第二十九話 京への帰途
山々を吹き抜ける風は、依然として刃のような鋭さを保っていた。
一ノ谷の激戦を終え、京の都へ向けて行軍する源氏の隊列は、勝利の熱を孕みながら、泥濘んだ山道を力強く踏みしめていた。
弁慶は牛若の数歩後ろを歩いていた。
長刀を肩に担ぎ、踏みしめる土の重さを足裏に感じる。鎧の小札が触れ合う微かな金属音、軍馬の鼻息、そして、最前列を行く主の、汚れ一つない白い直垂の背中。
弁慶は、その背中を見つめながら、ただ黙々と歩を進めていた。
その静寂を破ったのは、背後から聞こえてきた、紙が擦れる音と、一人の若武者の苛立った声だった。
「父上。先ほどから何をごちゃごちゃと書いておられるのですか」
梶原景季が馬を寄せ、眉間に深い皺を刻んで帳面に向かう景時を見下ろしていた。
「……軍律に照らし、此度のことを記録しておるのだ。景季、お前は黙って前を見ておれ」
景時は顔を上げず、揺れる馬上でも筆を走らせ続けた。その事務的な態度に、景季が声を荒げた。
「黙っていられませぬ! 父上のくだらない采配のせいで、私は生田の森で退屈な時間を過ごさせられたのです。私も義経さまと一緒に、あの崖から飛び降りたかった。あの神懸かりの奇襲に加わりたかったのです! それなのに父上は、あのような奇跡を、軍律などという言葉で汚そうとなさる!」
息子の訴えに、景時はようやく筆を止め、冷ややかな視線を向けた。
「もう何度も説明したであろう。義経殿のなさったことは、たまたま起きた奇跡に過ぎぬ。その軍功は評価するが、本来軍勢をあのような死地へ投じるなど、あってはならぬことだ。お前まであちらへ行かせておれば、今頃崖下には人馬の死骸が山をなしていたであろう。二度は起きぬことを頼りに戦うのは、戦を双六に頼るのと同じなのだぞ」
「景時殿」
父の理詰めの言葉に、横から涼やかな声が割って入った。佐々木高綱だ。
「義経さまの放たれる光は、常に我らを勝利という名の頂へ導いてくださいます。その光を執拗に避け、暗がりの帳面ばかりを見つめておられるとは。それがしも義経さまの美しい瞳から遠ざけられ、実につまらぬ時間を過ごさせられた。あのお美しい光を、不当に奪われてしまったからです」
「またわけの分からぬことをぶつぶつと。頭が痛くなってくる」
「……それは現実を見ようとなさらないからです」
背筋の伸びた畠山重忠の凛とした声が響いた。
「景時殿。私は此度、義経さまの精廉な風に呼ばれたのです。少人数で死地を切り抜け、あのお方の御馬をお守りできたことは、武士としてこれ以上の誉れはございませぬ。景時殿も、その美しい風を拒否する己の所業を、今一度、武士として振り返られるのがよろしいかと」
「重忠殿っ、いつの間にそちらの軍に行っておられたのじゃ。事前に取り決めたことを勝手に変えられては困りますぞ」
「義経様の美しい風を、そのような暗闇の帳面で汚すことに、それがしは一向に感心できませぬ」
重忠が透き通った声でそっと言い終えると、景時は頭を抱え込み出す。
「許可なく勝手に隊を変えられては、軍律が崩壊すると申しておるに……!」
「うむ、それはわしが許可した。一人くらい良いじゃろうとな」
「なっ……」
カバ殿こと範頼の、あまりに淡々とした事後承諾に、景時は二の句が継げなくなったようだ。
「腰を抜かしそうじゃ……。範頼さままで、そのように……」
「そうですとも父上! 範頼さまも認めておられるではありませんか。私も重忠殿のように崖から飛び降りたかった! 父上がおかしな編成を強要してこなければ、今頃私も手柄を立てていたであろうに!」
景季が心底悔しそうに声を上げると、景時は「お前は黙っておれ!」と苛立ちを隠せずにいる。
「父上が軍議の場でおかしな編成をしなければ済んだことだ!」
「そこまで申すか! お前が話すと何もかもややこしくなるのじゃ!」
「梶原殿」
騒ぎを聞きつけたらしい熊谷直実が、景時を睨みつけながら腹の底に響くような声を上げた。
「そもそも貴殿は、あんな華奢で純粋な義経さまを、少人数で敵中へ放置したのだぞ。一歩間違えば、義経さまの御命はなかったにちがいない。それを奇跡だの軍律だのと。なんとおそろしいことか。景季殿という自慢のご子息までおられながら……貴殿はそれでも子を持つ親か。もはや鬼畜生の所業じゃ。大いに反省されよ!」
「熊谷殿、待たれよ。『鬼畜生』などとはあまりにもひどい言われようじゃ……。何か誤解されておる……! 私は決して義経殿を放置など……!」
