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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
第二部 貴公子の乱舞

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第三十一話 天狗の笑い

 一ノ谷の戦勝から幾日か過ぎた頃、牛若は院の御所へ召喚された。


 先の木曾義仲の乱暴狼藉や騒乱によって本来の御所は失われている。現在の後白河法皇(ごしらかわほうおう)は六条の仮御所に滞在したままだ。


 とはいえ、仮の住まいであろうと小綺麗に整えられており、京の中枢に君臨する王者の威厳は建物の隅々にまで満ちている。仄かに漂う香木の匂いが、戦場の泥と汗の記憶を遠い彼方へと押し流していくようだった。


 弁慶と三郎の二人は、牛若の護衛としてこの御所まで付き従ったものの、当然のことながら拝謁(はいえつ)の間に入ることは許されない。二人は板張りの冷たい廊下に控え、じっと息を潜めていた。


「どうにも、肩が凝る場所だな」


 三郎が声を潜めてぼやきながら、膝の上でそわそわと手を動かしている。


「静かにしろ。お前のような盗賊上がりがいること自体がおかしい。俺のような僧は身分を超越できるのである」


「弁慶が坊さんって柄かよ。都合のいい時だけ坊主ヅラだ」


 そんな会話がなされる中、御簾の向こう側では、法皇と牛若、そして法皇の寵愛深い丹後局、さらにその後ろで報告役として同席している土肥実平が顔を合わせているはずだった。戦後の残務や軍の再編で多忙を極める景時や、形の上では総大将である範頼に代わり、老獪で人当たりの良い実平が代理として付き従っていた。


 やがて、御簾の奥から、絹擦れの音とともに王者の威厳を纏った声が響いてきた。


「九郎」


 その言葉の響きはひどく甘ったるく、微かに肩しか見えない牛若がひどく動揺しているであろうことは、弁慶にも容易に想像がついた。


「此度の戦の働き、まことに見事であったと聞いておるぞ」


 法皇の声にはどこか無邪気な響きがある。


「……ありがたき幸せに存じます」


 天界の稚児の返答は、いつものように清らかだった。


 傍らに控える丹後局の声が続く。


「まるで、天から降り立った童子のようでございますわ。あのような荒々しい武士どもの頂に、これほどたおやかな……」


「うむ。道なき断崖絶壁を飛び下りたそうではないか。そちは鞍馬寺(くらまでら)の育ち、天狗に兵法を学んだとか。崖から天狗のように空を飛んだという噂じゃ。まことかの」


 法皇はまるで新しい玩具を見つけた子供のように、興奮気味にたたみかけた。目の前の若武者を珍しがっているようだった。


「……あはははっ」


 突如御簾の奥から、弾けるような、それでいて透き通った笑い声が響いた。


 弁慶は我が耳を疑った。三郎も目を丸くして、信じられないものを見るような顔で御簾を見つめている。


「九郎、何がおかしいのじゃ」


 法皇が不思議そうに問う。


「申し訳ございませぬ、法皇さま。私が天狗の弟子で、空を飛んだなどと……あまりにもおかしなことを仰せられますゆえ」


「あははっ」と、牛若はもう一度、腹の底から楽しそうに、やや高めの声を上げて笑った。


 それは、戦場での声とも、兄への想いを口にする時の熱とも違った。白い歯を見せて笑っているにちがいない。何の警戒も持たない笑い声だった。


「おお、そうか。空は飛ばぬか。それは残念じゃのう。だが、それほど愉快に笑ってくれるとは。朕はうれしくてたまらぬぞ」


 法皇も牛若の笑いにつられて機嫌を良くしたようだった。


 廊下で控える二人は、複雑なため息を共有していた。


「……なんだよ、あれは」


 三郎が、信じられないというように呟いた。


「俺たちには、いつもつれないくせに。なんで、あの偉いじいさんにはあんな可愛い声で笑うんだよ。ずるいじゃねえか」


 口をとがらせる三郎は忌々しそうだ。


 だが、弁慶の胸の奥で広がっていたのは、より深くねっとりとした感情だった。


(……笑止なことだ。法皇だか何だか知らぬが、天界の稚児の天真爛漫な笑い声を引き出したくらいで……。勝手に得意になるがいい)


