第三十七話 別離の軍勢
「おお……見事な……」
検非違使の装束を纏い、縁側に姿を現した主の顔を見て、佐藤継信がほうっと息を吐き出した。忠信も、駿河も、鷲尾も、ただ言葉を失ってひれ伏している。
牛若の顔には、彼自身が不器用な手つきで施した稚拙な薄化粧と、ぽつりと引かれた紅があった。その装いは、見る者の正気を静かに吸い取っていくような凄みがあった。
「……ふっ」
眠気まなこで突如現れた行家が、その姿をねっとりとした視線で舐め回す。
「こりゃあ、都にまた火が点くであろう。ふふふ」
奸物は嗤いながら手元の杯を傾けていた。
弁慶と三郎の護衛で御所へと向かう道中、都の民たちは牛若の異様な輝きにどよめき、道を空け、熱に浮かされたようにひれ伏して喝采を送った。だが、牛若の空洞の瞳は誰一人として見ている様子はなかった。
「さすが、俺たちの牛若さまだぜ。なあ弁慶、あの紅、すげえ似合ってるよな」
三郎は注目の的の牛若を自分のことのように喜んでいる。
「ああ」
弁慶が短く同意を返すと、三郎は少しだけ声を落とした。
「でもよ、なんていうか……どこか遠くに行っちまいそうな、そんな顔してんな」
「御顔をまじまじと見るな」
弁慶は短く返し、静かに主の後ろ姿を見据えた。底の知れない沼の淵に立っているような、ぼんやりとした眩暈を感じる。
御所での謁見では、後白河法皇も、傍らに控える丹後局も、牛若の姿を見るなり満足げに目を細めた。
「見事じゃ、九郎。源氏第一の功労者たるそなたにふさわしい姿じゃのう。本日も都の治安維持に努めるがよい」
「承知いたしました……っ」
「うむ」
牛若の遠慮がちな返答に法皇は上機嫌に頷き、そして何気ない口調で付け加えた。
「そういえば、頼朝から推挙のあった範頼の方じゃが、あちらも正式な任官はこれからじゃ。ゆえに、そなたが一番の任官であろうな。ふふふ、喜ぶがよい」
牛若の肩がぴくりと跳ねた。血の気の引いた顔で、ただ床を見つめている。「鎌倉の兄上の言いつけを破ってしまった」という、子供のような恐怖だけが全身を縛り付けているようだった。
弁慶は奥歯を噛み締めたまま冷や汗を感じていた。範頼との序列は、主にとっては気にならないことらしい。
「良かった……! 牛若さまが一番乗りなのは当ったり前だしな……!」
小声で真っ直ぐに喜ぶ三郎に対し、弁慶は反応をしなかった。足元の床が音もなく崩れていきそうなあんばいだ。
法皇はふと思い出したように言葉を紡いだ。
「そう言えばここ最近、全く雨が降っておらぬであろう。この後、神泉苑にて白拍子たちに雨乞いの舞を舞わせるゆえ、九郎も一緒に見るがよい」
法皇からの気まぐれな誘いの言葉に、牛若は「ありがとうございます……」とかしこまっている。背中の緊張は少しだけ解けているようだった。
出仕を終えた牛若たちの前に、少数の供回りだけを連れたカバ殿こと範頼が現れた。都に駐留している兵たちのための物資を鎌倉から輸送し、到着したばかりだという。
「――鎌倉の兄上にお会いしてのう、三河守の推挙をいただいたのじゃ。これより都の兵たちを束ねて、西へ向かうことになってな」
事もなげに語る範頼の言葉に、牛若の足が止まった。
「カバの兄上……鎌倉へ、帰っておられたのですか」
牛若の声がひび割れていく。てっきり範頼も都に留め置かれたままだとばかり思っていたのだ。それは弁慶も同じだった。
「なぜ、私だけが都に……」
ぽつりとこぼれ落ちた呟きは弁慶には聞き取れたが、範頼はきょとんと目を瞬かせた。
「……鎌倉の兄さん、カバさんだけを呼び戻していたのかよ……。牛若さまが一番手柄を立てたのに……!」
小声だが三郎も衝撃を受けた様子だった。あれだけ兄と会いたがっている牛若がずっと都に放っておかれたことになる。三郎の戸惑いが、弁慶の胸を鋭く抉った。
「黙っておけ」
弁慶は低く制した。己自身にも言い聞かせるようだった。
弁慶は鎌倉の中央情勢を何も掴めていなかったことを恥じた。主の牛若だけが蚊帳の外に置かれているという現実を突きつけられたのだ。
奥歯を噛み締める。鎌倉の理不尽な仕打ちへのほのかな怒りを感じつつ、長いまつ毛を伏せる主の後ろ姿に、腹の底がどろりと甘く痺れそうだった。
そのまま崩れ落ちそうな主の背中を見た瞬間、弁慶の口は反射的に動いていた。
「牛若さまには――」
努めて落ち着いた声を出した。
「この都の警備という、最も重要な任務があるからでしょう」
「そうだ弁慶!」
三郎も単純に同調する。そのまま生まれてしまった不思議な沈黙を、範頼の穏やかな声が破った。
「そなたもわしと同じく任官か。おめでとう、九郎殿」
そこには嫌味も計算も微塵もなかった。ただ純粋に、弟の出世を祝うもう一人の兄の笑顔だけがあった。
「……はい……」
牛若の光を失いかけていた瞳の奥に、ほんの微かな灯火が宿る。すがりつくような、頼りなく薄い微笑みが浮かんだ。弁慶はその横顔をただ静かに見ていた。
