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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
第二部 貴公子の乱舞

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第三十五話 王者の涙

 厳しい残暑の陽射しが、六条堀川の屋敷の白砂をじりじりと焦がしている。


 牛若は、庭の片隅に置かれた見事な置き石のそばに力なく座り込んでいた。それはかつて、頼朝が上洛した際に気持ちよく腰掛けられるようにと、牛若自身が細かく指示を出して丹念に据えたものだ。


 だが、あの冷酷な手紙の文面を思い返せば、肝心の兄がそこに座る日が来るかは怪しいものだろう。牛若は虚無を抱えたまま、ただぼんやりとその石を見つめている。


 そこへ、朝廷からの使者が庭先に静かに姿を現した。


 奥ゆかしい所作で近付き、牛若の前で恭しく頭を下げる。


「法皇様が、義経殿のお顔が見えぬとお心を痛めておいでです。何やらお言葉をかけたいご様子でした。すぐにお越しいただけますよう」


 ゆったりした物言いだが、なんだかいつになく強引さを感じる口上でもある。


 虚ろだった牛若の瞳にさっと明らかな焦燥の色が走った。兄からの拒絶を感じてしまっている今、「法皇様にまで嫌われて見捨てられてしまうのではないか」と怯えているにちがいない。

 慌てて身支度を急ぐ主の痛々しいほどの焦りを、弁慶は冷ややかに、しかし胸の奥を這うような甘い満足感とともに見て取った。


 弁慶は三郎と共に、護衛として御所へと向かった。


 久しぶりに参上した御所は、天下の王者の居所らしい威圧感に満ちていた。御簾(みす)の向こうには後白河法皇と丹後局だけでなく、周囲には幾人かの公卿たちも控えており、衣擦れの音が静かに響いている。


 牛若がおそるおそる平伏すると、御簾の奥から王者の声が降ってきた。


「九郎、久しいな。一向に顔を見せぬではないか。任官の件も、どうするつもりなのか返事も寄越さず……朕をこれほど待たせるとは」


 怒っているわけではなさそうだ。自らの愛でる者が思い通りに来てくれないことへ苛立っているような、ねっとりとした声だった。


「……おい、じいさんなんかちょっと機嫌悪くねえか?」


「……黙ってろ」


 隣に控える三郎が小声で私語をこぼすのを、弁慶は短く制し、御簾の奥の気配を窺った。


「さて。範頼は頼朝からの推挙があり三河守に任官させたが、そなたへの推挙がないのは妙である。……九郎はなぜだと思うか?」


 突然の問いかけに、牛若の肩がびくっと跳ねた。どう答えていいか分からず、どぎまぎと視線を泳がせているのが背中越しにもわかる。


 長い沈黙の後、牛若からか細い声が絞り出された。


「……分かりませぬ……」


 弁慶は斜め後ろで、奥歯をぎりっと噛み締めた。主は本当に理由が分かっていないのだ。それが痛いほど伝わってくる。


「なぜか一ノ谷で特に活躍のなかった範頼が出陣予定のようだが……九郎はすでに京の治安を治めてくれているようじゃな。それは喜ばしい」


 法皇はうれしそうな温かい声を響かせ、さらに近寄り、ふとそこで小さな笑い声を喉の奥から漏らす。


「ふふ、また天狗のように空を飛んで、引き続き都を警備してくれ」


 ……あはっ、と牛若が思わず小さな甲高い笑い声を立てるのが聞こえた。隣の三郎がまたちょっぴり不機嫌な表情になっていた。


「また笑うてくれたか」


 法皇は心底安堵したように息を吐き、口調を柔らかくした。


「任官の件、朕の一存で決めようと思うが」


「えっ、……いや……」


 牛若の声に明らかな焦りがある。いや、「それだと兄上に嫌われてしまいます」、そう言いたいのだと弁慶は察する。


「鎌倉の頼朝も、そなたのことが嫌いではあるまい」


「……っ」


 牛若は肯定も否定もできず、黙り込んでしまった。あの冷酷な手紙を知っている弁慶たちと、それを知らない法皇。その埋めようのない隔たりがそこにあった。


「推挙の名がない件は、何か意図があるやもしれぬし、単に使いの者の不手際かも知れぬ、のう?」


 法皇に問われても、牛若は目を伏せたままうまく答えられないようだ。


「……ほら、あの無能な使いが書き忘れたんだぜ。この前来たあいつだよ」


 三郎が隣で一人納得したように小声で囁き、弁慶は微かに息を吐いた。


「朕が任官を許可するとして、頼朝も何か腹案があったなら言ってくるであろう。他の仕事を九郎にさせたかったとかであれば、後で変えればよい。のう、受けてくれぬか」


「いえ、それだと……兄上がお怒りになります……」


 弁慶は目を伏せた。


 許可のない任官は頼朝を怒らせるという景時の理屈を思い出すが、牛若は組織の統制など何も理解していないだろう。ただ「兄が怒る」という単純な言い方しかできないのだ。そのあまりにも不器用で幼い返答に、弁慶は胸の奥がひどくむず痒くなる。息がやや乱れ、思わず長刀の柄を握る手にぐっと力がこもる。


