第三話 父の幻影
宿場の片隅で、踏み固められた土の上に、小さな焚き火が爆ぜている。
すすけた小鍋の中で煮えるのは、ただの塩粥だ。三郎が木匙でそれをかき回し、器に盛って弁慶に差し出した。
「ほら、食いな。あんた、さっきから仏頂面が過ぎるぜ」
弁慶は無言でそれを受け取った。熱い粥を啜るたび、喉の奥が焼けるような不快感が込み上げる。
隣で気楽に粥を啜る男、三郎。あの大橋での神聖な儀式を、その汚れた手とはしたない言葉で汚した元盗賊。自分はまだ許されていない「牛若」という名を、この男は呼吸するように口にする。
「……三郎と言ったか。貴様、なぜあの御方に付き従っている」
弁慶の低い問いに、三郎は「へへっ」と軽く笑った。
「なぜって、そりゃ、盗賊の俺が退治されてしまったということもあるが……源氏の御曹司を奥州まで送り届けるなんて大仕事、面白そうじゃねえか」
「源氏……の御曹司だと?」
弁慶の手が、止まった。
天界の稚児。そう呼び、神格化していた少年の背負う「血」の正体は、滅びの美をまとっていた。
弁慶の中で、主への敬畏がさらなる深みへと沈んでいく。同時に、その尊い肌に当然のように触れていた三郎への不快感が、暗く胸を浸した。
「……左様。あれこそが、平治の乱で滅び去った源氏の残された希望。そして、危うい夢の担い手ですぞ」
暗がりから、低い声が響いた。吉次だった。焚き火のそばに腰を下ろすと、疲れた老人のような顔で炎を見つめる。
「……吉次殿。一つ、問いたい」
弁慶は震える声を押し殺し、吉次を射抜くように見つめた。
「一行が目指している奥州の秀衡殿というのは、主の血縁者であられるか」
「いえ、さようなものではございませぬ。奥州の藤原氏は、源氏のご恩から生まれた勢力ではありますが、その程度のものにございます」
吉次の淡々とした言葉が、夜の静寂に響く。弁慶は眉をひそめた。源氏の生き残った御曹司が、なぜ遠い奥州へ向かわねばならないのか。
「……赤子の時に父を討ち取られ、幼くして母と引き離されたあの方は、鞍馬の寺で、ただの一人も己を愛する者を知らずに育ちました。私はその拠り所なき心に、ひとつの灯を点したのでございます」
吉次は、静かに言葉を続けた。
「遠い奥州の秀衡さまが、父のような気持ちであなたを待っている……。そうわたくしが囁きかけた時のことでした。何も知らされていなかった牛若さまに、それまで私が平家への復讐や、実父源義朝さまの敵討ちを説いた時には見せなかった、妙に幼い光が、あの方の瞳に宿ったのです。……あれは、武士の野心などではありますまい」
吉次が自嘲気味に口角を歪める。
「私は、あの御方に『見も知らぬ老人を父と思わせる』という残酷な夢を見せてしまったかもしれません。時折、その報いが恐ろしく感じております」
吉次の独白を、弁慶は噛みしめるように聞いた。
自分が命を捧げると決めた、危うい存在の奥底にある、まだ言葉にもならぬ幼い渇きが感じられた。
その時、宿の奥の間から、ふらりと人影が現れた。牛若だった。
「吉次、今秀衡殿という言葉が聞こえたぞ」
その声を聞いた瞬間、弁慶は息を呑んだ。そこに立っていたのは、昼間までの凛とした主君ではなかった。寝乱れた髪のまま、遠く奥州の空を夢想しているかのような、頼りなげな瞳だ。
「吉次。秀衡殿は、本当に私を待っていてくださるのだろうか」
牛若は、弁慶や三郎の存在など眼中にないかのように、吉次に問いかけた。その瞳に宿った輝きは、あまりにも美しく、触れれば壊れてしまいそうなほどに危うい。
弁慶の胸の内で、静かな衝撃が走った。
この御方は、家来の忠誠など見てはいない。ただ自分を迎え入れてくれる「場所」だけを追い、現実から一歩浮き上がっているかのようだ。
自分は、この御方が求める「何か」にはなれないのだろうか。どれほど血を流そうと、この距離を埋めることは叶わないのか。
弁慶は、冷えた地面に置いた長刀を、静かに、だが力強く握りしめた。主が求めるものが自分に向けられないのであれば、せめてこの身を、誰にも侵せぬ強固な「盾」とし、この危うい少年を、俗世のあらゆる毒から守り抜かねばならぬ。
それは忠義という言葉だけでは括れぬ、暗く重い密かな誓いだった。




