第三十八話 静御前
ここ最近、都では雨が降っていなかった。このままでは凶作になりかねないという懸念から、後白河法皇の命により、神泉苑にて白拍子たちを集めた雨乞いの舞が催されていた。
極めて厳かで上品な儀式だ。泥と汗の匂いが染み付いた下級の従者である弁慶や三郎が、その神聖な場に堂々と足を踏み入れることなどできるはずもない。ゆえに二人は、少し離れた御所の端にある太い欅の木に登り、葉の陰から遠く様子を窺っていた。
九十九人の名のある白拍子が次々と舞を披露したが、空は一向に曇る気配を見せない。遠くの席で警護の任に就く牛若の顔には、先ほどまでの坂東武者たちとの別れの余韻など微塵も残っていなかった。ただ退屈そうに、白磁のような顔を伏せて虚空を見つめているだけだ。
「……最後の一人だぜ」
隣の枝で、三郎が小声を漏らした。
百人目の白拍子として、小柄な女が進み出る。傍らには、彼女の母であろう元白拍子の老婆の姿があった。
白拍子の女が、顔を隠していた市女笠をゆっくりと外した。
「あっ……!」
三郎が弾かれたように身を乗り出した。弁慶もまた、木肌を掴む指にぐっと力を込める。
その透き通るような若く白い首筋と横顔には、見覚えがあった。あの日、京の入り組んだ路地裏で、柄の悪い男たちに囲まれていたところを牛若が助けた女だ。
女が、透き通るような涼やかな声で今様を歌いながら、静かに舞い始めた。
その声は乾いた空へ吸い込まれるように響き渡り、しなやかな指先が天を仰ぐ。祈りを込めたその舞が頂点に達した瞬間、重く淀んでいた空気が一変した。
空が急激に墨色に染まったかと思うと、ぽつり、と弁慶の頬に冷たいものが落ちる。直後、ざあっと大粒の雨が降り出した。木々の葉を打ち据える雨音と共に、土の匂いが弁慶の鼻腔を突いた。
「おお……見事じゃ。まさに慈雨よ」
法皇の満ち足りた声が響いた。舞を終え、雨に濡れながら凛と立つ女を、法皇は労いの言葉をかけるために至近距離へと呼び寄せた。
牛若のすぐ目の前に、女が参上する。
その瞬間だった。
虚空を漂っていた牛若の視線が、女の顔を正面から捉えた途端、びくりと凍りついたのだ。
一条長成の屋敷で見た「母・常盤御前」の顔。あの夜の母の面影と、目の前の女の顔が、ぞっとするほど重なり合っているのだろう。
牛若は声も出せず、瞬きすら忘れたように熱っぽく女を見つめ続けていた。常に虚空を見つめていた底なしの瞳の奥に、何かにすがりつくような、幼児のように危うく強烈な執着が浮かび上がっていた。
「あっ……あの時の!」
検非違使の装束を纏った牛若の顔を見た女が、ぱっと顔を輝かせて歓喜の声をあげた。あの日、路地裏で自分を救ってくれた若武者だと気づいたようだった。
だが、牛若はあの日、女の顔などろくに見てはいなかったはずだ。彼女がなぜ突然喜んでいるのか、全く分かっていない様子だった。
「そ、そなたのおかげで……雨が、降ったな……っ」
牛若はしどろもどろに口ごもってしまう。ただひたすら、目の前にある母の面影から目を離せないのだろうか。情けなく動揺する天界の稚児を眺めていると、弁慶は胸をかきむしりたくなる一方で、いつにない歪な不快感を覚えていた。
命の恩人が自分を全く覚えていないのだと察した女は、歓喜から一転、微かに傷ついたように伏し目がちになった。
(……あの御方は)
木の上からその異様なすれ違いを見下ろしながら、弁慶は腹の底でどろどろとした興奮と、得体の知れない焦燥が入り混じるのを感じていた。
三郎はといえば、「あいつ、あの日の女子じゃねえか!」と助け舟を出してやるべきか、そわそわと迷っている様子だ。しかし結局は声をかけることもできず、ただ成り行きを見つめているだけだった。
「――ほう、九郎。そなた、一目惚れしおったか」
一人の白拍子から目を離さず、口まで籠もっている牛若を見て、法皇が面白そうに目を細めた。
「この娘の名は静じゃ。そして傍らにいるのが母の磯禅師。それにしても見事な舞であった。二人を九郎の屋敷に連れ帰るのがよかろう」
官位以外の贈り物を思いついたうれしさなのだろうか。恋に悩む牛若をもしかしたら狂おしく見つめたいのかもしれない。
法皇の気まぐれな計らいに、傍らにいた老婆――磯禅師が、牛若の天界の稚児のような佇まいをまじまじと見つめた。
「なんと気品のあるお方でございましょう……。判官さま、娘をよしなにお願いいたしまする」
磯禅師は感嘆の吐息を漏らしながら、深々と頭を下げた。
「私静も、ありがたき幸せに存じます」
透き通った静御前の声は、それでいて芯の強さを感じさせた。
やがて、牛若は静御前と磯禅師を連れ、弁慶と三郎の護衛のもと、雨の上がる道を六条堀川の屋敷へと帰還した。
「――にょ、女人が……!」
そう声を上げたのは忠信だった。
「九郎さま、その方たちはいったい……」
駿河も目を丸くしている。
「すげえ美人……」
鷲尾は天女を見るような目をしている。
留守番をしていた者たちが、玄関に現れた見知らぬ女たちの姿に目を丸くして驚愕の声をあげる。継信も「これは……!」とため息を漏らしていた。
奥から、酒の入った杯を持った行家も現れた。女たちを見るなり、面白そうににやにやと口角を吊り上げる。
泥臭い従者たちがざわめく中、弁慶の視線はただ一点、継信の顔にのみ注がれていた。
継信は、主が女人を連れ帰ってきたことに、皆と同じ、確かに驚いた様子を見せていた。だが、静の顔をまじまじと見ても、それ以上の顔色の変化は全くなかった。そこに常盤御前の面影を見出したような驚きは、微塵も浮かんでいない。
(……やはり)
弁慶の喉の奥が微かに鳴った。
あの夜、一条長成の屋敷の遠くの暗がりに控えていた継信は、やはり常盤御前の顔までは見ていなかったのだ。
あの時、牛若がなぜ涙を流したのか。その本当の理由を知っているのは、自分と三郎だけ。
弁慶は、ぐっと奥歯を噛み締めた。自分が誰よりも深く、主の血を流すような孤独の底に触れている。そうであったのに。
今この屋敷には、牛若の妾とその母が、上品ではあるものの、堂々と入ってきたのだ。歯をきりきりと鳴らしながら、今夜自分は眠れそうにない――いや眠ってはならぬ、と弁慶は確信を深めながら、その二人の異物を見まいとした。




