第三十話 熱狂と帰還
京の大路は、凄まじい熱気に包まれていた。
木曾義仲を討ち果たした宇治川の合戦で、すでに源氏の若き総大将の牛若への評価は高まっていたが、此度の凱旋はそれとは比べ物にならない。難攻不落の平家の陣を落とし、あの断崖絶壁を駆け下りたという武功は、都の民衆を熱狂の渦に巻き込んでいた。
「義経さま!」
「一ノ谷の英雄じゃ!」
洛中を揺るがすような歓声の中、源氏の隊列はゆっくりと進む。
景時や景季、重忠、高綱、直実といった御家人たちとは、都の入り口で労いの言葉を交わし、すでにそれぞれの宿所へと別れていた。今、牛若の背後に続いているのは、いつもの直属の従者たちだけである。
「へっ、聞いたか? 都の奴ら、牛若さまのこと、鵯越の崖から空を飛んだとか、若く美しい姿をした神の化身だとか噂してやがるぞ」
三郎が、馬上から民衆に手を振り返しながら、得意げに鼻を鳴らした。
「空を飛んだ、か」
佐藤忠信が笑い、兄の継信も目を細める。
「ま、我らから見ても、結構当たっている気もするが」
「ちがいない」
駿河次郎も、普段の冷静な顔を崩して相好を崩した。
「俺にとっちゃ、本当に神様みたいなもんだからな。空を飛んだって言われても驚かねえや」
新入りの鷲尾三郎も、圧倒的な人の波に目を丸くしながら、大きく頷いている。
「まさに」
弁慶は家来たちの浮き立つ様子を眺めながら、そっと頷いた。天界の稚児。神。似たようなものだ。主の影を踏まぬように歩みを進める。
牛若は、ただうれしそうな表情で馬を歩ませていた。
一行は馴染み深い六条堀川の屋敷へと到着した。
門をくぐった鷲尾が、あちこちをきょろきょろと見回して息を呑む。
「すげえ上等な屋敷だな……。こんな立派なところに俺も寝泊まりしていいのか」
「当たり前だ。今日からここがお前の家だ」
三郎が胸を張り、鷲尾の背中を叩いた。
外の狂騒が嘘のように、屋敷内には静かで淀んだ空気が漂っていた。
「おお、ようやく帰ったか」
縁側に座り込んでいた留守番中の行家が、赤ら顔を向けて立ち上がった。手持ち無沙汰に酒を飲んでいたらしい。
「お前たちがいない間、都落ちしそびれた平家の残党が押し入ってきやしないかと冷や冷やしておったわ。まったく、年寄り一歩手前のわしを放ったらかしにしおって。だがまあ、無事に戻ったならよしとしよう」
文句を垂れながらも、行家の声には身内が帰還したことへの安心感が一応は滲んでいた。三郎たちも慣れたものだ。このうざったい居候の小言を聞き流しながら、ようやく我が家へ帰り着いたというため息を分かち合う。
板張りの広間に上がると、屋敷の中は心地よい疲労感が広がっていった。
「そういえばあの帳面じじい、鎌倉殿にどんな嘘八百を並べ立てるか分かったもんじゃねえな」
三郎は道中での険悪なやり取りを思い返しているようだ。
「牛若さまの働きを、どうせ自分の都合の良いように捻じ曲げて報告するに決まってる」
「まあ待て、三郎」
駿河次郎が、壁に背を預けたまま落ち着いた声でなだめた。
「報告の役目を仰せつかっているのは、景時殿だけではない。土肥実平殿もだ」
「あ、あのまともな方のじいさんもかよ」
「そうだ」
駿河の言葉に、佐藤兄弟が顔を見合わせて破顔した。
「それなら安心です。実平殿なら、義経さまの魅力を誰よりも分かっておられる」
「そうだな兄者。いつもおかしな言いがかりばかりの景時殿が何を吹き込もうと、実平殿が真実を伝えてくだされば大丈夫だ」
家来たちの間に、ほっとした空気が広がる。だが、少しだけ視線を泳がせた駿河は、やがて意を決したように口を開いた。
「実は……元々頼朝さまから配属されたこの俺も、戦果を報告しろと言われていた」
その言葉に、広間がふっと静まり返る。駿河の表情はぎこちなかった。
「なんだ、あんたもか!」
三郎が弾んだ声を上げ、駿河の肩を力強く叩いた。
「それなら二重に安心じゃねえか! まともな方のじいさんと駿河の報告があれば、あの帳面じじいの嘘なんて一発で吹き飛ぶぜ!」
「違いない。駿河、義経さまのあの神懸かりの働き……」
「きっちり鎌倉殿に伝えてくれよ」
皆が無邪気に笑い声を上げる。
弁慶は長刀の刃を拭いながら、彼らのやり取りをそっと眺めていた。
「……なんとも予想の斜め上を行く反応ばかり。不気味な者たちよ」
行家が酒の入った杯を見つめたまま、誰に言うでもなく呟いたが、酒による混乱であろう。
「義経さまはおられるか」
「おお、行綱殿」
弁慶がさらっと返事をする。広間の入り口に多田行綱が立っていた。
行綱は小さく一礼すると、奥の牛若へ向かって声を張った。
「義経さま。それがしは、景時殿の用意してくれた宿舎へ参ります」
「うむ」
牛若が他意のない穏やかな微笑を返すと、行綱はうれしそうに目を細める。
「義経さま、次の戦を楽しみにしておりますぞ」
行綱は元気に言い置いて、名残惜しそうに屋敷を出て行った。
牛若は、縁側で冬の終わりを告げる京の空を見上げていた。
「……兄上に、早く知らせが届くと良いな」
その声は実に柔らかかった。
「……鎌倉殿も」
弁慶は牛若を真っ直ぐ見つめた。
「此度の戦果を聞けば、さぞお喜びになりましょう」
「そうだといいな」
嬉しそうに頷く牛若の視線は空を眺めていた。三郎たちはにこにこと牛若の横顔を凝視している。
「いつか、鎌倉の兄上がこの屋敷にいらっしゃる日が来るのが、楽しみだ」
「……まさに」
弁慶は天界の稚児の悲しき願いを、全身で静かに受け止めていた。




