第四十話 鎌倉からの鎖
あれから幾日かが過ぎた。
六条堀川の屋敷の日常は、奇妙な二面性を帯びるようになっていた。
日中、牛若は検非違使としての任を果たすため、薄化粧を施し、弁慶たち従者を連れて都の巡回へと出向く。盗賊のような者たちを制圧し、市井の揉め事を清らかに平定する。天界の稚児の神業の傍らで、弁慶たちはただ泥と汗にまみれていく。
だが夕刻に屋敷へ帰還すると、その泥臭い現実は甘くふくよかな匂いによって唐突に掻き消される。
庭先の水汲み場で荒々しく手足を洗う男たちを尻目に、広間からは昆布と鰹のふくよかな出汁の香りが漂ってくる。静と磯禅師が、腕によりをかけた夕餉を作って待っているのだ。
「判官さま、今日もお役目、まことにお疲れ様でございましたわ。さあ、こちらへ」
「判官さまのお口に合えばよろしいのですが。秋の根菜を柔らかく炊き合わせました。むさ苦しいお役目の後には、温かいものが一番にございまする」
涼やかな静の声と、礼儀正しい磯禅師の声が広間に響く。
上座に座る牛若は、「ああ……世話をかける」とだけ透き通った声で答え、出された椀をじっと見つめていた。その純粋でひたむきな熱を宿した瞳は、料理の味ではなく、給仕をする静の白い首筋と、母の面影を残す横顔の輪郭だけをなぞり続けているようだ。
一方で行家はといえば、あの日喉元に冷たい白刃を突きつけられた恐怖からすっかり静に怯えきっていた。上座には近づかず、台所の薄暗い隅っこに背を丸めて座り、「ひひっ……わしはここで手酌でやるわい。女子たちは座っておれ……」と、小さくなってちびちびと酒をすするという滑稽な有様だった。
夕餉が終わり、磯禅師が気を利かせて別室へと下がると、牛若は静と共に奥の寝所へと消えていく。
弁慶は今夜も、薄暗い廊下の板張りに膝をつき、寝所の襖にじっと耳を押し当てていた。
弁慶一人ではない。右隣には三郎が這いつくばり、左隣には鷲尾が耳を塞ぐように両手を当てている。その後ろでは、佐藤兄弟が息を殺してしゃがみ込み、駿河が腕を組んで壁に背を預けていた。
むさ苦しい男たちが六人も、狭い廊下で団子のように固まり、主と女の情事の有無を確かめようと必死に耳を澄ませているのだ。その浅ましさに弁慶は奥歯を噛み締めたが、どうしても耳を離すことができなかった。
「……聞こえねえな。ちっとも聞こえねえぜ」
三郎が、蚊の鳴くような声で不満げに囁いた。
「義経さまは、昼間の立ち回りで疲れ果てて、ぐっすり眠っちまってるんじゃねえのかよ」
鷲尾が楽観的な声を漏らすと、すかさず継信が窘めた。
「静かにしろ、鷲尾。衣の擦れる音さえ聞こえぬ。これは、いささか妙であろう」
「兄者、まさか、我らがここに張り付いていることを見透かされておいでなのでは……」
忠信が危惧を口にするが、それを駿河が冷徹な声で切り捨てる。
「……息を潜めろ。そんな心配はない。くだらん邪推をしている暇があるなら、もっと耳を澄ませ」
いくら耳を澄ませても、襖の向こうからは微かな寝息の他には何も聞こえてこない。だが、ただ息を潜めて、音が小さいだけの可能性もある。その不透明さが、弁慶の腹の底に泥のように重いものを沈殿させていく。
「ひひっ。お前たち、女も知らん青二才どもが群れおって、情けないのう」
不意に背後から、酒臭い息と共にしわがれた声が降ってきた。小さくなっていたはずの行家が、ここぞとばかりに下卑た笑いを浮かべて立っていた。
「男と女が同じ布団にいて、交わらぬわけがあるまい。音が聞こえぬのは、忍び泣くようにひっそりと事を済ませておるからじゃ。九郎もいっちょ前になったということじゃな」
「なんだと……」
三郎は行家の無遠慮な煽りを聞き、肩をがっくりと落としていた。
「牛若さまも、俺たちを置いて、ついに大人になっちまったってのかよ……」
三郎の横顔には、純粋な寂しさと落胆が色濃く浮かんでいた。
弁慶の胸の奥で渦巻いたものは、そんな感傷的なものではなかった。喉の奥が焼け焦げるように熱くなり、胃袋を素手で鷲掴みにされたかのような強烈な吐き気が込み上げてくる。
自分がどれほど血と泥にまみれて影として寄り添おうとも、決して与えることのできない「情」の熱。それによって主の無垢な体が汚され、奪われていくことへの、どす黒い苛立ちだった。
(……いや、果たしてそうか――)
弁慶は、夕餉の席での牛若の姿を思い返していた。
牛若は静の言葉をほとんど聞いていなかった。ただひたすらに、あの美しい「顔」だけを熱っぽく眺めていた。あれは、女に対する色欲などではない。幼子がただひたすらに、奪われた母の面影を鏡に映して縋り付いているだけの、異様で清らかな情愛なのではないか。