 弁慶は心の中で冷たく吐き捨てていた。


(奥州の秀衡殿が与えた莫大な富の温もりも、あのお方の心を真に満たすことはなかった。兄の鎌倉殿は何も与えぬ。五条の大橋での汗の匂いを知っているのは、この世で俺ただ一人だ。あの方の真の肢体(したい)の躍動を、魂の熱を、この長刀の刃越しに受け止めたのは俺だけなのだ)


 それは誰にも立ち入らせられない、薄暗い優越感だった。


 御簾の向こうでは笑い声が収まり、法皇が声の調子を少し改めた。


「さて九郎。此度の戦功、まことに見事であった。朕は、お主を左衛門少尉さえもんのしょうじょうに任じ、あわせて都の治安維持に向け検非違使(けびいし)任官の宣旨を下すつもりじゃ。いわゆる判官(ほうがん)であるぞ。ふふふ」


 うれしくてたまらぬという様子の笑い声である。牛若を喜ばせたくて仕方ない様子だ。


 だが、牛若はすぐには答えなかった。静かな呼吸のわずかな乱れだけが微かに聞こえてくる。


「……その、お言葉はありがたく存じますが、鎌倉の兄上からの命により、そのようなご褒美は受け取れませぬ」


 牛若は、固く、しかし礼儀正しく固辞した。兄からの言いつけを守ろうという健気な意志が見える。


 法皇の前で直々に口を開くことが許されているのは身分上牛若だけであり、実平や弁慶たちはただ後ろでため息をそっと漏らすことしかできない。遠くの実平のため息は、温かい響きがした。


 牛若の無垢な返答に、後白河法皇は不機嫌さを見せるどころか、太陽のように明るい笑い声を立てていた。


「そう固くなるな、九郎。朕は、そなたを庇護していたという奥州の秀衡殿のような財力もなく、また土地を気軽に与えられる力もない。そなたの働きに報いられるのは、このような紙切れの官位だけじゃ」


 それは、法皇の奥ゆかしくも切実な本音に聞こえた。清らかで美しく愛らしいこの若き英雄に、天下の王者として何か贈り物をしたい。だが、今の朝廷にはそれしかないのだと言いたいようだった。


「……法皇さま」


 牛若は言葉に詰まってしまったようだった。天界の稚児は法皇の純粋な善意に戸惑うしかない。


「その……兄上の、お言いつけゆえ……」


「兄上も喜ぶであろう」


「いや、その……兄上は……」


 牛若のひどく動揺した声に、弁慶は胸をかきむしりたくなる。牛若が頼朝の冷ややかな対応以外で色を失っていることに、主君の危機を案じるのとは異なる、微かに背徳的な悦びを感じてしまうのだ。


