第三十九話 夕餉と懐剣
六条堀川の屋敷の縁側には、西へ向かった坂東や西国の武者たちが名残惜しげに置いていった、大量の引き出物が山と積まれていた。干し魚や大ぶりの根菜、海草、そして見事な酒樽が並ぶ光景は、泥臭い武士の所帯には不釣り合いなほど豪勢だった。
夕刻。庭先の水汲み場では、三郎と鷲尾が袖をまくり、大根や泥のついた根菜を乱暴に洗い落としていた。その傍らでは佐藤兄弟が慣れない手つきで干し魚を並べており、駿河は手伝うでもなく腕を組んでその後ろから見物している。
「兄者、この魚はどうやって食うのだ? そのままか?」
「火で炙るしかあるまい。それにしても、これほどの品、我らだけでどう手をつければよいのやら……」
忠信の問いに、継信が思案顔になっている。
「ともかく、腹が減った。早く飯にしようぜ、三郎」
鷲尾が腹をさすりながら急かすと、三郎は「うるせえな、今から野菜を刻んで鍋に放り込むんだよ!」と乱暴に言い返した。
男たちの泥と汗の匂いが漂うむさ苦しい庭先に、ふと、衣の擦れる柔らかい音が響いた。
「まあ。殿方だけで、そのような水仕事をなさっているのですか」
上品に目を丸くして現れたのは、静御前の母の磯禅師だった。その後ろから、静が静かに歩み出る。
「お野菜の扱いが、少しお雑ですわね。よろしければ、私たちが代わりますわ」
静が涼やかな声で言い、口元にふわりと上品な笑みを浮かべた。
その透き通るような若娘の声と姿に、三郎は持っていた大根を取り落としそうになり、だらしなく口元を緩ませた。
「お、おう……じゃあ、頼みますっ」
顔を赤くした三郎が場所を譲ると、静と磯禅師は手際よく台所を仕切り始めた。
米の研ぎ方も水加減も粗雑な男たちの飯とは違い、女たちの手にかかると、米粒一つ一つがふっくらと艶を帯びて炊き上がっていく。やがて、屋敷の中に昆布と小魚がふくよかに混じり合った出汁の香りと、甘い米の匂いが漂い始めた。
弁慶は広間の隅で長刀を手入れしながら、じっとりとした目を膳に向けた。
並べられたのは、三郎たち従者の粗末な盛り付けとは明らかに違う、繊細に整えられた牛若の膳だった。
主の領域が、女たちの手によって鮮やかに塗り替えられていく。弁慶の胸の奥に、微かな、しかし確実に熱を帯びた違和感の影が落ちた。
宴が始まると、行家は「ひひっ、良い匂いじゃ」と早々に上機嫌で酒をあおり始めた。
男たちの前に、たっぷりと汁気を吸った姫飯と、丁寧に炙られた魚が運ばれてくる。
「すげえ!」と鷲尾が感嘆の声を上げ、「いつもの俺たちの飯と全然違うぜ! 女の人が作るとこうも違うのかよ!」と三郎も声を張り上げる。
「なんと……。九郎さま、このような見事な味付けの姫飯、鎌倉にいた頃でも滅多に食えませぬ」
駿河も感動した面持ちだ。
三郎がはしゃぎながら猛然とがっつき、鷲尾も夢中で飯をかきこむ。駿河は冷静に魚を口に運び、「なるほど、確かに見事な味付けだ」と呟いた。継信と忠信も頷き合っている。
広間が男たちの喧騒で包まれる中、上座に座る牛若は静かだった。もともと牛若は食が細く食べる速さもゆっくりめではあるが、出された姫飯や魚を少しずつ口に運ぶ手つきからは、その見事な味を気に入っている様子が窺えた。だが、その態度はどこか心ここにあらずといった風情だった。
傍らで酒の給仕をする静の横顔を、ただじっと見つめ続けている。その瞳には、ただ清らかでひたむきな熱だけが宿っていた。
「あの日……路地裏で柄の悪い男たちからお救いいただいたこと、決して忘れてはおりませぬわ」
