第二十六話 三草山の夜
深い冬の闇が、険しい獣道を完全に飲み込もうとしていた。
鷲尾三郎の案内で足を踏み入れた山道は荒々しく、剥き出しの木の根や鋭い岩肌が容赦なく馬の足を阻む。空を覆う巨木の枝葉が星明かりすら遮り、一行が頼りにするのは、前を歩く者の微かな気配と、枯れ葉を踏む微かな音だけだった。
「この先の道は、夜になれば真っ暗で足元も見えなくなるんだ。義経さま、どうか気をつけて」
先頭を歩く小柄な鷲尾が振り返った。牛若の素性を明かした後もろくに敬語も使えないようだが、牛若への尊敬心だけは持ち合わせているらしい。その身体はまるで獣のようにしなやかに闇に溶け込んでいる。
「案ずるな、鷲尾。そなたの背中が見えていれば問題はない」
牛若の透き通った声が、凍てつくような夜の冷気の中に心地よく響いた。
「おい、新入り。お前、牛若さまに気安く話しかけんじゃねえぞ。案内だけしっかりやってりゃいいんだ」
伊勢三郎が、すぐさま横槍を入れた。鷲尾三郎は無言で軽く頷き、再び前を向いて歩き出す。同じ「三郎」という名を持つ二人のやり取りを、弁慶は無言のまま斜め後ろから聞き流していた。
牛若の馬の足取りは、この暗闇と悪路の中にあっても、平泉の馬場を歩く時と何ら変わらぬ軽やかさを保っている。弁慶の目から見ても、主の視線の先にあるのはただ一つ。兄のために三種の神器を取り戻し、平家を滅ぼすという純粋な目的だけだ。
その時、後方の闇の中から、乱れた馬の蹄の音が急接近してきた。弁慶は即座に警戒を強め、長刀の柄を握り直す。
「何者だ」
駿河次郎が鋭く短い声を発し、太刀の柄に手をかけた。佐藤継信と忠信の兄弟も、音もなく馬の向きを変え、牛若の背後を庇うようにして闇の奥へと鋭い視線を向ける。
ざざっ、と枯れ葉をけたたましく踏み鳴らして現れたのは、先ほど別の道へと分かれたはずの多田行綱たちだった。その日に焼けた顔には濃い疲労と緊迫感が張り付いている。肩で静かに息をし、額には冬の夜だというのに汗が滲んでいた。
「義経さま……!」
行綱は馬を降りるなり、牛若の前に片膝をついた。
「いかがした、行綱。木戸へ向かったのではなかったのか」
牛若が穏やかに問うと、行綱は声を潜め、しかしはっきりとした口調で報告した。
「この先の三草山に、平家の大軍が陣を構えているのを発見いたしました。完全に我らの行く手を塞ぐ形となっております」
その報告に、一行の間に冷たい緊張が走ったのが、弁慶の肌にも伝わってきた。
平家はすでに一ノ谷の手前に強固な防衛線を敷いていたのだ。ここで大軍と衝突すれば、鵯越や崖からの攻略どころの話ではなくなる。
列の中ほどから、土肥実平が静かに進み出た。
「義経殿」
実平の声は、老練な武将らしく、低く落ち着き払っていた。
「それは一大事にございますな。敵が大軍であれば、このまま夜の闇を進むのは危険かと存じます。保元の乱では義朝公が夜襲を行い勝利されたと聞き及びますが、山中のこのような暗闇での夜討ちは危険です」
先ほど軍を分割する際は牛若の作戦を素直に肯定してみせた彼だが、いざ想定外の敵軍を前にすれば、実務的な指揮官としての思考が顔を出すらしい。
「この暗闇では足元が見えず、馬が穴に足を取られれば骨を折り、味方同士で刃を交える恐れすらございます。地の利も向こうにありましょう」
弁慶が何度も景時に見せられた光景に似ているが、実平の落ち着いた声には優しさがあるのでそこまで不快には感じなかった。
「義経殿には、まだ生きて鎌倉殿の御為に働いていただかねばなりませぬ。ここは急ぎ陣を立て直し、夜明けを待つのが最善にございます。どうか、ご無理をなさいませんよう」
実平の言葉が終わったと見ると、牛若はふと小首を傾げるなり、透き通った声で答えた。
「そこに敵がいるのなら、今すぐ倒せばよい」
事もなげに放たれたその言葉に、実平は思わず息を呑んだ。
「……はあ?」
「兄上をこれ以上、お待たせするわけにはいかぬ。敵が道を塞いでいるのなら、今ここで退かせばよいだけのことだろう」
牛若の瞳には、夜の闇も、戦の定石も、一切映っていないように見えた。
