第二十八話 海辺の父性
天から降り注いだ白銀の衝撃によって、一ノ谷の平家軍は完全に崩壊していた。
海へと続く白い砂浜は、敗走する平家の兵と、それを追う源氏の武者たちで埋め尽くされている。
弁慶は、波打ち際から少し離れた乾いた砂浜で、長刀を杖代わりにして荒い息を整えていた。
崖を馬で駆け降りるという狂気じみた行軍と、その後の乱戦での護衛。さすがの弁慶も、立っているのがやっとというほどの疲労を感じていた。
だが、視線の先には、疲れを知らぬ主の姿がある。
波打ち際は、我先にと沖の助け船へ殺到する平家の公達や雑兵で溢れかえっていた。彼らは皆、半狂乱で海へ飛び込み、我のみは助かろうと必死にもがいている。
だが、その退路を、一陣の白い風が断ち切っていく。
牛若である。
彼は黒毛の馬を優雅に操り、逃げ惑う敗走兵の間を縫うように駆け巡っていた。もうここへやって来てから、かなりの時間が経っている。
「逃がさぬ……兄上のために!」
涼やかな顔に似合わぬ鬼気迫る執着で、牛若は波飛沫を上げて逃げる背中を次々と薙ぎ払っていく。
太刀を振るうたび、敵兵が弾かれたように倒れ伏す。そこに泥の汚れすらなく、牛若の通った跡だけが、浄化されたかのように白く輝いて見えた。
「主をお守りせねばならぬが、身体が言うことを聞かぬ……」
弁慶が掠れた声で呟いた時、山手の方角から泥まみれの武者たちが駆け下りてきた。
西の木戸口を攻めていた多田行綱の軍勢である。
「義経さまーっ!」
行綱は、全身を泥と汗で汚しながら、満面の笑みで牛若のもとへ駆け寄った。
「お約束通り、木戸を突破し、鵯越を制圧しましたぞ! 我らが挟み撃ちにしたおかげで、敵は総崩れでございますな!」
行綱は、敵が崩れたのは自分たちが木戸を落としたからだと信じて疑わない様子だった。実際は、牛若が崖から非常識な奇襲をかけた時点で勝負は決していたにちがいない。
「うむ、行綱。大儀であった」
牛若が馬上から涼やかに労うと、行綱は「ははーっ!」と感涙に咽びながら平伏した。
その滑稽ながらも純粋な忠誠心を、弁慶は冷めた目で見つめていた。
ふと東の空を見ると、源氏の白旗が無数に翻っているのが見えた。
どうやら、範頼率いる大手軍も生田の森の激戦を制し、敗走する敵を追ってこの浜へと雪崩れ込んできたようだった。東西から挟み撃ちにされた平家は、もはや海へ逃れるしかない。
そんな喧騒の中、一人の大柄な武者が、ふらふらと頼りない足取りで弁慶の近くを彷徨っているのに気づいた。
(熊谷直実か。いつかの軍議にいた覚えがある)
関東の剛の者だ。生田の森から敵を深追いし、ここまで駆けてきたのだろう。馬を引くその姿は猛々しいはずだが、今の直実には、この勝利の高揚感など微塵も見られなかった。兜の緒は緩み、その目は光を失い、まるで魂の抜けた人形のようになっている。
その小脇には、彼自身の直垂の袖を引きちぎったと思われる、上質な布に包まれたものが大切に抱えられていた。
弁慶は、その布の膨らみと重みを見て、それが何であるかを瞬時に悟った。敵将の首級にちがいない。
「……熊谷殿」
弁慶が声をかけると、直実は虚ろな顔をゆっくりと向けた。
「……おお、武蔵坊殿か」
直実の声は枯れ木のようだった。直実はぎこちなく息を吸い込み、言葉を紡ぎ出した。
「武蔵坊殿……俺は、取り返しのつかぬことをした。我が子小次郎は腕を射抜かれ、陣で呻いておるというのに……俺は……」
直実は、抱えた布包みを愛おしむように、そして恐れるように強く抱きしめた。
「俺は、その小次郎と同じ年頃の、美しい若武者をこの手にかけてしまったのだ。……薄化粧をし、お歯黒までつけた、まだ蕾のような公達だった。組み敷くまで、まさかそんな少年だとは思いも寄らず……助けようとしたが、味方の軍勢が迫っていた。俺は、泣く泣く首を落とすしかなかった……」
直実の唇が震えている。
戦場に似つかわしくない優美な若者を殺めたこと。そして、傷ついた我が子への想い。直実は武士という生き業の残酷さを突きつけられ、心が壊れかけているようだった。
弁慶は、かける言葉を持たなかった。
武士として名を上げるために戦場に来たはずが、その功名こそが心を蝕む毒となる。それが戦の習いだと言ってしまえばそれまでだが、目の前の男の悲嘆はあまりに深かった。
だが、戦場はまだ動いている。
弁慶は、直実の肩を強く叩いた。
「熊谷殿。……心中お察しする」
弁慶は、努めて低い声で言った。
「だが、嘆くのは後になされよ。向こうを見られがよい。あちらにも今すぐ死にそうな若武者がおられるゆえ、助太刀していただきたい」
弁慶が指差した先には、波打ち際で戦う牛若の姿があった。