静は小首を傾げ、熱を込めた声で牛若に語りかけた。
「あの白銀の太刀筋、まるで夢のようでしたのよ」
命の恩人に対する、深い慕情が滲んでいた。
だが牛若の純粋な瞳は、ただひたすらに静の顔の輪郭――母常盤の面影であろう――をなぞるばかりだった。
「柄の悪い男たち? 何のことだろう……それより、そなたは……美しい……」
牛若の口からこぼれ落ちたのは、静の言葉とは全く噛み合わない、焦点の合わない呟きだった。自分が暴漢を退治したことなど、欠片も覚えていないのだろう。
命の恩人が何一つ覚えていないことに気づき、静の表情に微かな落胆がよぎる。
一方で、薄化粧を施したあどけない顔つきで自分をぼうっと見つめる牛若を見つめ返すうちに、静の眼差しは、幼子を見守るような柔らかく深い微笑みへと変わっていった。
その奇妙な空気に、広間の男たちがそわそわと落ち着きをなくし始めていた。女を前にして微かに頬を上気させ、いつになくどきどきしている牛若のあどけない姿が、異様なほどの色気を放っていて、どぎまぎするようだった。
忠信が意味もなく咳払いをし、継信が気まずそうに手元の杯を見つめる。鷲尾は目のやり場に困ったように柱の木目を数え始め、駿河は黙って手元の椀を見つめ、三郎は顔を真っ赤にしてしきりに酒をあおっていた。行家はただ不潔に酔い続けるだけだ。
弁慶の喉の奥が、熱く引きつって鳴った。
主のあどけない色気に当てられた動揺と同時に、胸を力一杯かきむしりたくなるような嫌悪が這い上がってくる。自分が決して与えることのできない情によって、主の空洞が揺さぶられている。その事実が、弁慶の腹の底を冷たく凍らせていく。
牛若はもともと酒に強い方ではない。それなのに、あまり食が進まないまま、静に注がれるがまま一気に杯を空けてしまったからだろう。ほんのりと目元や白磁の頬を赤く染め、不意にこくりと首を揺らした。
ふっと糸が切れたように、牛若の顔が、静の膝元へと倒れ込む。戦場の鬼の面影はどこにもなかった。ただの愛に飢えた稚児のような、無防備で真っ白なあどけない寝顔だった。
弁慶の視界の端で、行家が下卑た笑いを漏らしながらにじり寄るのが見えた。
「ひひっ、良い匂いのする娘じゃの……少し触らせてくれや」
酒臭い息を吐き、静の白い首筋へとねっとりと太い指を伸ばす。
傍らにいた磯禅師が息を呑み、身を硬くしたのが分かった。
弁慶は反射的に、傍らの長刀の柄へ手を伸ばしかけた。
だが、その指先が硬く冷たい柄を握りしめるよりも早く、白刃がひらりと閃いた。
静が懐から抜いた懐剣の切っ先が、行家の脂ぎった喉元すれすれに、ぴたりと突きつけられていた。
「ぐぬっ……」
「……判官さまの御前でございますわ。無礼はお控えなされませ」
牛若と話していた時の甘い口調の響きは消え失せ、冷たく透き通った声が響いた。微かな震えすらない。三郎たちも息を呑んで見守らざるを得ないようだった。
行家の顔が引きつり、伸ばしかけた手が宙でだらしなく止まった。
弁慶は、行き場を失って空を切った己の右手を、ゆっくりと下ろした。他の男たちもほっと胸を撫で下ろす。
膝の上で眠るあどけない天界の稚児を庇うように、静が盾となって立ち塞がっている。眠る牛若はそのことを知らない。
この女は、己の身を守れる。眠る主の傍らで。
弁慶の喉の奥がひきつり、浅い呼吸が漏れた。足元の床が抜け落ちたかのような、冷たい悪寒が這い上がってくる。弁慶はただ奥歯を強く噛み締めながら、白刃を握る静の横顔をじっと睨みつけていた。




