第三十六話 仮面の紅
検非違使としての初出仕を控えた翌朝。
六条堀川の屋敷に、梶原景時が厳しい顔つきでやってきた。
彼は玄関先で牛若の前に座るなり、扇子で膝を叩きながら冷え切った口上を述べ始めた。
「義経殿。法皇様より左衛門少尉ならびに検非違使の任官を賜る件、やはり承服いたしかねます」
景時はじろりと牛若を見据えているが、昨日は魂が抜けたようになっていた牛若はようやく血の気が戻り出したところではあるものの、視線は定まらない。
「鎌倉殿の事前の推挙を通さず、朝廷から直接官位を賜るのは、筋道に反し、鎌倉の統制を乱す行為にございます。たとえ御兄弟であろうと、例外を作ることは組織の根幹を揺るがす事態に繋がりますぞ」
牛若は、ただきょとんとした顔で薄い唇を引き結んでいる。
背後に控えていた三郎が、「あの帳面じじい、またぐちぐちと……」と忌々しげに小声で罵倒した。
そこへ、どやどやと慌ただしい足音が上がり、屋敷の静寂が破られた。
景時の息子の景季、畠山重忠、佐々木高綱、熊谷直実、土肥実平、さらには多田行綱の顔もある。皆、祝賀の品や酒樽を抱えていた。
彼らは眉間に皺を寄せる景時のことなど意に介さず、次々と牛若の前に進み出たが、横の景時に第一声を張り上げたのは景季だった。
「父上、門前から聞こえていましたよ! またですか! 今日という晴れがましい日に、またそうやって何かと義経さまに傷をつけようと企まれる! ……そんなことは置いておいて、まずは義経さま、誠におめでとうございます!」
「景季、よく分かりもせずに話をややこしくするでない! 鎌倉の理を弁えるのじゃ。これは鎌倉の統制と秩序に関わる重大な問題である」
苛立ちをあらわにして息子に反論しようとした景時の言葉を、畠山重忠が透明感のある声で遮った。
「景時殿。統制やら秩序とはそもそも勝利の風を彩るためにあるもの。圧倒的な勝利をもたらした義経さまの清らかな風を、下界の汚れた縄で縛ろうなどと本末転倒でござりまする。そんなことより義経さま、此度の栄達、心よりお慶び申し上げまする」
「重忠殿……!」
景時はこめかみを指先で押さえ出す。
佐々木高綱がうっとりとした表情で身を乗り出した。
「義経さまのお美しい瞳……ますます光り輝いておられます。宇治川、そして一ノ谷と……義経さまの清き心が導くその眩い光の先に、我らはどこまでもお供する¥所存です。……景時殿、暗闇から穢れた帳面で光に濁りを加えるのは、そろそろお慎みなされよ」
「高綱殿まで……っ」
「せっかくの清廉な風に、黒ずんだ煙を混ぜ込まれましては、義経さまのご任官という晴れ舞台に対する毒となりまする。武士の心を今一度、思い出されるのがよろしかろう」
「ううむ……!」
景時はずきずきと痛む頭を抱えるように唸り声を上げた。三郎が隣で「言え言え、もっと言ってやれ」と御家人たちの言葉を小声で応援している。
続いて多田行綱が進み出て、深く頭を下げた。
「義経さま、此度の御出世、我が事のように嬉しく存じます」
祝いの言葉を述べた後、行綱は顔を上げて言葉を続けた。
「鹿ヶ谷の謀議で臆病風に吹かれ、生き延びるために寝返った泥まみれのそれがしですが、淀みない義経さまの瞳を拝見するたび、その汚れた過去すらも綺麗に洗い流される気がいたします」
(こやつ、一体もう何回目だ。お前のようなどうでもよい小物の不潔な過去話など、天界の稚児には何一つ届かぬというのに、しつこいことこの上ないわ)
弁慶は内心でひっそりと毒づいた。このような不潔な男からも心から祝福される牛若の栄達は、あまりにも清らかであるがゆえに希望の的なのであろう。
「義経さま、おめでとうございます。そして景時殿」
熊谷直実が、静かな低い声を響かせた。
「いい加減になされよ。華奢なお身体で必死に戦われた義経さまがようやく得られたささやかな喜びを、またしてもその無慈悲な言いがかりで踏みにじろうとするおつもりか」
