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影の弁慶  作者: 甲田太郎


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第五話 平泉の抱擁

 北上川(きたかみがわ)の流れは、どこまでも深く、静かだった。


 辿り着いた平泉の地は、京の者が「東夷(あずまえびす)の巣窟」と蔑むような荒野ではなかった。むしろ、そこに広がるのは、黄金を惜しみなく注ぎ込んだ極楽浄土の写し世だった。


 中尊寺(ちゅうそんじ)(いらか)が夕日に焼かれ、眩いばかりの光を放っている。その壮麗さは、都の模倣ではない。自らの血と富と祈りで築き上げた、誇り高き異郷の輝きだった。


 だが、その輝きの傍らで、弁慶は肌に刺さるような「冷たさ」を感じていた。


 吉次の屋敷へと向かう一行を、道行く奥州の人々が遠巻きに見つめる。泥にまみれた弁慶の巨躯(きょく)には怯えの視線を送り、そしてその傍らを歩く少年の姿には、畏敬とも拒絶ともつかぬ複雑な眼差しを向けていた。一人の少年が纏う、一点の曇りもない都の気配。それは、長年「野蛮」と蔑まれてきた奥州の人々にとって、己の卑下を突きつける残酷な鏡に他ならなかったのではと、弁慶には思えてならなかった。


(……この眩しさこそが、彼らには毒なのだ)


 天界の稚児が地上に降り立ったかのような、主の清冽(せいれつ)さ。吉次が鼻を高くして歩くほどに、地元の人々の肩はすぼまり、視線は鋭くなる。その「見えない境界線」の中にあって、牛若だけが何も気づかぬように、北の風を吸い込んで微笑んでいた。




 その夜のことだ。


 吉次の私邸へ招かれた一行は、豪奢なもてなしを受けた。だが、吉次の様子はどこか落ち着かなかった。給仕の隙間に何度も外の気配を伺い、その瞳には商人の狡猾さとは異なる、切羽詰まった緊張が張り付いている。


 深夜、屋敷が深い眠りに沈んだ頃、弁慶は隣の部屋で眠る主君の寝所から、衣が擦れる微かな音を聞き取った。廊下を忍び足で進む足音が続く。それは主だけのものではない。吉次が先導しているのだ。


 弁慶が音もなく上体を起こすと、闇の中から同じように身を乗り出した三郎と目が合った。


「……行くぞ」


 三郎が唇の動きだけで告げる。二人は示し合わせたように、無言で武器を手に取った。


 吉次は時折立ち止まり、背後を執拗に確認しながら、人目を避けるように牛若を裏手へと導いていく。その様子は、高貴な客人を案内するそれではなく、禁じられた取引へ向かう密偵のようであった。


 屋敷の裏に、月光の届かぬ鬱蒼(うっそう)とした森が広がる。


 弁慶と三郎は、気配を消してその影を追った。枯れ葉一枚鳴らさぬ歩法は、比叡山と盗賊の根城でそれぞれが磨き上げた「負の技」だ。三郎は樹上(じゅじょう)の闇へ、弁慶は草叢(くさむら)の陰へ。互いの心臓の鼓動が、静寂の中で耳障りなほど大きく響く。


 森の奥、小さな開けた場所に、その男はいた。


 松明も灯さず、ただ月の雫を浴びて岩のように動かぬ影が、藤原秀衡だった。鎧兜は着けず、動きやすそうな武士の直垂を纏っただけの姿だ。だが、その佇まいには、数多(あまた)の争いと政治の泥を潜り抜けてきた、岩のような重厚さがあった。月明かりの端に、吉次が影のまま控えていた。



「……ありゃあ、優しく迎える顔じゃねえな」


 前方の広場で足を止めた影――秀衡の威容を認め、三郎が闇の中で低く囁いた。


「平家への手土産に、牛若さまの首を差し出す算段か。あるいは、都への忠義を示すために、ここで始末するか。弁慶、いつでも行けるようにしておけよ」


「むろんのこと」


 弁慶もまた、腰の長刀の柄を握りしめ、獲物を狙う獣のように気配を殺した。


「……源氏の看板として、都合よく使い潰すための『駒』とするつもりか。あの老人の眼光、ただの老いぼれではない。奥州の王者が、主をどう扱うつもりか、その腹の内を見極めるまでだ」


