第三十四話 言の葉のなき文
六月に入り、京の蒸し暑さが増していく中でも、牛若の働きは精巧さを増していった。
洛中を荒らす盗賊の捕縛、市中のいさかいの裁定、木曾や平家の残党の処理。どれをとっても丁寧かつ隙がなく、都の治安はかつてないほどに保たれている。
法皇もその手腕を絶賛しているようだった。そもそも法皇が与えようとしている検非違使の役目は、まさに今牛若がやっていることそのものなのだ。
が、牛若は景時が示した「兄上の言いつけ」を固く守り、一切の官位や褒美を受け取ろうとはしなかった。ただひたすらに、兄のために都を治め続けている。
弁慶は、ずっと斜め後ろからその姿を眺めながら、ある種の確信を抱いていた。
鎌倉の頼朝がどれほど冷酷な男であろうと、上に立つ者としての「理」があるだろう。これほどの功績を上げ、かつ忠実に命令を守っている身内の武将を、いつまでも放置しておくのは為政者として筋が通らない。一ノ谷の最大の功労者でもあるのだ。
次こそは、必ず恩賞と西海への出陣命令が下るはずだ。これまで牛若が求めてきた情ではなくても、盤石な武家政権を築くための当然の采配として。弁慶の冷ややかな分析ですら、そう結論づけざるを得ない。
だからこそ、六条堀川の屋敷に鎌倉からの使者が到着した時、家臣たちの顔は一様に明るかった。
「ついに牛若さまに吉報が届きましたな」
駿河次郎が珍しく口元を綻ばせ、三郎や鷲尾や佐藤兄弟も弾むような足取りで庭先に並んだ。
縁側に座る牛若も、平静を装ってはいるが、その双眸は隠しきれない熱を帯びていた。膝に置かれた白い手が、微かに、だが確かに期待に震えている。
兄からの言葉を受け取るための、あまりにも無防備な表情だった。
使者が恭しく書状を開き、抑揚のない声で読み上げ始めた。
弁慶は静かに耳を澄ませた。
「源範頼を三河守に推挙し、任官が叶った。よって範頼を西海遠征の総大将とし、平家追討に向かわせる」
庭先の空気が止まった。
「九郎は引き続き京に留まり、都の治安維持に専念せよ。以上である」
……労いの言葉はおろか、ただの一言も、牛若個人の功績に触れる文言はなかった。ただ淡々とした、配置の通達だけがそこに落ちた。
弁慶は、ただ重いため息をついた。
「……な、なんだと? それだけかよっ」
三郎が呆然と呟き、次いで佐藤継信が一歩前に出た。
「お待ちいただきたい。一ノ谷であれほどの働きをした義経さまを差し置き、なぜ範頼殿が総大将なのです」
「それに」
忠信が付け加えた。
「都の治安維持に専念せよとは……義経さまを平家討伐の軍から外すということですか」
冷ややかな声に、怒りが混じっていた。
「義経さまの神様みたいな働きを、全部無視すんだな……鎌倉のお兄さんは」
鷲尾も信じられない様子だ。
「……九郎さまの神がかった働き、私も文にしたためて書き送ったはずですが……」
いつになく駿河も落ち込んでいる。自分も報告を送っていただけに、吉報を期待していたのだろう。
その場の誰も納得がいかず、使者へとにじり寄ろうとする。
「……申し訳ありませぬが、私はただの使いに過ぎませぬゆえ……」
使者は困ったように鈍い声を紡ぎ出すだけだ。
「随分――」
弁慶は地響きのするような声をゆっくりと使者に投げつけると、相手は慌てて後退りする。
「――失礼な手紙を持ってくるものよ」
ただこの無能そうな使者を、困らせたくなっただけだ。
「そうだ! この手紙、お前が書いたんじゃねえのか?」
三郎が妙なことを言い出すと、鷲尾が「うん、そうに決まってる!」と同調し、佐藤兄弟や駿河も詰めより、「何ですとっ……」とうろたえる使者のつるし上げのような事態になる。
「みな、やめよ」
牛若の静かな声が、家臣たちを制した。
牛若は縁側からゆっくりと降りると、使者の前へ歩み寄り、その書状を無言で手に取った。
弁慶は、斜め後ろから主の横顔を見つめた。
牛若の澄んだ瞳が、手にした書状の文字を上から下へ、右から左へと、食い入るように追っている。
弁慶には分かっていた。主は、官位がもらえなかったことや、戦から外されたことを気にしているのではない。
ただ、文面のどこかに隠されているかもしれない、「九郎、よくやった」「お前が頼りだ」という、たった一言を探しているのだ。あんなにも命を張って木曾も平家も打ち破り、忠実に言いつけも守り、都のために尽くしてもいる自分へ向けられた、兄からの言葉を。
だが、いくら視線を走らせても、そこには乾いた公的な命令しか記されていないようだった。みなが一様にそれを息を呑んで見守っていた。
ふと、牛若の動きが止まった。
牛若の横顔から血の気が引いていくのが見えた。
怒りも、悲しみすらもない。ただ、内側に張り詰めていた無数の糸が音もなく弾け飛び、感情という感情が完全に抜け落ちていく。
恐ろしいほどの沈黙が、庭先を支配した。
「……兄上の命、確かに承った。大儀であった」
牛若は、書状を使者に返し、ひどく平坦な声で告げた。抑揚の一切ない、まるで中身が空洞になってしまったかのような響きだった。
使者が一礼して去っていく。
三郎たちが何かを言いかけたが、牛若が再び縁側に力なく腰を下ろし、東の空へ向けて背中を向けると、誰も言葉を発することができなくなった。
初夏の眩しい陽光が庭の白砂を照らし、遠くで今年初めての蝉の声が聞こえている。しかし、縁側に座る直垂姿の背中だけが、まるでそこだけひんやりと温度を失ってしまったかのように静まり返っていた。
三郎がたまらず一歩踏み出そうとしたのを、弁慶は無言で長刀の柄を横に突き出し、制止した。
三郎が振り向いて弁慶を睨む。なぜ声をかけないのか、と言いたげな痛切な顔だった。三郎の目には涙が光っていた。見ると他のものも目が潤んでいる。
弁慶はただ主の背中を見下ろしていた。
声をかけられないのではない。
弁慶は、深く息を吸い込んだ。肺を満たす初夏の空気が、奇妙なほど甘く感じられる。
あの背中を鎌倉へと繋ぎ止めていた細い糸が、今、断ち切られただけだ。
弁慶は長刀を引き寄せ、その場に静かに立ち尽くした。誰も触れることのできない静寂の底で、ただその絶対的な空洞を瞬きもせずに見つめ続ける。
「……使者は帰ったか?」
突如酒臭い行家がふらつく足取りで現れる。
「いい加減見切りをつけたらどうだ?」
にやつきながら言う奸物の言葉に、誰も答えない。全員が涙目なのが目に入ったらしく、急にぎょっとした顔になると、そのまま奥へと消えていった。
弁慶は牛若の背中に一番近い斜め後ろで、主の呼吸が落ち着くのをじっと待ち続けていた。