「朕は頼朝を怒らせる意図はない。何か問題があれば向こうから言ってくるであろう。そもそも、頼朝はそなたの活躍を喜んでおるであろう?」


「……いや、それは……」


 手紙には何一つ労いの言葉などなかったことを、弁慶たちは知っている。


「武家というものは、そう気軽に身内を褒めたりはせぬのかもしれんな。だが、少なくともそなたは兄の立派な助けになっておる。そして、朕の助けにもなっておるのだ。褒美をあげないと、朕に天罰が下るというものよ。……任官、承諾してはくれぬか?」


「え? えっ……」


 牛若の口から、心臓の鼓動が聞こえてきそうなほど震えた声が漏れる。ただ兄に怒られる恐怖だけが、彼を縛り付けていた。


「――なぜそなたは、この何も持たざる、老いぼれの贈り物を受け取ってくれぬのじゃ……?」


 法皇の声が、ふいに涙ぐんだように震えた。


(――この声は)


 かつて奥州で、藤原秀衡が牛若を引き留めようとして困り果てていた時の声と同じだと、弁慶は思い至った。


「頼む。どうして任官を受けられぬのじゃ?」


「その、兄上が……」


「大丈夫じゃと言うておろうが」


「しかし……その……っ」


 以前より押しの強い法皇に、牛若は口ごもるばかりだ。


「分かった。何が問題なのか、『兄の言いつけ』以外で、そなたの口から説明してくれぬか」


「いや、その……っ」


 牛若の声が完全に色を失い、震え出した。弁慶は、自らの呼吸が奇妙に浅く、熱を帯びていくのを感じていた。理屈で言い返せず、ただおろおろと追いつめられていく主の姿が、どうしようもなく腹の底を甘く痺れさせる。


 答えられるわけがない。景時が並べ立てた下界の複雑な理屈など、天界の稚児に分かっているはずがないのだ。理を問いただされたところで、ただ兄の不興を恐れるばかりの牛若に、うまく答えられはしないにちがいない。


「そんな困った顔……怯えた、泣きそうな顔をしないでおくれ。朕まで悲しゅうなるではないか」


 法皇は焦った様子を見せたが、それでも引き下がる様子はない。


「父と思うて信頼してほしい。頼むから、朕の言うことを聞いておくれ。任官、承諾してくれるな?」


「……申し訳ありませぬ」


「どうしてもか? これは、朕の命令ぞ」


「命令……しかし、いや、その」


 天下の王者に逆らうことなど、牛若にできはしない。それでも、ずっと渇望し、いまだ何一つ労いの言葉をくれない兄をこれ以上怒らせるのが怖くて、牛若が今にも壊れそうになっているのが弁慶には分かった。


「どうしても、首を縦には振ってくれぬか……九郎。もう一度頼む。……受けておくれ」


 御簾の奥で衣擦れの音が大きく鳴った。法皇が強引に身を乗り出し、牛若の肩あたりを抱きすくめるようにしたのだ。絶対的な熱と権威が、逃げ場のない牛若にのしかかる。


「………………はい……」


 ついに牛若の口から、蚊の鳴くような、掠れた悲鳴のような声が漏れた。法皇の強烈な熱と押しに呑み込まれ、理屈なき抵抗が完全に陥落した瞬間だった。


「おお、受けてくれるか! 誠にめでたい! 朕はうれしいぞ!」


 法皇はぱっと声を明るくし、満足げに頷いた。


「これからは検非違使として出仕するのだ。他の貴族たちと同様、化粧も済ませておいで。出仕用の装束は今渡させるゆえ」


 嬉しそうに言い含める法皇の声に、牛若はただ力なく平伏したままだった。


 装束を受け取り、御所を辞し、白砂を踏んで屋敷へと歩みを戻す。


「いやあ、ついに牛若さまが官位を貰うことになったな! 法皇様の直々の推挙だ、あの帳面じじいもぐうの音も出ねえだろうぜ!」


 三郎は隣を歩きながら、喜びに声を弾ませていた。


「……そうだな」


 弁慶は短く相槌を打つ。前を歩く牛若の背中は、ひどく頼りなく、少しの風で吹き飛んでしまいそうに空虚だった。


 弁慶は、法皇の力と熱によっていとも容易く征服されてしまった主の絶対的な脆さを目の当たりにし、ただ密かに、ぐっと奥歯を強く噛み締めていた。

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