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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
第二部 貴公子の乱舞

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第二十七話 絶望の逆落とし

 鵯越の木戸へと向かう多田行綱の軍勢と別れ、さらに深く険しい山中へと分け入った牛若の一行は、ついにその場所にたどり着いた。


 夜明け前の薄明かりの中、眼下に広がっていたのは、道と呼ぶにはあまりに無慈悲な、絶望的な断崖絶壁だった。


 草木すらまばらにしか生えぬ急勾配は、もはや坂ではない。垂直に近い岩肌が遥か下まで続いている。覗き込めば吸い込まれそうな高度であり、足元の小石が音もなく闇へと落ちていく。


 遥か下、霞むような底には、平家の陣と思われる赤旗の群れが、豆粒のように小さく見えた。


「義経さま。ここが、平家の陣の上だ」


 案内役の鷲尾三郎が、顔を引きつらせて呟いた。


 冷たい風が吹き荒れ、一行の直垂を激しく打ち鳴らす。馬たちは本能的に危険を察知したのか、怯えたように鼻を鳴らし、後ずさりを始めた。


「鹿はここを通るのだな」


 牛若が、崖の縁ぎりぎりに立ち、涼しい顔で問うた。


「そうだ、義経さま。冬場に餌を探す鹿が、たまに通るって聞いたことがあるだけだ」


 鷲尾は、牛若に対して敬語を使う能力はないようだが、その声には畏敬の念が滲んでいた。


 だが、鹿が通れるからといって、重い甲冑を纏った武者や、ましてや人を乗せた馬が降りられる道理はない。理屈で言えば、ここを降りるのは自害そのものだ。


 一同が絶句し、沈黙が場を支配する中、土肥実平が静かに進み出た。


「義経殿」


 実平は、牛若と崖の間に割って入るように立ちふさがった。その表情は、三草山の時のような狼狽ではなく、何かを決意した老将の重みを帯びていた。


「この崖、どう見ても人の通る道ではございませぬ。ましてや馬に乗って進むなど論外。ここを降りれば、十中八九、命を落としましょう」


 実平の言葉は正論だった。だが、彼はそこで言葉を切らず、牛若の瞳を真っ直ぐに見つめたまま、膝をついた。


 そして、湿り気を帯びた切実な声で言った。


「義経殿。それがしは、鎌倉殿のように、義経殿を心からお慕い申し上げております」


 その唐突な言葉に、背後に控えていた伊勢三郎が「はっ?」と素っ頓狂な声を漏らした。


 だが実平は構わず、言葉を紡ぐ。


「義経殿がお命を大事になさいませんと、鎌倉殿とそれがしは、心から悲しみまする。貴方様のお命は、もはや貴方様お一人のものではないのです。鎌倉殿と、我らの、希望そのものなのですから」


 実平は、涙ぐみながら牛若の手を両手で包み込んだ。


「どうか、無理な突撃はせず、迂回するなり、安全な策をとると、このじじいにお約束くださいませ。この辺りの道を探れば、もっと良い突入方法が見つかるかも知れませぬ。何卒、生きて鎌倉殿の元へ帰ると、このじじいにお誓いください」