 二人の脳裏には、最悪の物語がよぎっていた。弁慶が飛び出すべく足に力を込めた、その時だった。秀衡が、地を這うような冷徹な低い声を発した。


「……牛若殿であられるな」


 張り詰めた空気が、森の木々を凍りつかせる。


「秀衡殿……!」


 牛若のいささか甲高い声が、夜の静寂を鮮やかに彩った。警戒も、殺気も、主はそれらすべてを無視し、あるいは気づかぬまま、吸い寄せられるように秀衡のもとへ歩み寄ったのだ。


「吉次から、平泉の美しさを幾度も聞いておりました。中尊寺の黄金の仏様、そしてこの地に流れる穏やかな空気。すべてが私の想像を超えております。この日を、この地に来られる日を、私がどれほど待ちわびていたか、秀衡殿には分かって頂けるでしょうか」


 貴公子としての品位を保ちながらも、その言葉は(せき)を切ったように溢れ出した。道中の苦労。都での孤独。誰にも頼れなかった日々を埋め合わせるように、牛若は秀衡を見上げ、一点の曇りもない瞳で語り続ける。


「……平泉の風は、都のそれよりもずっと優しく感じられます。吉次が言った通り、ここには本当の拠り所があるのだと。お会いしとうございました、秀衡殿。私のことを、待っていてくださったのでしょう……?」


 打算も、都の権威も、そこには微塵もなかった。ただ一人の孤児として、自分を全肯定してくれる存在を求める、剥き出しの慕情。その純粋すぎる熱量に当てられ、秀衡の老将としての鉄の仮面が、みるみるうちに崩れ去っていく。


「……おお」


 秀衡の口から、感嘆とも吐息ともつかぬ声が漏れた。都の者たちが奥州に向ける蔑みや、利用しようとする奸計。それらを想定し、牙を研いでいた老王者の心が、一人の少年の無垢な言葉によって根こそぎ溶かされていく。


「牛若殿……よくぞ、よくぞ参られた。左様な細い身で、ようここまで歩まれたものよ」


 秀衡は感極まったように、牛若の華奢な肩を包み込むように手を置き、そっと引き寄せた。それは抱擁と呼ぶには節度があったが、それゆえにこそ、深く、揺るぎない慈愛に満ちていた。牛若は、秀衡の傍らで、かつて弁慶が見たこともないような、満足げで安らかな笑みを浮かべている。


 その「父子の領域」を、弁慶は闇の中から、内臓を素手で掴まれるような痛みと共に凝視していた。


(……五条の大橋で見せた、あの完成された天界の稚児の如き孤独は、どこへ行った)


 自分が命を懸けて守ろうとした主が、今は見知らぬ老人の手に触れられ、隙だらけの子供に成り果てている。自分たち二人が、暗殺を警戒して刀に手をかけていたことなど、主は一瞬たりとも気づいていなかった。その視界には、もはや「父」という名の幻影しか映っていないのだ。


「……おい、弁慶。あれじゃあ、俺たちの出る幕はなさそうだな」


 三郎が、どこか自嘲気味な、寂しげな声を漏らした。弁慶は答えなかった。ただ、主のあの弛緩(しかん)した笑顔が、自分に向けられたものではないという事実が、毒のように胸を蝕んでいた。


「――家人の方々よ」


 不意に、秀衡の声が飛んだ。牛若の背に手を置いたまま、秀衡の視線だけが背後の闇を的確に射抜いた。その目は、再び「奥州の覇者」のものに戻っていた。


「主を案じる心は良し。だが、これより先は身内同然のひとときよ。家人の方々は、まだしばしお待ちあれ」


 その丁寧ながらも峻厳(しゅんげん)な拒絶に、弁慶は岩のように硬直した。主は、秀衡の傍らで幸せそうに目を閉じている。自分たちを振り返ることも、名を呼ぶこともない。


 弁慶は、冷えた地面を握りしめたい衝動を抑え、深く、静かに一礼した。


 主を救ってくれる「父」が現れた。それは祝うべきことのはずだった。だが、弁慶の胸に渦巻くのは、安堵などでは到底ない、焼け付くような疎外感と、主を奪われたことへの思いだった。

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