「……おい、牛若さま、大丈夫か? 泣きそうな声だぜ……」


 三郎は今すぐ飛んでいって助けてやりたそうな声音だ。


「……法皇に悪意はなさそうだ。放っておけ」


 三郎の方を見もせず、弁慶はこの光景を遠くから凝視していた。


「九郎、どうした? 何か気に障ったか……?」


 法皇は威厳を引き、目の前の牛若を困らせてしまったのか、心配な様子だ。


「いえ、法皇さま……あの、兄上は……」


 牛若は、兄のこと以外で法皇を説得することができない。実はおそろしく口下手であることに弁慶は気づいた。心臓が妙に高鳴る。


「よいよい、すまぬ。今即答せよなどと圧力をかける意図など朕にはない。今日はこれで退出し、またその顔を見せておくれ。返事は急がぬ」


「……はい。ありがとうございます」


 言い終えると、牛若はほっとため息を漏らした。弁慶はそのため息を耳にして、喜べばよいのか、どういうわけか分からずにいた。




 拝謁を終えて御所を出た一行は、六条堀川の屋敷へと歩を進めようとしていた。


「義経殿。先ほどの官位の件、お受けにならないので?」


 実平が、隣を歩く牛若に穏やかに尋ねた。老人が孫にほしい贈り物を尋ねるような温かみがあった。


「兄上から、朝廷から官位を賜ってはならぬという言いつけがあるのです」


 牛若は顔を曇らせたまま答える。軍議の時と異なり、年長者の実平には敬語の口調だ。奥州の秀衡に対する話し方に少し似ている。


「なるほど」


 実平は老人らしい落ち着いた笑顔を浮かべた。


「気になさることはありませぬぞ。鎌倉殿が、京を治めるための役職はお受けしても良いと、以前おっしゃていた気がいたしまする」


「まことですか」


 牛若はすぐにうれしそうな声音になる。


「分かりました。ありがとう、実平殿」


 牛若は実平の温かい言葉に、素直に礼を言っていた。


「……ほら、やはりおかしいのはあの帳面じじいだけじゃねえか」


 三郎が後ろで安堵の声を漏らす。実平の言葉ひとつで、牛若の心はすっかり軽くなっているようだ。


「……しかし、兄上からの手紙はまだ来ないな」


 牛若が、ぽつりと寂しそうに呟く。ここから鎌倉は遠いから、一ノ谷の戦勝報告自体は時間がかかるにしても、戦況ごとに早馬は向かっているはずだ。官位などというよく分からない褒美よりも、兄からの労いの言葉が届かないことのほうが、天界の稚児にとってはよほど重大な問題なのだ。




 六条堀川の屋敷に戻ると、留守番をしていた佐藤兄弟や駿河次郎、鷲尾三郎らが牛若を出迎えた。


 広間でくつろぎながら、御所での出来事が話題に上る。


「検非違使と左衛門少尉ですか。それは名誉なことですな」


 佐藤継信が感心したように言うと、忠信も「まさに」と同調する。


「ううむ……」


 駿河は少しだけ言葉を濁した。


「鎌倉殿は、みだりに官位を受けるのはだめと言っていた気もしますが……まあ、実平殿のお言葉があるなら、ぜひお受けしましょう」


 結局のところ賛同だ。そこへ、いつの間にいたのか、すっかり酒の回った新宮十郎行家が、赤い顔をして口を挟んできた。


「だいたい頼朝の奴は、自分の栄華しか考えておらぬのだ。九郎が官位を受けたとなれば、奴には妬みにしかならぬぞ。まあいい機会だ、思い知らせてやるがよい。ふふふ」


 行家の変な理由での同調に、牛若はきょとんとして首を傾げた。


「叔父上、どういう意味ですか?」


「気にすることはありませんよ、牛若さま」


 三郎がすかさず割って入る。


「酔っ払って鎌倉への暴言を吐いてるだけですよ。無視しましょう」


「こら、なんじゃ、わしをバカにしおって」


 行家がふらつきながら三郎に指を差すが、その場にいる誰も本気で相手にはしない。


「ささ、行家殿、もう一杯いかがですかな」


 駿河が慇懃無礼(いんぎんぶれい)な手つきで酒を行家の杯に注ぎ込み、強制的に黙らせる。


 屋敷の広間は、和やかな宴の空気に包まれていた。誰もが、これからの平穏な日々を夢見ているだろう。




 その夜。


 屋敷中が寝静まり、囲炉裏の火もすっかり落ちた深夜のことだった。


 ふと目を覚ました弁慶は、妙な胸騒ぎを覚えて身を起こした。気になって見ると、牛若が休んでいるはずの奥の寝所から、微かな気配すら感じられない。


 弁慶は急ぎ足で廊下を渡り、寝所の障子をそっと開けた。


 月明かりに照らされた部屋の中には、綺麗に整えられたままの空の寝具だけが白く浮かび上がっていた。


 牛若の姿がない。


(牛若さま……!)


 弁慶の血の気が引いた。


 こんな深夜に、ただ一人でどこへ行ったというのか。


 弁慶は血眼になって屋敷の中を探し回り始めた。廊下を駆け、庭を隈なく見渡す。


 すると、同じように偶然起きてきたらしい三郎と鉢合わせた。


「おい、どうしたんだ弁慶。そんな血相を変えて」


「牛若さまがおられない。寝所が空だ」


「なんだと」


 三郎の顔色も一瞬で変わった。


 二人は無言で頷き合い、屋敷の隅々まで血眼になって主を探した。だが、どこにもその姿はない。


 さらに嫌なことに、よく見ると佐藤継信の姿も寝所から消えていた。弟の忠信や駿河、鷲尾らは、戦の疲れもあってか深い寝息を立てて熟睡している。行家も酔いの眠りだろう。


 牛若がいない。継信もいない。


 それは、牛若が何らかの意図を持って、継信だけを連れて密かに屋敷を抜け出したということを意味していた。


 主君の行方不明という非常事態だ。


 迷わず弁慶は飛び出した。夜風の中を走ると、三郎も後についてきていた。


「二人で何してるんだ?」


「それを突き止めるのだ」


 弁慶は務めて冷静に答えたが、今まで一時たりとも牛若から目を離さぬよう気をつけていただけに、密かに心臓は踊り狂っていた。

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