「――カバの兄上も、どうぞお達者で」
「九郎も達者でな」
笑顔で言い置いた範頼は、もっさりとした足取りで去っていった。
範頼の西海遠征軍が都を出立する。軍には、都に居座っていた鎌倉の御家人たちがことごとく組み込まれていた。
「――その化粧が施されたお顔は……まさに武士の鑑と言えまする。義経さまの清らかな風の側にいられぬとは……身が引き裂かれる思いにございまする」
畠山重忠が痛切な声で頭を下げるが、牛若の化粧された顔を見つめながら発されるその透き通った声にはいつもより熱があった。
「それにしても、その御顔の紅、まさに神仏の如き美しき風が漂っておられまする。なぜこの清廉な風が総大将として我らを率いて下さらないのか……鎌倉の決定が恨めしゅうございます。――それではお達者で」
「なんとお綺麗な……! それにしても、義経さまのあの考え深き作戦の数々――」
佐々木高綱も不満を隠そうとしない。
「その清らかなまつ毛の美しさを拝見できぬのが、悲しくてなりませぬ。ますますお美しいその高貴なご尊顔ですのに……」
高綱は牛若のまつ毛を熱っぽく見つめながら、心底残念そうにため息をついた。
「また再会できる日を心待ちにしております……!」
「まったくでござるな。義経殿と崖を飛び降りられたのはじじいの誉れでありました。これでは老骨に鞭打つにも張り合いが出ませぬわ……」
土肥実平がぼやくように言い、牛若の彩られた顔を眩しそうに見つめた。
「それにしても、並外れた気品に感服するばかりにございます。都に置いておくには惜しき御方にございます」
「義経さま……美しい公達となられましたな……」
熊谷直実が感慨深そうに牛若の顔を眺めていた。
「どうぞこの都で、吉報をお待ちを! この都に少人数でお残りになるのが、心配でならぬ……! 何卒ご無事で……!」
この男だけは牛若への認識が少し異なるようだった。息子の小次郎は怪我が回復したらしいが、今後も直実は牛若への信奉を続けそうだ。
「義経さま!」
梶原景季が一歩前に出る。
「その神々しいお姿、言葉になりませぬ……! 私は……なぜ、あなたさまの下で戦えぬのか……!」
景季は悔しげに唇を噛んでいた。
「皆さま、出発いたしますぞ!」
後ろから梶原景時の鋭い声が飛んだ。
「景季もこちらへ来るのじゃ」
「父上、そうやってこの名残惜しい時間を奪おうとなさる! 今回の件もどうせ父上の仕組んだ陰謀であろう!」
「一体何を申す。範頼殿と義経殿のそれぞれのご担当は、鎌倉殿が決めたことじゃ」
「そうやってすぐ話をそらす!」
景季は腹立たしそうに父を睨みつけていた。
「どうせ父上が変な報告を鎌倉へ送ったのであろう!」
「景季殿」
土肥実平が穏やかに声をかけた。
「このじじいは義経殿のご活躍をきちんと鎌倉に報告しておりましたぞ」
「実平殿はよいのです。どうせ父上が余計なことを報告したに決まっているのだ!」
「こら景季、妙なことを言うものではない! お前は黙って出発せよ!」
「景時殿!」
熊谷直実が腹の底から低音を響かせた。
「熊谷殿……」
景時がこめかみを押さえ始める。
「そうやってご子息にもつらく当たられる。貴殿は人の親として一体何を考えておる。しかも、しかもだ。義経さまをお守りする軍の大部分を根こそぎ奪い取り、この都に放置していくという恐ろしい陰謀を企むなど、鬼畜生をも超えたおぞましい外道の振る舞いじゃ! それがしは義経さまが心配でならぬ!」
「ま、待たれよ熊谷殿……! 貴殿はまた何か勘違いされておる……」
「父上! 熊谷殿の言う通りでしょう!」
「ええい、お前は黙っておれ!」
「景時殿」
重忠が透明な声を鋭くぶつけた。
「義経さまが出仕を始められ、さらなる華やかな風を漂わせてくださるのを、あなたの帳面が容赦なく穢すだけでなく、このように醜いいざこざまで引き起こされるのは、同じ武士として恥ずかしく思いまする」
「うぬ、重忠殿まで……!」
まだまだ揉め事は続きそうだが、ただ一人、鎌倉の御家人という立場ではないため遠征軍から外された多田行綱だけが、「それがしは残れますぞ!」と歓喜の声を牛若に投げつけていた。牛若はその場違いな歓喜に対し、「うむ、頼むぞ」と精一杯の微笑みを返しているようだった。
大軍が西の空へ消えていった後、牛若は静まり返った屋敷の庭にぽつんと立っていた。
「……牛若さま」
弁慶が声をかけると、牛若はゆっくりと振り返った。その瞳の輝きははかなく消えかかっていた。
「そろそろ神泉苑へ参りましょう」
弁慶は努めて軽い口調で言った。
「法皇のご命令ですし、たまには白拍子の舞で気晴らしをするのも一興かと」
「そうだな」
牛若はゆっくりと弁慶の歩みについて来た。三郎も弁慶の前にやってくるのを、弁慶はうっとうしく思いつつ、何も声には出さなかった。