 三郎が、不愉快そうに舌を鳴らした。


「なんだよあのじいさん……! どさくさに紛れて変なこと言いやがって……!」


 佐藤継信と忠信も、駿河次郎も、無言で顔を見合わせ、眉をひそめている。


 弁慶は、その光景を無表情で見下ろしていた。


 老いた手が、主の白い手を包み込んでいる。その一点を見た瞬間、弁慶の手の中で、長刀の柄がぎちりと音を立てた。


 弁慶は目を細め、実平の手元だけをじっと凝視したまま、深く、重い息を吐き出した。


 牛若は、実平に手を握られたまま、きょとんと瞬きをした。そして、ふわりと微笑んだ。


「分かった。土肥殿の言うこと、肝に銘じよう」


 その笑顔は、あまりに無垢で、従順に見えた。


 実平は安堵に大きく息を吐き、顔を上げた。


「おお、分かっていただけましたか! では、まずは慎重に……」


「うむ、兄上を悲しませてはならぬ。実平の気持ちもうれしい。だが……」


 牛若は東の空を見た後、崖に視線を移した。


「この崖を降りて平家を滅ぼせたら、兄上はとてもお喜びになるはずだ。馬が降りられるかどうかを試すとしよう」


 牛若は、微笑みながら実平の手をそっと外し、崖の縁へと視線を戻した。


「え?」


 実平が固まる。


 牛若は、実平の懇願の「意味」ではなく、その必死な「感情」だけを快く受け取ったのではあるまいか。牛若の表情は実平のおかげで軽やかになっていた。


「誰か、余った馬はおらぬか。一頭、試しに下ろしてみようと思うのだが」


 牛若の声が、風に乗って一同に届いた。


 だが、誰も動かなかった。


 予備の馬などいない。ここにいるのは精鋭のみで、皆、自分の愛馬と共にここまで来ている。誰も、愛する馬をこの絶壁に突き落とす実験台にはしたくなかった。


 一瞬の沈黙が流れた。


 牛若は、その沈黙を「余った馬はいない」と即座に理解したようだった。


「左様か。ならば仕方がない」


 牛若は、躊躇うことなく自らの愛馬の鞍を撫でた。


「行け」


 牛若が短く命じ、馬の尻を叩いた。三郎たちが声を上げる間もなかった。


 主人の命に絶対服従する名馬は、嘶くこともなく、自ら前脚を崖の虚空へと踏み出した。


 巨体が、地の底へと転がり落ちていく。


 蹄が岩を削り、土煙を上げながら、黒い馬体が絶壁を滑り落ちていった。一同は息を呑んでその行方を目で追った。馬は器用に四肢をばたつかせながらも、奇跡的に均衡を保ち、中腹の岩棚まで滑り落ちた。


 だが、そこで止まった。


 岩の隙間に後脚が挟まり、身動きが取れなくなってしまったのだ。遥か下で、悲しげな嘶きを上げるのが聞こえた。


「……動けぬか」


 牛若が、低く呟いた。


「兄上の敵を倒すための馬だ。ここで失うわけにはいかぬ」


 牛若の言葉は乾いていた。だが、その瞳にはすでに戦場の火が灯っていた。馬を回収することは、すなわち崖下への進軍を意味する。天界の稚児の中では、すでに開戦の合図が鳴り響いているのだ。


 三郎たちが、はっとして顔を見合わせた。自分たちがすぐに馬を差し出さなかったせいで、主君の足となる馬を失わせてしまったという後悔が、彼らを襲ったにちがいない。


「牛若さま! 俺の馬をお使いください!」


「それがしの馬を!」


 三郎や佐藤兄弟、駿河が慌てて自分の馬を引いて進み出る。


 だが、牛若は頷かなかった。


「私が行けばよい」


 牛若は短くそう言うと、次の瞬間には崖の縁へと身を躍らせていた。


 助走も、躊躇いも、恐怖もない。総大将が身一つで絶壁へと飛び出したのだ。


「兄上……!」


 兄への清らかな想いを叫びながら、白い直垂が闇の底へと吸い込まれていく。


「牛若さまああ!」


「義経さまが落ちたぞ! 追ええっ!」


 三郎たちの絶叫が響き渡った。


 もう、理屈も計算もなかった。総大将が崖へ飛んでしまったのだ。


 三郎は馬に跨ったまま、半狂乱で崖へと突っ込んだ。


 継信、忠信、駿河も続く。実平に至っては、一瞬呆気にとられた顔をしていたが、すぐに覚悟を決めたように目を閉じ、無言で馬と共に転がり落ちていった。


 三千の軍勢が、雪崩のように崖へと殺到する。


 弁慶もまた、覚悟を決めて馬の腹を蹴った。


 身体が宙に浮く浮遊感。直後に襲う、内臓が押し上げられるような衝撃。


 弁慶は必死に手綱を操り、岩肌を蹴って落下速度を殺しながら、眼下で白い点を追った。


 牛若は、驚異的な身軽さで岩から岩へと飛び移りながら駆け降りていたが、苔むした岩に足を乗せた瞬間、つるりと体勢を崩した。


「あっ」


 牛若の身体が宙を舞う。


 受け身も取れぬまま、鋭い岩角がその背中に迫る。


「牛若さまああっ!」


 弁慶は、馬の背から自らの身体を弾丸のように射出した。


 空中で腕を伸ばし、回転しながら落下する主の身体を空中で捕らえる。


 強烈な衝撃が弁慶の腕と背中を襲った。弁慶は自らの背を岩肌に打ち付け、分厚い筋肉を盾にして滑り落ちながら、腕の中の主を死守した。


 土煙を上げ、二人はそのまま崖の下、平家の陣のすぐ裏手まで滑り落ちて止まった。


「……お怪我はございませぬか」


 弁慶が掠れた声で問う。


「……私は大丈夫だ」


 腕の中の牛若は、無傷の顔で微笑んでいた。


 久方ぶりに、天界の稚児の言葉を間近で、この耳元で聞いた気がした。


 腕の中に感じる牛若の細い身体の温もりと、吐息がかかるほどの距離。弁慶の背筋を、武者震いにも似た歓喜が駆け抜けた。痛みが喜びに変わるような、暗く熱い充足感が胸を満たし、弁慶の口元が自然と歪む。