「熊谷殿……」
直実の顔に、次第に熱が宿っていく。
「お主はそれでも人の親か。己の息子が同じような嫌がらせに遭ったらと想像できぬのか。ますます、口に出すのもおぞましい鬼畜生の所業じゃ。ただちに猛省されよ」
「熊谷殿、貴殿は何か勘違いされておる……。まずはそれがしの話を聞いて頂きたい」
「義経殿……」
景時の濁った声に重ねるようにして、土肥実平が穏やかな声で言葉を紡いだ。
「本当によくぞお役目を果たされましたな。このじじいも、心から嬉しく思っておりますぞ。難しいことは抜きにして、今日という日はどうか心安らかになされませ」
「父上」
横で見ていた景季が言い放つ。
「此処は祝いの席。いつもの無粋で無駄な小言は仕舞いにして、さっさと出て行かれたらどうです」
「それがしも同意いたしまする」
重忠の凛とした透き通った声がよく響いた。
「穢れなき風に、俗世の塵は似合いませぬゆえ」
「……祝いの光を遮る雲は、風で流れて行けばよろしいのです」
高綱が涼やかな言葉で言い終えると、景時はこめかみを押さえ、激しい頭痛を堪えるかのように顔を歪めると、逃げるように屋敷を退散していった。
「義経さま、どうかこの酒を!」
「これなる品も!」
祝賀の数々を縁側に並べながら牛若に温かい声を張り上げる武者たちに、牛若の表情は少しだけ明るく軽やかになったようだ。坂東武者たちは皆、満足そうな、心底うれしそうな顔で屋敷を後にした。
嵐のような祝祭の武者たちが去ると、屋敷は再び微妙な静寂に包まれた。遥か遠くからは酔った行家の寝息だけが聞こえてくる。佐藤兄弟は兄弟で顔を見合わせ、駿河は天井を睨み、鷲尾は所在なげにきょろきょろしていた。
牛若は縁側にうずたかく積まれた見事な贈り物や酒樽を見つめ、ちょっと嬉しそうに口元を微かに綻ばせる。だが、その瞳はまだ伏せられていて、どこか所在なさげに宙を彷徨っていた。
たくさんの品々に囲まれ、祝辞を浴びながらも、たった一つ、一番欲しいはずの兄からの言葉だけがない。その寂しさが、牛若の細い背中の丸みから痛いほどに伝わってくるようだった。
出仕の刻限が迫っていた。
牛若は無言のまま、部屋の隅に置かれた鏡の前まで進み、そっと座った。弁慶と三郎が追いかける。
「……まさか牛若さま、化粧かっ」
三郎は焦ったように声を上げ、背後に控えようとした弁慶も妙な胸の高鳴りを覚えた。
牛若は不器用な手つきで、屋敷に初めて来た時から置き去りになっていた白粉の器を開け、見よう見まねで肌に粉を乗せ始める。そのたどたどしい様子に、三郎がたまらずに身を乗り出した。
「牛若さま、俺がお手伝いしましょうか?」
「……いや、恥ずかしいゆえ……」
牛若は振り返らず、耳を少しだけ赤くして答えた。
その言葉に、三郎は頬を染めて照れたように後ずさる。
弁慶は密かにほくそ笑んだ。三郎の不潔な手で天界の稚児の化粧を手伝うなど、万死に値するにちがいない。
牛若は誰の手も借りず、適当に白粉をはたき、紅を差していく。
それは貴族としての作法であると同時に、兄に捨てられた惨めな自分から逃避するための、あまりにも脆く薄い仮面なのかもしれない。
やがて準備を終えた牛若がゆっくりと立ち上がり、振り返った。
その顔を見た瞬間、三郎が石のように固まり、息を呑んで絶句した。
弁慶もまた、主の顔を見下ろした。
丁寧に施された化粧ではない。無造作に薄くはたかれただけの白粉と、ぽつりと適当に引かれただけの紅だ。
だが、その雑で稚拙な薄化粧が、かえって牛若の造形の整いと肌の透明感を呪わしいほどに際立たせていた。
弁慶の息は止まっていた。
見てはいけないものを見てしまったような感覚。めまいがする。決して直視してはならないのだ。目の前がぐらりと揺れかけるのを、深呼吸で押し留めた。
「……参るぞ」
牛若は、その顔に何の感情も浮かべず、ただ一言だけ告げた。
弁慶と三郎は、声も出せずにうなずいた。




