第四十一話 帳面女
広間には、正室の輿入れという抗いがたい事実がもたらした、重苦しい静寂が降り積もっていた。
上座に座る牛若の純粋な瞳が、きらきらと輝いている。そこにあるのは、無防備な歓喜だけだった。
その異様な空気の中で、奥歯を噛み締めていた弁慶の視界の端に、微かに揺れる衣の気配が入った。
話を聞かされたばかりの静御前が、自身の白い指先を強く握り込み、複雑なため息を一つこぼしていた。そして、愛しむような、けれどどこか諦観の混じった眼差しで牛若を見つめた。
「まあ……それは、誠におめでたいことですわ。私と母は、元の家に戻ったほうがよろしいですわね。正室さまがいらっしゃる場に、私が最初から陣取っているのは、さすがに厚顔無恥が過ぎますわ」
静は気丈に微笑み、身を引こうと一歩下がった。だが、それまで兄からの労いに歓喜していた牛若の顔色が変わった。
「……なぜだ?」
いつになく甲高い、焦燥に駆られた声だった。
静が「ですから……」と何かを言いかけようとした言葉を、牛若の悲鳴のような叫びが遮った。
「ならぬ! それは私が困る。そなたはここで暮らすのだ……! どこへも行くでない!」
次の瞬間、牛若は身を翻そうとした静の袖をぎゅっと握りしめた。
戦場では神業を見せる天界の稚児が、まるで母親に見捨てられまいと必死に縋り付く幼子のように、なりふり構わず女の袖を引っ張っている。
そのあまりにも無防備で生々しい姿に、男たちの間でどよめきにも似た動揺が走っていた。
三郎と鷲尾が、顔を真っ赤にしてどぎまぎと視線を彷徨わせる。継信が気まずそうに顔を背け、忠信もそれに倣って俯く。駿河に至っては、無表情のまま口を真一文字に結び、石像のように固まっていた。
だが、弁慶の腹の底で渦巻いたものは、彼らのような戸惑いではなかった。
牛若が女の袖を引いて幼子のように縋り付くという、その危うく脆い姿。それは、弁慶の胸の奥を甘く痺れさせるような興奮を呼び起こすと同時に、こめかみの奥をきりきりと不快に脈打たせた。
あの夜の涙も、法皇の前で見せた動揺も。あの恐ろしいほどの脆さの奥にある空洞の深さを、三郎ごときが測れるはずもない。あの方の真実を真に理解しているのは、世界で自分だけだったはずだ。それが今、無知な従者全員の目の前で白日の下に晒されている。
喉の奥からせり上がってくる暗い熱を、弁慶は太い指の関節が白くなるほど握りしめることで、強引に胃の腑へと押し留めた。
沈黙を強いられた弁慶の目の前で、牛若は静の袖をぎゅっと引いたまま、逃げるように奥の寝所へと消えていった。
それから数日経つと、夕暮れの風は微かに涼しさを増し始めていた。
西日が傾きかけた六条堀川の屋敷の門前に、一人の女が立っていた。静のような儚く艶やかな白拍子の風情とは対極にある、きりっと結ばれた唇と、意志の強そうな鋭い双眸。御家人の娘らしい、隙のない佇まいだった。
「あんた、まさか一人で来たのかよ……!」
慌てて玄関に出迎えた三郎が、女の後ろに誰もいないのを見て素っ頓狂な声を上げた。
「従者や腰元は、門前で引き返させましたわ」
郷御前は、三郎の驚きなど意に介さない平然とした声で言い放った。
「夫となる方のお屋敷に入るのに、ぞろぞろと無駄な連れなど必要ありません」
そう言うなり、郷御前は出迎えた他の男たちへの挨拶もそこそこに、鋭い観察眼で庭や屋敷の造りを舐め回すように見つめた。
「ここが義経さまのお屋敷ですの?」
郷御前の抑揚のない、だがよく通る声が響いた。
「門番を置く人員がいないのでしたら、こんな見栄えだけの綺麗な石を並べる前に、もっと生垣を工夫して、外から中を見えにくくするべきですわ。警護の体をなしておりません」
到着するなり、容赦のない理詰めの指摘が飛ぶ。
その軍律を重んじるような物言いに、三郎は鼻白んだように鷲尾の肩を小突いた。