 だが、牛若はすぐに弁慶の腕からするっと抜け出した。


「馬は……私の馬はどこだ……!」


 牛若は崖の中腹を見上げていた。


 弁慶は空になった自分の腕と、すでに心ここにあらずの主の背中を、やり場のない思いで見つめるしかなかった。


 そこへ、頭上から気配が迫った。


「義経さま、今助太刀いたしまする!」


 畠山重忠だった。


 彼は途中の岩場で自らの馬を先に追い落とし、身一つで岩に挟まっていた牛若の愛馬を怪力で掬い上げると、なんとその巨躯を自らの背に乗せて歩み寄ってきたのである。


 並の男なら押し潰されるほどの巨体を、まるで赤子でもおんぶするかのように背負っている。重忠の顔には涼やかな笑みさえ浮かんでいる。


「これしきのこと、義経さまの御為ならば!」


 重忠は、平然と着地すると、背負っていた馬を丁寧に降ろした。弁慶は慌ててその現場へと走り寄った。


「さあ、義経さま。どうぞ」


 重忠は、優雅に一礼して手綱を牛若に渡した。


 牛若は嬉しそうに頷く。弁慶は普段の佐藤兄弟の任務を思い出しながら、無言で牛若の背を押し上げた。天界の稚児は馬の背へと軽やかに飛び乗った。


「ありがとう、重忠」


 牛若の言葉に、重忠はうっとりと目を細めた。


 弁慶は、身体中の痛みを無視しながら主を見上げ、自らの馬を引き寄せた。


 これまで、牛若は常に徒歩で、舞うように戦ってきた。だが今、初めて戦場で馬上の人となった。


 人馬一体。


 その言葉がこれほど似合う姿を、弁慶は見たことがなかった。黒毛の馬は、主の清らかな気配に共鳴するように、武者震いをし、瞳に知性すら宿したような光を湛えている。


 牛若が手綱をわずかに引くと、馬は地の(ことわり)を無視するかのような跳躍を見せた。


「兄上の敵、この手で葬ります……!」


 牛若が叫び、馬と共に平家の陣へと突っ込んでいく。


「牛若さまをお守りしろ! 平家なんか全て滅ぼせ!」


 後続の三郎たちも、泥だらけになりながらも馬を操り、雪崩のように続いていく。


 崖下の平家の陣はすでに大混乱となっていた。


 弁慶は、主を守ることに必死で気づかなかったが、空から白い武者が降ってくる光景を目撃した平家の兵たちは、すでに恐慌状態に陥っていたのだ。


 天から軍勢が降ってきた。


 そのあり得ない現実は、彼らの戦意を根こそぎ奪ったにちがいない。


 そこへ、牛若と黒毛の馬が舞い降りた。


 馬蹄が大地を砕き、その衝撃だけで周囲の兵が吹き飛ぶ。


「兄上の敵……兄上……!」


 牛若はうわ言のように呟きながら、馬上から太刀を振るった。


 これまでの舞のような足捌きに加え、馬の圧倒的な突進力が加わったその一撃は、もはや平家にとって災害だった。馬はいななき、後ろ足で敵を蹴り飛ばし、前足で盾を粉砕する。主の純粋な闘志と完全に同調し、神獣のような動きで戦場を駆け巡る。


「牛若さまに近づくんじゃねえ!」


 伊勢三郎が、太い声を張り上げて牛若の側面に躍り出た。


 牛若の死角から槍を突き出そうとした平家の兵を、馬上から強引に叩き斬る。


「おい新入り! ぼさっとしてんな! 牛若さまの背中を空けんじゃねえぞ!」


「わ、分かってるよ!」


 鷲尾三郎も、馬を持たぬ身軽さを活かして敵の懐に潜り込み、短刀で足を薙いで回る。


「兄者、右だ!」


「承知!」


 佐藤継信と忠信の兄弟は、言葉少なに完璧な連携を見せていた。


 継信が牛若に向けられた矢を太刀で切り払い、その隙に忠信が槍を繰り出して射手を貫く。二人は牛若を中心とした円を描くように動き、近づく敵を片っ端から排除していく。


「……五、六」


 駿河次郎は、ただ黙々と数を数えていた。


 影のように牛若の斜め後方に位置取り、混乱に乗じて逃げようとする指揮官級の武者を、冷徹な一撃で沈めていく。彼の通った後には、音もなく倒れた残骸だけが転がっていた。


「義経さまの清らかな戦場を!」


 畠山重忠は大太刀を軽々と振るっていた。


 その一振りで、襲いかかってきた三人の兵がまとめて吹き飛ぶ。重忠は涼しい顔で道を開いていく。


 弁慶は、長刀を旋回させ、牛若の正面に立ち塞がる盾兵を壁ごと粉砕した。


「……退けっ……!」


 平家の軍が一気に敗走していく。


 岩をも砕く剛力で敵を蹴散らしながら、弁慶の視線は常に主の背中に釘付けだった。


 牛若は、家来たちの守護など気にも留めず、ただひたすらに前へ、敵だけを求めて突き進んでいく。


 周りがどれだけ穢れようと、牛若だけは白いままだ。


 その圧倒的な純粋さと、それを守るために暴れ回る従者たち。


 平家の兵たちは、この理不尽な暴力の塊に、抗う術もなく崩れ落ち、我先にと海の方角へ逃げ惑っていた。


 一ノ谷の背後、絶対の安全圏と思われた場所からの、あり得ない奇襲。


 弁慶は、長刀を構えながら、主が巻き起こす白銀の旋風を眺めた。


 平家が誇る精強な軍団が、天界の稚児の純粋さと、それに付き従う男たちによって、脆くも崩壊していく。


 その光景は、恐ろしいほどに美しかった。

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