「父上は黙っておられよ!」
景時の必死の弁明は、景季をはじめとする周囲の声にかき消されていく。
弁慶は、振り向きもせずに歩みを続けた。長刀の柄を握る掌にじっとりと汗が滲んでいた。
「……賑やかだな」
不意に、前を行く牛若が呟いた。弁慶は足を止めずに答える。
「はい。我々の作戦に加われなかったことを、悔しがってくださっている方もおられるようで」
「何で揉めているのか、私にはよく分からぬ」
さもあろう。天界の稚児からすれば、あのような知性の足りない論争など理解に値しない。
その時、隊列の脇を歩いていた多田行綱が、感極まった様子で牛若に近づいてきていた。
「義経さま……。それがしは此度の勝利、そして木戸口での戦いを通じ、己の魂が救われた心地がいたします」
行綱は泥にまみれた顔を輝かせ、喜びに震えていた。
「かつて密告という汚れた道を選んだそれがしが、義経さまの清らかな太陽に照らされ、ようやく武士としての本分を取り戻せました。義経さまのために働けることを心から誇りとしております」
弁慶は隣でその語りを聞きながら、内心では冷たく吐き捨てていた。
(しつこい男としか言いようがない。天界の稚児が、お前の薄汚い過去や、そこからの浄化だの汚名返上だのという、地を這う虫のようなくだらない話に興味など持ってくれるはずがなかろう。不遜な男め)
だが、牛若は行綱の方を向き、ふわりと笑った。
「行綱のうれしそうな顔を見ていると、私もうれしい」
素直な言葉だったが、行綱は虚を突かれたように目を見開いた。
「義経さま……」
「その笑顔を、いつか兄上にもお見せすると良い。きっと喜ばれる」
牛若はそう言うと、再び前を向いて歩き出した。
行綱は、涙ぐみながらその背中に深々と頭を下げている。
弁慶は、行綱の横を通り過ぎざま、小さく息を吐いた。
(……牛若さまはお前の不潔な話など、欠片もお耳には入っておらぬわ)
声に出して言ってやってもよかったが、勝手に感動しているようなので放っておくことにする。
そこへ、空気を変えるように、足早な男が寄ってきた。鷲尾三郎だ。
崖下の案内役として雇われたはずの猟師は、いつの間にか当然のような顔をして、家来の一団に混じっていた。
「……鷲尾か。お前、まだついてくるのか?」
弁慶が問うと、鷲尾は少しだけ気恥ずかしそうに鼻を擦った。
「おう。なんだか、足が勝手にこっちへ向いてしまうんだ。案内だけで終わるつもりだったのに……あの崖を降りる義経さまの背中を見た瞬間、思ってしまったんだ。俺は、今日からこの御方の家来になるんだってな」
鷲尾の言葉は飾らない純朴なものだった。
「だが……俺みたいな無学な猟師風情が、こんな立派な方々の中に混ざっていいのか……正直、恥ずかしいんだ。俺からしたら義経さまは神様みたいな御方だ。俺なんかが側にいちゃ、罰が当たるんじゃねえかとさ」
鷲尾の自嘲気味な言葉に、横から鼻を鳴らす音が聞こえた。伊勢三郎だ。
「おい、新人。この俺が『伊勢三郎』だ」
三郎は、馬を鷲尾に寄せ、上から見下ろすように睨みつけた。
「いいか、三郎の名はこの俺が先だ。お前は今日から『鷲尾』とだけ名乗れ。分かったか」
明らかに先輩風を吹かせている三郎だったが、その口角は心なしか上がっている。
「分かったよ、三郎さん!」
「さん付けはやめろ、こそばゆい。おい、みんな! また変なのが増えたぞ!」
三郎の呼びかけに、周囲の佐藤兄弟や駿河次郎が、どっと笑い声を上げた。
「ははは! 良いではないか」
「三郎って男が増えるのは縁起が良い」
「鷲尾、遠慮はいらぬぞ」
家来たちは、新入りの鷲尾を心よく迎え入れた。鷲尾は照れくさそうに頭をかきながらも、その目は嬉しそうに牛若の背中を追っている。
泥にまみれた男たちの笑い声が、春先の冷たい風に混じって響いた。
ふと、道が広がり、遠くに京の町を囲む山々が見えてきた。
「……兄上に、早く知らせが届くと良いな」
牛若が、独り言のように呟いた。
その声は、今日聞いたどの言葉よりも、柔らかく弾んでいた。
「……鎌倉殿も、此度の戦果を聞けば、さぞお喜びになりましょう」
弁慶が応じると、牛若は嬉しそうに頷き、少しだけ歩みを早めた。
弁慶の胸に、鈍い痛みが走る。この方の世界には、最初から最後まで、鎌倉の兄しかいないのだ。
弁慶は、主の影を踏まぬよう、黙ってその後を追った。