直実が、死んだ魚のような目でそちらを見る。
「義経さま……」
そこに映ったのは、あまりにも細く、白く、儚い若武者が舞う姿だった。
ふと弁慶が視線を移すと、沖合へと逃れようとする大型の軍船に、朱塗りの唐櫃が運び込まれるのが見えた。
「あれは……神器か! 神器を逃がしてはならぬ!」
牛若が必死に叫ぶ。
三種の神器。兄・頼朝に捧げ、朝廷にお返しすべき絶対の証。それが今、船に乗って遠ざかろうとしている。
「待て! 逃げるな!」
牛若は叫ぶと、躊躇なく馬の腹を蹴った。
黒毛の馬が嘶き、そのまま海へと突っ込んでいく。
「牛若さまっ!」
伊勢三郎が素っ頓狂な声を上げた。
「そっちは駄目です! そこは深いですから! 馬じゃ無理ですよ!」
「九郎さま、お戻りを!」
駿河も血相を変えて叫ぶ。
「義経さまっ!」
「どうかお諦めを! お戻りください!」
佐藤兄弟も必死になっていた。
だが、彼らも周りの敵で手一杯で、主との距離はあまりに遠かった。
牛若は、神器への執着のみに突き動かされ、波の高い海へと馬を進めていく。
だが、自然の猛威は、牛若の純粋な意志など歯牙にもかけない。
急な深みに馬が足を取られたのか、あるいは押し寄せた大波に均衡を崩したのか。馬が大きく体勢を崩し、牛若の身体が宙に投げ出された。
激しい水柱が上がる。
重い大鎧を纏った牛若の身体は、石のように海中へと没した。
「牛若さまっ!」
弁慶が悲痛な声で叫び、動かぬ体に鞭打って駆け出す。だがあまりにも距離がある。
海面で、白い直垂が必死にもがくのが見えた。
激しく水面を叩くその姿に、先ほどまでの神業は微塵もなかった。泳ぎを知らぬのか、鎧が重すぎるのか。波に翻弄され、ただ沈みゆく無力な若武者だった。
「義経さまっ!」
気づけば直実の叫び声が、弁慶のもとを一気に通りすぎていた。いつの間にか馬に飛び乗っており、大切に抱えていた首の包みは、近くにいた従者に押し付けていた。
直実は砂浜を蹴り進んだ。
大柄な巨体が馬から飛び降りると、そのまま巨岩のように海へと飛び込む。鎧の重さなど、この剛の者にとっては衣一枚ほどの重みもないようだった。
直実は荒々しい泳ぎで波を切り裂き、沈みかけた牛若のもとへ瞬く間にたどり着いた。
そして、その細い首根っこを巨大な手で掴むと、荒波から引っこ抜くようにして強引に引きずり戻した。
波打ち際に二人が打ち上げられる。
直実は、ずぶ濡れの牛若を砂の上に横たえた。
牛若は海水を吐き出し、激しく咳き込んだ。白い肌は青ざめ、身体は小刻みに震えている。
「げほっ、ごほっ……放せ……! 神器が……兄上の……!」
牛若は、まだ海へ戻ろうとしていた。
だが、その手足は鉛のように重く、立ち上がる力すらない。
「義経さま、直実にございます! 我ら源氏に船の用意はございませぬ! もはや追いつけぬのです!」
直実は刺々しく叫んで牛若を制したが、腕の中で震える牛若から目を離せずにいた。
なんと軽い。なんと脆い。弁慶の目には、直実がそう感じて衝撃を受けているのが手に取るように分かった。先ほどまで鬼神のように敵を退けていた若武者が、今は折れそうな小枝のように震えているのだ。
いつの間にか、直実の表情に不思議な生気が宿っていた。
先ほど弁慶に語っていた、少年武者を斬ったことへの悔恨。息子を案じる親心。行き場を失っていたそれらの感情が、目の前の「危うい命」へと一点集中し、奔流となって流れ込んだのだろう。
この若武者は、放っておけば、あまりに純粋すぎて勝手に死んでしまう。誰かが、親のような目で見守り、その無茶を力ずくでも止めねばならぬ。そう確信した目だ。
直実の瞳に、重い決意の光が宿った。それは忠義などという言葉では生温い、一種の父性にも似た、歪んだ使命感の目覚めであるように、弁慶には見えた。
直実は、泥と海水にまみれた顔で、牛若を壊れ物のように抱きかかえ、その太い腕の中に囲い込んだ。
「義経さま……! どうか、ご自愛なされませ! この熊谷直実、貴方様のお命をお守りいたします!」
牛若の華奢な背中を、直実の剛腕が包み込む。
遅れて駆けつけた弁慶は、その光景を斜め後ろから見下ろしていた。
(……また一人、増えたか)
弁慶は、長刀の石突きをドンと砂に突き立てた。
直実の背中からは、強烈な父性の匂いが立ち上っている。それは行綱のような「許しを乞う者」とは違う、「守ってやる」という一方的で厄介な情熱だ。
この底なしの戦場に、また一人、新たな者が引きずり込まれた。
弁慶は、無事に咳き込む主の背中と、それを悲壮な決意で支える新たな男を見つめ、潮風の中で静かに息を吐き出した。




