第三十二話 一条の塀
深い闇に包まれた京の大路を、弁慶は三郎と息を殺して急いでいた。
六条堀川の屋敷から忽然と姿を消した牛若を探し、あてもなく夜の都を彷徨う。春先とはいえ、夜半の風は肌を刺すように冷たい。だが、もぬけの殻となった寝所を目にした時の焦りが未だに消えず、主君の行方不明という異常事態に身体からはじっとりと汗が滲み出していた。
やがて、屋敷へ通じる裏道の暗がりの中に、ひっそりと歩いてくる二つの影を見つける。
ふわりと夜風に揺れる、汚れ一つない白い直垂。間違いなく牛若だ。そしてその後ろには、影のように音もなく従う継信の姿があった。
「牛若さま……!」
弁慶が安堵と微かな怒りを滲ませて声をかけると、牛若はびくっと肩を揺らし、足を止めた。
「あっ、弁慶。それに三郎も……なぜ、こんな夜更けに外にいるのだ」
「それはこちらの台詞ですぞ。深夜に突然お姿が見えなくなり、我らがどれほど心配したか。一体どこへ行かれていたのです」
弁慶が詰め寄ると、牛若は明らかに動揺し、澄んだ瞳を泳がせた。天界の稚児は隠し事があまりにも下手だった。
「その、それは……月を。少し、月を眺めていただけだ」
「月ならば、屋敷の庭でも眺められましょう」
「庭の月と、外の月は違うのだ! ……もう寝るぞ!」
痛いところを突かれた牛若は、耳の裏まで赤く染め、子供のように言い返すと、弁慶たちの横を逃げるようにすり抜けて屋敷の門をくぐっていった。
「なんだよ、あの見え透いた嘘は。そりゃ可愛い嘘だけどよ……あれで俺たちを騙せると思ってるのか? 危なっかしくて見てられねえぜ」
三郎が呆れたように、しかし頬を緩ませて呟いた。
不器用すぎる嘘だ。だが、その嘘のつけない幼い動揺ぶりに、弁慶は甘痒い妙な気分にさせられる。
残された継信に対し、弁慶たちは厳しい視線を向けた。
「おい、継信。一体どこへ行っていたんだ」
三郎が詰め寄るが、継信は申し訳なさそうに視線を伏せた。
「……夜、馬の世話をしていた時、偶然義経さまが一人で屋敷を抜け出されるのに出くわしたのだ。こんな夜中にお一人で歩かせるわけにはいかぬ。護衛のためにただお供をしただけだ」
「どこへ行かれていたのだと聞いているのだ」
弁慶が凄むが、継信は首を横に振った。
「……それ以上は何も言えぬ。主との約束だ」
継信は一言だけ言って、それきり固く口を閉ざした。継信だけが主の夜の秘密を共有し、それを義理堅く守っている。その男の沈黙は、弁慶の胸の底に鈍く重い焦燥を落としていた。
翌晩。
屋敷の者たちが寝静まった頃、牛若と継信は再び密かに屋敷を抜け出していた。
今夜は、弁慶と三郎が距離を置き、足音を殺しながらその背中を尾行していた。
月明かりを避け、建物の陰を縫うように進む牛若たちが辿り着いたのは、大蔵卿である一条長成の広大な屋敷であった。
弁慶は闇の中で目を細めた。主の生い立ちにまつわるこの屋敷の場所は、以前から密かに、それこそ執念深く調べ上げて確認済みだった。
牛若は立派な土塀の陰に身を潜めた。中へ入るわけでもなく、ただじっと塀の隙間から屋敷の内側を窺っている。一方の継信は、牛若の邪魔にならぬよう、ずっと遠くの暗がりに気配を消して控えていた。
少し離れた物陰――継信よりはずっと近い距離からその様子を見つめながら、弁慶は隣にいる三郎に、かつて吉次から詳しく根掘り葉掘り聞き出した話を静かに語り聞かせた。
「主……牛若さまが幼い頃、母君である常盤御前はこの屋敷の主である一条長成殿と再婚し、この家の人となられたのだ」
本当は、主が抱えるその傷を直視したくなくて、弁慶自身も考えまいとしてきた過去だった。だが、何も知らないであろう三郎を見ていると、「お前より俺の方が、あの方の深い部分を知っているのだ」という歪な優越感を示さずにはいられなかった。
「長成殿は源氏の人間である主の存在を疎み、一切の関心を持たなかった。結果として、牛若さまだけが新しい家族の中の余り物として、鞍馬の山へ預けられたのだ」
弁慶の低い声の響きに、三郎は息を呑んだまま黙り込んでいた。
弁慶は牛若の視線の先を追うように、塀の隙間越しに屋敷の庭先を覗き見た。
月明かりに照らされた庭には、美しい女性の姿があった。牛若に少しだけ似ているので、常盤御前にちがいない。その姿は若々しく、たおやかな美しさを保っていた。
その傍らには、一条長成との間にできたと思われる年頃の娘が寄り添っている。常盤は娘と楽しそうに笑い合いながら、その髪を慈しむように優しく撫でていた。
その光景を見つめていた三郎が、ふと呆れたように息を吐き出した。
「……母親があんな美人なら、そりゃ巷の女は目に入らねえな……」
三郎の呟きが夜風に溶ける。
塀の陰に身を潜める牛若の姿を凝視していた弁慶の耳に、微かな音が届いていた。
牛若が、声を殺して泣いていたのだ。
肩を微かに震わせ、庭先の光景から目を離すことなく、ただ静かに涙を流している。ずっと遠くに控えている継信からは、あの涙までは見えていない気がする。
弁慶は、息をすることすら忘れてその光景を見つめていた。三郎も目を見開き、奥歯を強く噛み締めている。
想像してみた。自分が一条長成と交渉するか、あるいは僧としての過去の伝手を使えば、秘密裏に常盤と牛若を引き合わせることは可能なはずだ。だが――自分から母に声をかけることもできず、ただ塀の外で泣くことしかできない主の、奥ゆかしさと知恵のなさと幼さを考えると、弁慶の身体は不思議と落ち着いてくるのだった。
「牛若さま……なんで俺たちに話してくれなかったんだろう……」
三郎の声はひどく寂しそうだった。
「まるで、よそよそしいじゃねえか……母親に会いたがっていることを、俺たちに知られるのが恥ずかしいとか……?」
夜の冷気に声を震わせながら、ぽつりぽつりと呟く。その横顔はひどく沈んでいる。弁慶は答えなかった。
「俺たちの牛若さまが……ただどうしたら良いか分かんなくて、何も言えずにこんな夜中、隠れてここに忍んで来ていたんだと思うと……」
三郎はいつになく泣きそうな顔になっていた。
主の一挙一動をしっかり凝視してご奉公していたはずなのに、と弁慶も奥歯を噛み締めていた。
「こんなところで泣かれるのは反則だぜ。あの泣き顔を見せられたら、どうしたら良いか分からなくなってしまうじゃねえか。今すぐ抱きしめて差し上げたいのに……」
三郎がやり場のない思いを夜風にぶつけるように言った。
「不潔なことを言うな」
弁慶は吐き捨てた。一方で、あの幼い涙を前にして、己の内に渦巻く歪な感情を持て余しそうだった。
「俺たち下っ端は何もできねえ……」
三郎が自嘲するように吐露した痛切な言葉に、弁慶は珍しく「ああ」と同意を示した。
それきり、二人の会話は途絶えた。
牛若は、涙が乾くまであそこから動かないだろう。
弁慶はこれ以上その姿を暴くことを躊躇い、三郎に目配せした後、気配を殺してそっとその場を離れた。