「お待ちくだされ、義経殿! それでは鎌倉殿が……!」
実平が再び頼朝の名を出して諭そうと手を伸ばした時には、すでに遅かった。
「参るぞ!」
牛若は澄み切った声を静かに響かせると、躊躇うことなく馬の腹を蹴った。闇に包まれた三草山の敵陣めがけて、まるで吸い込まれるように駆け出していく。
「牛若さまっ! いきなり駆け出すなんて無茶ですよ!」
三郎が悲鳴のような声を上げ、大慌てで馬を叩いて後を追った。
「義経さまが危険だ!」
「兄者、我らも続くぞ! 義経さまを敵に汚させるな!」
継信と忠信も、血相を変えて牛若の背中を追いすがる。駿河は突然の展開にぽかんと口を開けていたが、すぐに声もなく馬を躍らせ、殺気を放ちながら闇の中へ溶け込んでいった。
「義経さま、それがしがお守りいたしまする!」
畠山重忠も、清らかな声で叫びながら馬の腹を強く蹴っていた。
さらに、案内役であった鷲尾も、素早く徒歩のまま駆け出し、腰に帯びた短刀を抜いて漆黒の闇の中へと身を躍らせていくのが見えた。
実平は、目の前で起きた事態にただ絶句していた。
「土肥殿、我らも続かねば!」
行綱が鋭く声をかけ、実平と行綱も大いに狼狽しながら、慌てて奇襲部隊の最後尾に食らいついていく。
弁慶は巨大な長刀を引き絞り、主の背中を追って斜面を進む。弁慶は馬術が著しく得意というわけではないが、比叡山で修行した経験から、山道を適切に駆け抜ける技術には自信がある。一気に追い抜かして牛若の前にたどり着けば済むことだ。
木々の隙間から三草山の平家の陣が見えてきた。
篝火の数は少なく、陣に動きは見られない。おそらく、こんな夜半に険しい獣道から源氏の軍勢が攻め寄せてくるとは夢にも思わず、深い眠りに落ちているのだろうと弁慶は推測した。
静寂の闇を一陣の突風が切り裂く。弁慶はようやく牛若の前にたどり着きそうだったが、誰も牛若に追いつけていない。
「……牛若さま、お待ち下さい!」
弁慶が叫んだ時には遅かった。木々の隙間から天界の稚児がが単騎で飛び出していく。
「兄上の敵は、全て去れ……!」
牛若の混じり気のない叫び声が三草山の陣に響き渡った。
突然の来襲に何が起きたのか理解できず、慌てふためく平家の兵たちの中に、牛若は軽やかに馬から飛び降りて突っ込んだ。身一つの状態こそが、天界の稚児の舞を花咲かせる条件だろう。
闇の中で白い軌跡が描かれる。
「義経さまー!」
「お待ちをー!」
弁慶に遅れた従者たちの叫び声は、誰のものなのか分からない。弁慶は息を止めて牛若の新たな舞を見つめていた。
牛若の太刀は舞を奉納するかのように優雅だった。重い甲冑を着た兵士たちが、その太刀筋に触れた瞬間、見えない力に弾かれたように次々と崩れ落ちていく。穢れを一切その身に受けることなく、牛若はただ美しく、純粋な動きで敵の陣を歩んでいく。
「……牛若さまには、指一本触れさせねえぞ!」
背後から遅れて突入した三郎が、素早い身のこなしで平家の兵の懐に潜り込み、次々と敵を薙ぎ払う。
佐藤兄弟は完璧な連携で牛若の両脇を固めに向かっていた。
「そこを退け!」
「義経さまに近づくな!」
継信の強烈な一撃が敵の盾を砕き、その隙を突いて忠信が槍を振るう。二人の武の双壁が、牛若に近づこうとする敵を尽く押し返していく。
そのさらに外側では、駿河が冷徹な影のように立ち回っていた。無駄口を一切叩かず、音もなく敵の背後に回り込んでは、冷ややかな瞳で確実に敵を地に伏せさせていく。
「おらっ! こっちだ!」
ふと見ると、徒歩で駆け込んだ鷲尾が、その小柄な身軽さを活かして敵の足元へと潜り込み、鋭い短刀で次々と敵兵の足を掬い、馬の腹帯を切って陣をかき乱している。その野生の獣のような動きに、敵兵は翻弄されていた。
「義経さまの御前に立ち塞がる者は、私が退けまする!」
重忠は、いつもの透明な声を張り上げながら太刀を振るっていた。刃の冴えは尋常ではなく、敵兵は彼の剣閃のきらめきに見惚れたまま、抗う術を失って倒れていく。
弁慶は、大きく息を吸い込み、巨大な長刀を頭上で旋回させた。
「退けえっ!」
