまり気持ちのよい光景ではなかったのは確かだ。
数刻後、御所の馬場にて、流鏑馬が執り行われた。
藤原基成は、馬上の武者たちを眺めながら、さも知った風に牛若へ語りかけた。
「牛若殿、これはもともと都の雅な遊びがこの地に伝わったもの。東夷の荒くれどもが、いかに都の粋を解しているか、ご覧あれ」
その言葉を証明しようと、最初に馬を走らせたのは泰衡だった。都の洗練を背負う跡継ぎとして、最も華麗に的を射抜かねばならぬ場面だ。だが、放たれた矢は、力なく空を切り、的の手前の土を空虚に叩いた。馬場は静まり返り、泰衡の顔が屈辱で朱に染まる。
「……ふん」
弁慶の横で三郎が鼻で笑った。
続いて馬を飛ばした長兄の国衡は、地鳴りのような蹄の音と共に、三つの的を粉々に砕いてみせた。その剛毅な姿に、ようやく観衆から安堵の混じった歓声が上がる。
そして、牛若が馬に跨った。
鞍馬の険しい山道を、重みなど知らぬかのように駆け抜けてきた少年にとって、平坦な馬場は庭も同然だった。牛若が放つ矢は、狙うというよりは、初めからそこにあるべき場所へ吸い込まれるように、三つの的の真ん中を静かに貫いた。
「さすが牛若さまだな」
三郎が得意気に声を上げると、弁慶も無言でうなずく。
弁慶は五条の大橋で仰いだ天界の稚児をまた見せられ、胸が熱くなった。
「牛若殿、今の身のこなし、さすがは源氏の御曹司だ!」
休息の最中、末弟の忠衡が顔を輝かせて駆け寄ってきた。
「国衡兄上も凄いが、牛若殿のは、まるで風が矢を運んでいるようでした。……なあ、牛若殿。知っていますか? 兄上はあれほど強いのに、跡継ぎにはなれないのですよ。泰衡兄上が、あのお方の血を引いているというだけで。……馬鹿げた話ですよね」
忠衡は落ち着いた口調で、とんでもない内情をさらりと漏らした。牛若はその言葉を静かに聞いた。
「……はい。力ある者が報われぬのは、理にかなわぬことですね」
牛若の返答は短かった。彼は何かを憤っているわけではなく、ただ、目の前の風景が歪んでいることを、奇妙なものを眺めるような目で見つめていた。
「あれは、複雑な事情を理解している顔じゃねえな……」
三郎が危うそうな声音を漏らす。
「うむ。綺麗な声で返答しておられるだけ。牛若さまに汚い大人の世界を理解するのはまだ難しいのかもしれぬ」
弁慶は、あの天界の稚児の神々しさを思い出しながらも、忠衡の言葉をうまく理解できない牛若は、それはそれで魅力的に思える気がした。
やがて、一行はそのまま酒宴の席へと招かれた。
秀衡は上機嫌だった。手元の杯には何度も酒が注がれ、その頬は朱に染まっている。
和やかな空気の中、泰衡が立ち上がった。
「一首、詠ませていただきます」
流鏑馬での無様な失敗を、己の領分である「雅」を以て塗りつぶそうとしたのだろう。泰衡の詠んだ歌は、実に見事なものだった。基成が「これぞ奥州の光じゃ」と喝采を送り、場は再び泰衡を中心に回り始めた。
その時だった。牛若が、春の陽だまりのような、どこまでも優しい微笑みを湛えて泰衡を見つめた。
「泰衡殿。なんと、素晴らしい調べでしょう。あなたの詠まれる歌には、本当の都の風が吹いております」
清らかな声。泰衡は、ようやく自分という存在が正当に認められたと、満足げに目を細めた。だが、牛若の言葉はそこで終わらなかった。
「……これほどまでに雅を解される泰衡殿こそ、文の力でこの平泉を導くべきお方です。弓矢のことは、あのように頼もしい国衡殿にすべて任せれば、泰衡殿は不得手な武に身を削ることもなく、皆が幸せにございましょう」
そのままそっと秀衡の方へ、幼子のように純粋な瞳で向き直る。
「秀衡殿。それがこの地の、何よりあるべき姿ではないでしょうか」
広間から一切の音が消えた。
弁慶は普段あれだけ豪胆なつもりでいたのに、口から心臓が飛び出そうなほど動揺し、膝の布地をぎゅっと握り締めていた。
牛若の言葉には、皮肉も悪意も、一滴も混じってはいない。少年はただ、「歌の得意な者は歌を詠み、戦の得意な者は戦をする」という、残酷なまでに単純な理を述べたに過ぎないのだ。
泰衡の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。隣で、忠衡が「なるほど、まさに仰る通りだ」と、これ以上ないほど力強く頷いた。
弁慶は、思わず頭を抱えた。横の三郎も呆然としている。
(……まずい。牛若さまは、泰衡殿から『武家としての矜持』を根こそぎ奪い、暗に跡継ぎ失格だと突きつけてしまわれた。しかも、それを忠衡殿がこれ以上ない形で肯定してしまった……)
「わはははは!」
この沈黙を、酔いの回った秀衡が、豪快な笑いで塗りつぶした。
「牛若殿、まさにその通りよ! 泰衡、お主は雅を極めるがよい。国衡、お主は力で支えよ。……そして牛若殿、そなたにはその両方がある。そなたこそが、我が平泉の新しい光よ!」
秀衡に悪気がなかったのは、傍目にも明らかだった。むしろ、息子たちそれぞれの「居場所」を少年が示してくれたことに、老いゆえの感動すら覚えているように、弁慶の目には映った。
だが、その態度は実子たちを遥かに凌ぐ、天界の稚児への全人格的な肯定に他ならない。泰衡の身になれば、それは父からの「お前は牛若に劣る」という、公の絶縁状を突きつけられたも同然であると、弁慶は背筋の凍る思いで察した。
泰衡の唇が、僅かに震えた。
「……牛若殿の御眼力には恐れ入ります。私を案じての温かい御言葉、肝に銘じておきましょう……」
絞り出された声は、まるで凍りついた氷が割れるような響きだった。
「よし、決めたぞ。これより、牛若殿の元服の儀を執り行う!」
秀衡の声が広間に響き渡り、弁慶はその急な話に腰を抜かしそうになった。




