第三十三話 遠き空と路地の面影
昨夜の冷たい夜風と、土塀の隙間から見えた哀切な光景は、幻であったかのようだった。
翌朝の六条堀川の屋敷には、初夏を思わせる眩い陽光が降り注いでいた。
弁慶は、庭先で弓の手入れをする伊勢三郎と無言で視線を交わした。三郎の目の下には微かに隈ができている。昨夜、一条長成の屋敷の外で、母に声をかけることもできずに泣いていた主の姿を思い返し、ろくに眠れなかったにちがいない。
弁慶とて同じだ。あの絶対的な孤独を抱え込んだような昏い感覚が、今も腹の底に重く沈殿している。
だが、当の牛若はと言えば、昨夜の涙など微塵もおくびに出さず、けろりとした晴れやかな顔で縁側に姿を現した。
「弁慶、三郎。出かけるぞ」
白地に薄青の紋が入った、涼しげな直垂姿だ。その声には、淀みも憂いもない。
三郎が慌てて弓を置き、駆け寄った。
「牛若さま、お出かけですか? どちらへ」
「法皇様のところだ。任官の件、返事を保留していた。私が直々に承諾を伝えてくる」
牛若は、まるで近所の親類を訪ねる童子のような気軽さで言った。
「兄上も喜ぶはずだ」
弁慶は眉を微かに動かした。実平の語った伝聞も手伝ったのだろう。
「なるほど、そりゃいいですね! 俺たちもお供しますよ!」
三郎が明るく応じると、奥から佐藤継信と忠信、そして駿河次郎や鷲尾三郎もぞろぞろと出てきた。皆、主の晴れやかな顔を見てうれしそうだ。
一行が門を出て歩みを進め始めた、まさにその時だった。
「待たれよ、義経殿!」
門の外から、一人の男が足早に入ってきた。
梶原景時だった。
普段は冷徹に帳面を見つめている男が、珍しく額に汗を滲ませている。その険しい顔つきに、屋敷の空気が一瞬にして張り詰めた。三郎は「げっ、朝から帳面じじいのお出ましかよ……」とげんなりした呟きを漏らした。
「景時殿?」
牛若が不思議そうに小首を傾げると、景時は庭の砂利を踏みしめ、牛若の前に立った。
「法皇様より左衛門少尉ならびに検非違使の任官を打診されたと聞き及びました。今すぐお受けしようなどと、ゆめゆめお考えになりませぬよう」
「……なんだと?」
真っ先に噛み付いたのは三郎だった。
「あんた、これで黄瀬川の時から一体何度目だ? 何度も何度もしつこすぎるんだよ」
心底うんざりしたようにため息をつき、景時を睨みつける。
「いい加減にしてくれ。実平じいさんの方は、京の治安維持の役職なら受けてもいいって言ってたぞ。あんただけだ、毎回毎回言いがかりをつけてくるのは」
「そなたには話しておらん。わしは義経殿に直接申しておる」
景時は冷徹な声で言うなり、牛若へと視線を戻す。三郎が「なんだと……!」と突っかかりそうになるのを弁慶が押しとどめた。
「義経殿。無断での任官はなりませぬ。鎌倉殿の事前の推挙を通さず、朝廷から直接官位を賜るのは、武家の筋道に反し、鎌倉の統制を乱す行為。手順を踏まねば、鎌倉殿が激しくお怒りになりますぞ」
弁慶は無言のまま、ただ景時の不遜な物言いを鬱陶しく感じていた。
「景時殿、あまりにも言葉が過ぎます」
佐藤継信が、静かに、だが冷ややかな怒りを込めて前に出た。
「義経さまは、私欲で官位を求められているわけではない。法皇様のご期待に応え、都の平穏を守るためです。それは鎌倉殿の誉れにもなるはず。それを……統制を乱すなどと、ひどい言いがかりです」
「兄者の言う通りだ。あなたはいつも義経さまの足を引っ張るような理屈ばかり並べ立てて。いい加減にしていただきたい」
忠信も鋭い声で同調する。
「景時殿――」
駿河次郎は景時を冷ややかに睨んでいた。
「九郎さまの栄達を、下々の者が止めてはならぬはず」
「何を申す……」