そうだとしたら、まだあのお方は誰のものにもなっていない。肉体は結ばれてなどいないはずだ。
そう予想し、どうにか安堵の息を吐き出したくなる。だが、隣で眠っているという確かな事実がある以上、完全な確証は得られない。弁慶は、きりきりと腹の底を焦がしながら、ただ暗闇の中で太い指を床板に食い込ませていた。
その奇妙な蜜月とやきもきする日常は、数日後の夕刻、唐突に破られた。都の巡回から帰り、縁側で装束の泥を払っていた男たちの前に、馬の蹄の音と共に、土埃にまみれた一人の武者が姿を現したのだ。
鎌倉からの使者だった。
「鎌倉殿より、九郎義経殿へ言上がございます」
庭先に立った使者は、抑揚のない、乾いた冷徹な声で口上の覚書を読み上げ始めた。
「――日々の働きへの労いとして、武蔵の御家人、河越重頼が娘、郷御前を正室として遣わす。すでに坂東を出発し、間もなく都に到着する予定である」
使者は牛若の返事は待たず、口上を言い終えるなり一礼するとそそくさと出ていく。そのまま広間に静寂が落ちた。
弁慶は冷めた瞳で使者を睨み据えた。正室の輿入れ。それは「労い」などという生易しいものではない。鎌倉の理を体現する、頼朝からの明確な「監視の鎖」にちがいない。
ただでさえこの屋敷には静という情の対象がいるというのに、二人目の女がすんなりと主に受け入れられるのか。かといって、もし牛若が正室を拒絶でもすれば、鎌倉を怒らせ、頼朝へ悪しき報告がなされるだろう。
だが、縁側に立ってその口上を聞いていた牛若の反応は、弁慶の危惧を根底から打ち砕くものだった。
「兄上が……私の働きを、認めてくださったのだな……!」
牛若のあどけない顔に、花が綻ぶような純粋な歓喜が広がった。そこには政治的な疑念など微塵も存在しない。ただ「兄に褒められた、労われた」という無垢な喜びだけで、清冽な瞳がきらきらと濡れるように輝いていた。
「えっ、それはさすがにまずいんじゃねえか……?」
三郎が牛若の顔を遠くから遠慮がちに覗きながらつぶやく。
「もう静御前がいるっていうのに、そんな『労い』……牛若さまがかわいそうじゃねえか……」
皆が牛若の方を見たが、天界の稚児は使者のもたらした言葉の余韻に浸るばかりで、三郎の焦燥も耳に入っていないようだった。
「どうするんだよこれ……」
三郎は両手で顔を覆って膝をつく。
弁慶もまた、長刀の柄を握る手にじっとりと汗をかいていた。牛若の反応は、天界の稚児ゆえの、倫理観の欠如なのか。弁慶の知性をもってしても決めあぐね、ただ胸の奥で混乱の渦が巻いていた。
「ふうん……河越の娘か」
混乱の中、広間の奥から行家のしわがれた声が響いた。
「しかし、わしがここにいることが鎌倉にばれては困るの」
頼朝から追討の的とされている行家にとって、関東の御家人の娘が屋敷に乗り込んでくるのは厄介な事態だろう。それでも涼しい顔で杯を傾けている。
「まあ、そんな坂東の小娘とわしは面識がない。顔を見られても見抜かれることはあるまい。だが、今後わしの行家という名前は絶対に呼ばぬことじゃ」
行家はにやついた顔のまま見回して言った。
「――今日から、わしのことは昔の呼び名である『義盛』と呼べ。よいな、絶対に行家とは呼ぶなよ」
「なんだと……!」
しゃがみ込んでいた三郎が、弾かれたように顔を上げて吠えた。
「前も言っただろうが。俺の伊勢三郎義盛って立派な名前をあんたに使われるのは汚らわしすぎる! 別の名前にしろよ!」
「ええい、やかましいわ。変に全く違う偽名をこしらえてみろ、わしが酔っ払った時に自分の名前を間違えでもしたら、一巻の終わりじゃろうが」
「知るかよ! 俺だって間違って返事しそうになるだろうが!」
平然と口答えする行家と、青筋を立てて怒鳴り散らす三郎。
鎌倉からの冷たい鎖が突きつけられたというのに、屋敷の中は滑稽で泥臭い言い争いによって、緊迫感のない騒騒しさに包まれていた。
だがその騒ぎの中で、牛若だけはただ一人、静かな縁側に佇んでいた。
「――兄上は認めてくださった。次こそは、もっと大きな手柄を……」
何もない虚空を見つめる純粋な瞳だった。
その無垢で残酷な呟きを耳にした瞬間、弁慶の全身から三郎たちの泥臭い余韻が消え失せた。足元の床が崩れ落ちていくような、底知れぬ悪寒が這い上がる。
主――牛若は、まだ鎌倉の呪縛から全く解き放たれてなどいない。這い上がってくる冷たい感覚に、弁慶は一人、奥歯を強く噛み締めていた。




