第四話 北へ向かう理由
北へ進むほどに、道は険しさを増していった。左右を埋め尽くすのは、天を突くような巨木の群れと、濃緑の静寂だけだ。京の洗練された景色とは似ても似つかぬ、剥き出しの獣の気配が濃い。
その鬱蒼とした山道を、牛若は弾むような足取りで進んでいた。時折、木々の間から差し込む光を浴びては、まだ見ぬ地を想うように目を輝かせる。その無邪気な横顔を、弁慶は数歩後ろから、重苦しい沈黙と共に凝視していた。
「……獣しかおらんな」
不意に、隣を歩く三郎が、粥を啜る時のような軽い調子で零した。
「人も獣同然という噂の奥州へ向かうというのに、あのはしゃぎぶりだ。俺にはいつもそっけないくせに、全く、やってられないぜ」
三郎は肩をすくめ、牛若の後ろ姿をもどかしそうに見やる。弁慶は鼻を鳴らして応えた。
「あれだけ馴れ馴れしく無礼を貫いているお前が、何を言う。あと、吉次を見ればわかるが、奥州の者とて普通の人間であろう」
「いや、あいつは奥州の出ではあるまい。ただの強かな商人だ」
三郎は少しだけ声を低め、真面目な顔で続けた。
「いいか、弁慶。牛若さまがあれほど喜んでいる行き先が、もしも父のふりをする『獣の巣窟』なら、俺は迷わずその秀衡とやらを斬り捨て、牛若さまを京に連れ帰るまでだ。俺は第一の家来だからな」
「ふん、退治された盗賊のくせに」
弁慶は冷淡に切り捨てた。だが、その胸の底には三郎には決して明かせぬ、黒い誇りが渦巻いている。
(第一の家来だと? 笑わせる)
弁慶は、五条の大橋での感触を、今も右手に宿している。三郎のように肩を叩き、埃を払うような日常の無礼な距離など、自分には必要ない。自分は、あの大橋で、一対一で、汗の匂いを嗅ぐほどにあの御方と斬り結んだのだ。
あの時、互いの命を削り合い、魂が触れ合った瞬間の昂ぶりを知るのは、世界で自分一人だけだ。その歪んだ優越感だけが、新参者である弁慶の心を支える唯一の杖となっていた。
「……秀衡殿は、どのような御方であろうな」
前方から、牛若の浮き立った声が流れてきた。
「私を息子のように待っていてくださるという。奥州の黄金は、日の光よりも温かいのか」
牛若は立ち止まり、まだ見ぬ「父」への憧れを子供のように語り始めた。
その刹那にヒュン、という鋭い風切り音が森の静寂を切り裂いた。
「牛若さま……!」
初めて主の名が喉から発せられた。弁慶の咆哮と同時に、一本の矢が牛若の頬を掠め、傍らの巨木に突き刺さった。
「野盗か……! 三郎、主を守れ!」
草叢から、泥にまみれた十数人の男たちが喚き声を上げて飛び出してきた。一行の荷を狙う、この山域を根城にする野盗の群れだ。
「言ったそばから獣のお出ましかよ!」
三郎が素早く腰刀を抜き放ち、弾かれたような速さで牛若の前へ滑り込む。弁慶は巨大な長刀を旋回させ、一振りで三人、四人と野盗を薙ぎ払った。
「そらよっ!」
三郎は中背の体躯を活かし、野盗の懐に飛び込んでは急所を的確に突いていく。弁慶の長刀が広範囲を断ち切り、三郎の短刀が漏れた影を仕留める。即興とは思えぬ阿吽の呼吸で、野盗の群れは瞬く間に地に伏していった。
戦いが終わり、森に再び静寂が戻る。弁慶は長刀の汚れを振り払い、肩で息をしながら牛若へと歩み寄った。
「……すまぬな。二人の働き、見事であった」
牛若はさらりと、だが慈しむような微笑みを湛えて二人を見つめた。太刀を抜いた形跡はない。
「礼を言うぞ、弁慶。三郎、そなたもだ。……怪我はないか」
三郎はわざとらしく額の汗を拭い、照れたように笑う。弁慶もまた、主から向けられた柔らかな「弁慶」という言葉に、胸の奥が温かな疼きに満たされるのを感じた。
だが、牛若は再び、遠い北の空へと視線を移した。その瞳には、先ほどまでの死闘への関心など微塵も残っていない。ただ、まだ見ぬ地への熱病のような輝きだけが戻っている。
五条の大橋で見せた、あの神懸かり的な反射、隙のない動き。あの時の主は、間違いなく人を超越した天界の稚児、いわば完成された神であったはずだ。だというのに、今の主はどうだろう。注意は散漫になり、五条の時とは別人のように隙だらけで、脆い。
(……なぜだ。なぜ、血も繋がらぬ、会ったこともない老人のために、これほどまで……)
弁慶の胸を占めたのは、割り切れぬ純然たる疑問だった。
親類でもなく、縁者でもない。ただ吉次の弁舌が作り上げた「幻」に過ぎぬ秀衡という男。その名を聞くだけで、自分を打ち負かしたあの気高い孤独が、呆気なく霧散してしまう。
自分の理解を越えた場所にある、主の欠落。それを埋めるのが、自分という盾でも、三郎という家来でもなく、北に座す見知らぬ「父でない父」であるという事実。
言いようのない不安と、理解しがたいものへの忌避感が、弁慶の胸をざらつかせた。
「……早く行こう。秀衡殿が待っておられる」
主のその一言に、弁慶は無言で一礼し、再びその背を追った。平泉という場所が、あの純粋な瞳に何を映すのか。それを確かめるのが、今は恐ろしくてならなかった。