「なんだあの女……あの理屈っぽくてうるせえ感じ、どこかの誰かと同じ匂いがするぜ」
「しっ、聞こえるぞ……!」
「まるで、あの帳面じじいの親戚じゃねえか。こりゃあ、帳面女だぜ」
鷲尾が慌てて口を塞ごうとするが、三郎は忌々しげに吐き捨てた。
その時、庭先に立っていた駿河の顔を見た郷御前が、ぴたりと足を止めた。
「駿河次郎殿ですわね。お久しぶりですわ」
無愛想な棘のある挨拶だった。
その言葉を受けた駿河は、微かに肩をびくつかせると、ひどく強張った横顔を見せ、ふっと視線を外した。
「……はっ。ご無沙汰しております」
駿河はそれだけ絞り出すと口を噤んだ。
弁慶は、その駿河のひどく居心地の悪そうな様子から視線を移した。この一人で乗り込んできた女は、紛れもない厄介な鎌倉の監視者であるにちがいない。
「……どうした?」
検非違使の巡回から帰還して休んでいた牛若が、奥から姿を現した。
牛若の右手は、しっかりと静の袖を引いていた。後ろには磯禅師が控えている。
その佇まいに、郷御前の鋭い双眸が見開かれていた。微かに息を呑む音が聞こえてくる。
薄化粧が施された、この世のものとは思えない天界の稚児の顔立ちに、きりっとした女の頬が一瞬だけ朱に染まるのが見えた。
だが、それはほんの瞬きほどの時間だった。
次の瞬間、郷御前はぐっと奥歯を噛み締めていた。頬の赤みは残ったまま、目つきだけが恐ろしいほど冷徹な理の光を取り戻す。
(……この女、己の動揺を即座に殺しおった)
弁慶の目が細められた。ただの女子ではない。己の感情すらも強烈な理性で管理下に置こうとする、底知れぬ芯の強さを持った女だ。
表情を引き締め直した郷御前の視線が、牛若の手に握られた「静の袖」へと突き刺さった。目つきが、氷のように鋭くなる。
郷御前は静の存在を完全に無視し、牛若の正面へと歩み出ると、深く堂々と頭を下げた。
「お初にお目にかかりますわ。郷にございます。義経さまをお支え申し上げる妻として、これから末長くよろしくお願い申し上げますわ」
正妻からの堂々たる挨拶だった。だが、側に控える静は慌てて逃げ出したりはしなかった。牛若に袖を引かれたままの体勢で、凛とした涼やかな瞳で、郷御前を真っ直ぐに見つめ返している。
女同士の、言葉のない静かな火花が散っていた。三郎が喉の奥で小さな悲鳴を上げて後ずさる中、当の牛若だけが、その張り詰めた空気を全く理解していないようだった。
「うむ。……静、郷の分の夕餉も用意せねばな」
牛若は、いつもの透き通った声音を静にそっと当てた。
郷御前のこめかみが微かに引きつる。だが静は、口元にふわりと余裕のある微笑みを浮かべた。
「はい。さようでございますわね」
明るく気丈にそう答えると、静は一礼して台所へと歩き出した。
牛若は静に引かれていた袖を離すどころか、とぼとぼと静の背中について歩き出した。
弁慶は、その後ろ姿を射抜くように見つめる郷御前の視線に気づいた。その目は、嫉妬に狂う女のものかどうかは分からない。一方で、親鳥の後を盲目的に追う雛鳥を観察するような、極めて冷徹な色も帯びていた。
「……もう、妻がいらっしゃったのかしら?」
郷御前は、すかさず一番近くで身を固くしていた三郎をぎろりと睨みつけて問いかけた。
「さ、さあ……俺は知らねえ……!」
先ほどまで「帳面女」と陰口を叩いていた三郎は震え上がり、鷲尾の背中を押すようにして逃亡した。継信と忠信も気まずそうに咳払いをし、駿河も静かにその場を離れる。
残された弁慶は、さらっと息を吸い込むと重厚な声を腹の底から響かせた。
「……夕餉に加わられよ。長旅だったであろう」
郷御前は弁慶を冷ややかに見上げると、鼻でふっと息を吐いた。
「この私への皆さまの応対、義経さまへの深い忠義のようにお見受けしますわ。尊いことですわね」
冷たく吐き捨てるように言うと、郷御前は堂々とした足取りで夕餉の部屋へと入っていった。