腹の底から響く怒声と共に長刀を振り下ろす。岩をも砕くその一撃に、数人の兵がまとめて吹き飛ばされた。弁慶は主の背中を常に見据えながら、微塵の穢れも近づけさせまいと、不動の壁となって圧倒的な武を振るい続けた。
不意打ちと、先頭で舞い踊る人間離れした存在への恐怖に、平家の陣はまたたく間に大混乱に陥ったようだった。将兵たちは武器を捨てるようにして散り散りになって敗走し始めた。
後方からようやく追いついた実平と行綱は、馬上でその光景をただ呆然と見つめていた。実平の堅実な提案も、天界の稚児の前では全くの無意味だったのだ。ただ兄のために敵を退けるという純粋な意志ひとつで、大軍が紙屑のように散らされていく。
戦はあっけなく終わった。
三草山の陣は完全に制圧され、燃え残った篝火の爆ぜる音だけが響いている。
牛若は乱れた呼吸を整えながら、静かに太刀を鞘に収めた。その直垂には、あれだけの乱戦の中にいたというのに、泥一つついていない。夜の冷気の中で、異様なほどの清らかさを放っていた。
背後から、行綱が静かに歩み出てきた。
その顔は、先ほどの緊迫感とは全く違う決意に満ちていた。行綱は牛若の前で静かに膝をついた。
「義経さま……。それがしは、義経さまのあの舞を拝見し、心が定まりました」
行綱の目は静かに潤み、しかしその口調には、長年抱え込んできた重荷を下ろしたような確かな熱がこもっていた。
「それがしは主力七千を率いて木戸を攻めるよう命じられておりましたが……やはり、それがしも義経さまと共に、絶壁の崖からの奇襲に加わりとうございます」
牛若は、きょとんとした顔で行綱を見下ろしている。
行綱は深く頭を下げ、言葉を継いだ。
「山道でもお話しいたしましたが、それがしは鹿ヶ谷での謀議で臆病風に吹かれ、生き延びるために密告を行い、平家に寝返った泥まみれの卑怯な男にございます。その過去をお聞きになってもお咎めなきばかりか……今宵のこの穢れなき舞を拝見し、それがしの汚れた過去すらも、綺麗に洗い流される気がいたしました。どうか、この泥に塗れた命、義経さまの放つ輝きの中で使っていただきたく存じます」
行綱の声が三草山の冷たい夜気の中に響き渡る。
弁慶は斜め後ろからその光景を黙って見つめていた。
行綱の言葉には、嘘偽りのない誠実さがあった。過去の罪を再び口にし、最も危険な崖への同行を志願する。彼なりの武士としての不器用な忠義の形であった。
だが牛若は、行綱のその告白を少し不思議そうな目で見つめた後、ふっと春の風のような爽やかな微笑を浮かべた。
「そなたの声音は、先ほどより優しそうだな」
その場にいたほとんどの男に、牛若の言葉の意味は分からなかったにちがいない。牛若は行綱の口調から自分に対する信頼を感じとり、ちょっぴりうれしくなったのだろう。
「鵯越の地形まわりに明るい行綱殿なら、予定通りに木戸口を攻めるのが良かろう」
牛若の声はどこまでも澄み切っていた。
「こちらの崖には、鷲尾がいる。道案内は彼に任せれば問題はない。行綱、私はそなたの戦いを応援しているぞ」
それは、役割分担の確認であり、無邪気な激励に過ぎなかった。
だが、行綱は深く頭を垂れたまま、その肩を微かに震わせていた。
「……ありがたきお言葉にございます」
行綱は顔を上げると、憑き物が落ちたような清々しい表情を浮かべていた。
「過去の穢れた所業をお許し下さった我が身に、木戸口の攻略を任せてくださるとは……。必ずやこの行綱、命に代えても木戸を落としてみせます……!」
行綱はもう一度深く一礼すると、静かに立ち上がり、自らの軍勢の方へと確かな足取りで戻っていった。
弁慶は小さく息を吐いた。行綱の去っていく背中を見送りながら、再び牛若へと視線を戻す。
主はただ東の空、頼朝のいる鎌倉の方角を静かに見つめていた。その横顔には、つい先ほど行綱が足元に置いた重い告白の欠片すら、何一つ残ってはいない。
(天界の稚児は行綱風情の醜い過去になど、何の興味もないであろう。ただ、己の役割を与えられたなどと、行綱が勝手に喜んでいただけだ)
弁慶は長刀の柄をゆっくりと握り直す。冷たい木肌の感触が、掌にじんわりと馴染み出していた。