頼朝の家臣だった駿河にも物静かに反論されて、景時もわずかに動揺する様子が見えた。
(そう言えば駿河、牛若さまは褒美をもらってはいけないというのが「鎌倉殿の厳命」だと、以前は言っていたが……)
今の駿河は、よく務め上げていると言える。今となっては何もかも昔のことのようだ。
鷲尾が三郎に小声で「なんだっけ、このじじいは?」と小声で聞くと、三郎は「いつもの帳面じじいのやつだ」と吐き捨てるように答えていた。
ふと弁慶は、斜め前にいる牛若の顔から、すっと血の気が引いていっていることに気づいた。
「……兄上が、怒るのか?」
牛若の唇から、震えるような細い声が漏れた。
景時の「鎌倉殿がお怒りになる」という最後の一言だけが、牛若の心臓を冷たい手で鷲掴みしたようだった。
「いかにも」
景時は静かに頷いた。
「筋道を通さぬと、鎌倉殿の不興を買うにちがいありませぬ。それは義経殿とて例外ではありますまい」
牛若の澄んだ瞳が、あからさまに泳いだ。
「それは……いけない。兄上に怒られるのは、嫌だ」
まるで、親に叱られることを恐れる幼子のような顔だった。
「牛若さま、そんな脅しを気にする必要は……!」
三郎が必死に庇おうとするが、牛若は力なく首を横に振った。
「いや三郎、景時殿の言う通りにしよう。兄上に嫌われてしまったら……困る」
牛若は、さっきまでの晴れやかな顔が嘘のように、しゅんとうつむいてしまった。
「……法皇様のもとへ向かうのはやめておこう。景時殿、承知した」
珍しくあっさりと景時の言うことを聞いた牛若に、景時は面食らった様子を一瞬見せると、微かに安堵の息を吐き出した。
「……ご理解いただき、重畳に存じます。では、それがしはこれで」
景時は深く一礼すると、足早にその場を去っていった。
「帳面じじい、邪魔しに来やがるの何度目だ……! とうとう牛若さまも折れちまったじゃねえか……!」
三郎が砂利を蹴り飛ばしながら吐き捨てる。
弁慶は意味もなく空を見上げた。
牛若は景時の言葉の大部分を理解しているわけではないだろう。ただ「兄に怒られたくない」という全く別の、あまりにも幼い理由だけでそれに従ったようだ。
「……屋敷に戻ろう」
牛若が力なく呟き、踵を返そうとした、その時だった。
「――きゃぁっ……!」
通りを隔てた遠くの路地の奥から、布を引き裂くような悲鳴が響いた。
風に乗って届いたその声に、牛若の背中が反応する。
「……助けよう」
ぽつりとこぼした瞬間、白い直垂がふわりと翻った。
地を蹴る音すらなかった。まるで風に攫われたかのように、牛若の姿が屋敷の門から表の大路へと飛んでいく。
「お待ちくだされ……!」
弁慶は長刀を握り直し、三郎や継信、忠信、駿河次郎、鷲尾とともに全速力で主の背中を追った。
だが追いつけない。あの宇治川の激流を前にした時のように、あの方の背中だけが、まるでこの世の理から外れたかのように遠ざかっていく。弁慶たちは必死で息を乱しながら、入り組んだ路地を曲がった。
先に袋小路が見える。
着古した粗末な小袖に、顔を隠すように深く市女笠を被った小柄な女が、へたり込んでいた。
その女を取り囲むようにして、薄汚れた身なりの男たちが五、六人、下卑た笑いを浮かべて太刀を抜いている。木曾や平家の残党崩れだろう。
そこへ、牛若がふわりと音もなく舞い降りていた。
「なんだ、この小童は」
男の一人が、白い直垂姿の細身の牛若を見て、せせら笑った。
「怪我したくなかったら失せろ」
男たちは牛若を完全に舐めきり、油断しきった足取りで距離を詰める。
「兄上の治める都に、狼藉者は要らぬ」
澄み切った声が響いた。
弁慶たちがようやく追いつき、武器を構えて飛び込もうとした、その直後。
白銀の刃がきらりと閃いた。牛若の太刀は峰に返されている。
それは、戦闘と呼ぶにはあまりにも流麗な、圧倒的な神業だった。
牛若の身体が地を滑るように動き、瞬きをする間に一人、また一人と、男たちの手首や膝を的確に打ち据えていく。無駄な力みも、怒りもない。
弁慶は構えた長刀を下ろし、息をすることすら忘れて、ただその戦慄するほど美しい「舞」を恍惚と眺めていた。横目で見れば、三郎も佐藤兄弟も同じように呆然と立ち尽くしている。誰一人として、加勢に入る隙などなかった。
地面に転がり、男たちが手足を押さえて無様に呻き声を上げるまで、ほんの数瞬の出来事だった。
牛若は、へたり込んでいる女の前に歩み寄ると、静かに太刀を鞘に納めた。
「怪我はないか」
淡々とした声だった。
「あ……はい……」
女は震えながら、土に汚れた手で細い顎を上げようとした。その所作には、身なりに似合わぬ妙な品の良さがあった。
その拍子に市女笠が微かに傾き、顔を覆っていた薄布の隙間から、透き通るような若く白い首筋と、その横顔がふいに露わになった。
だが、牛若は女の顔などろくに見ることもなかった。
牛若は、路地の頭上に切り取られた青い空――遠い東の方角をじっと見上げ、憑かれたように眩しい顔をした。
「これも……兄上ならお喜びだろう」
足元の女を完全に無視し、牛若はただその純粋な期待だけを口にして、さっさと踵を返した。助けた者への関心すら微塵もない冷淡な背中だった。
だが、少し離れた位置からその女の横顔を目にした瞬間、三郎がふっと息を呑んで立ち尽くした。
「……あ」
三郎の目が限界まで見開かれ、その唇が微かに震えている。弁慶もまた、女の顔を見て長刀を握る手にぐっと力を込めた。
常盤御前に顔つきがどこか似ているように思えたのだ。
いや、年齢は違うし、凝視すると生き写しというわけでもないから、他人の空似というやつだろう。だがあの夜、一条長成の屋敷の庭先で笑っていた、あの美しい牛若の母親の顔に、目の前の若い娘の横顔はぞっとするほど似た部分があったのだ。
三郎の顔が、見る見るうちに痛切な色に歪んでいく。ただ何も言えずにいるらしい。
よく見たら全くの別人だし、一族である可能性もなさそうだ。ただ偶然似ているだけだろうに、そのことに牛若が気づかずさっさと立ち去ったことに、ひどく胸がざわつく。いや弁慶としては、むしろ落ち着き払いたくもあった。
弁慶は咄嗟に横に立つ佐藤継信の顔を窺った。
継信は、女の顔を見ても、ただ怪我がなくてよかったとでも言うような、平坦な表情を浮かべているだけだった。
(……そうか)
弁慶の胸の底から、どす黒い歓喜のようなものが湧き上がってきた。
あの一条の夜、継信はずっと遠くの暗がりに控えていた。やはり、庭先の常盤御前の顔までは見ていなかったのだ。
主――牛若の涙を……その涙の理由を知っているのは、弁慶と三郎だけなのだ。
弁慶は、ぐっと力を込めていた長刀の柄から、ゆっくりと指を解いた。荒ぶっていた息が、冷水のように腹の底へと静まっていく。自分が誰よりも深く主の孤独の底に触れていたという昏い悦びを身体中で反芻しながら、弁慶は遠ざかる白い背中を追って静かに歩き出した。
牛若は景時の忠告を素直に守り、こんなふうに都の平穏も少し守ってみせた。次こそは、兄から温かい労いの言葉が出陣命令と共に届くはずだ――そう主は思いたいにちがいない。
弁慶の目には、前を歩く主の背中が、純粋にそれだけを信じて待つ、ひどく健気で哀れなものに見えていた。
振り返ると、先ほどの女が身につけた笠を外し、牛若の遠い背中を必死に見つめているようだった。
礼を言う暇さえなかったのだから無理もあるまい。弁慶は自らの巨躯でその女の影をそっと隠した。




