第二十五話 鵯越への道
京の都を後にした牛若たち一万の搦手軍は、西へと続く険しい山道をひたすらに進んでいた。
冬の山は色を失っている。葉を落とした枯れ木が、空に向けて無数の爪を立てるように伸び、足元の落ち葉は霜を帯びて白く凍てついていた。踏みしめるたびに乾いた音が響き、甲冑の擦れる冷たい金属音が山間に吸い込まれていく。
兵たちの吐く息は一様に白い。急峻な斜面を登るにつれ、軍勢の隊列は自ずと細く長くなり、先頭と最後尾では声も届かぬほどに間延びしていた。
弁慶は、先頭を行く牛若の斜め後ろを、一定の距離を保ちながら黙々と歩いていた。
重い長刀を肩に担ぎ、息一つ乱さぬ弁慶の足取りは、比叡山での長年の鍛錬によるものだ。その前を歩く牛若の足取りも軽やかで、瞳が輝いていた。考えているのは兄君のことだろう。
その清らかな背中を見つめていると、弁慶の真横に重く泥臭い足音が並んだ。
横目で一瞥すると、多田行綱だった。
日に焼けた顔には皺が刻まれ、その身体には幾度もの修羅場をくぐり抜けてきた者特有の、血と泥の匂いが染み付いているように見える。
行綱は、前を歩く牛若の背中をじっと見つめながら、弁慶に向かってぽつりと口を開いた。
「……武蔵坊殿、であったな」
弁慶は無言のまま、顎を引いて応じた。
行綱は視線を牛若から外さず、自嘲するような低い声で言葉を継いだ。
「それがしは昔、鹿ヶ谷での謀議で臆病風に吹かれ、平家に寝返った泥まみれの男だ」
唐突な過去の吐露だった。源氏の軍にありながら、かつて平家に寝返った過去を自ら語るなど、尋常ではない。だが、行綱の声には虚勢も弁解もなかった。
「鹿ヶ谷では貴族や法師が平家を滅ぼす算段で良い気になりすぎ、酒の席で瓶子が倒れただけで掛詞を思いつき高笑いする有様だった。急に不安になったそれがしは生き延びるために密告をした。……だがな、軍議の時から義経さまの淀みない瞳を見ていると、それがしのその泥まみれの過去も、綺麗に洗い流されるような気がしてきてならぬ。先ほど改めてご挨拶したが、それがしの過去をご存知ないようなのでお話ししたが、何も気にしておられなかった」
「なるほど」
行綱の熱っぽい語りに弁慶は短く頷き、行綱の横顔を無感動な眼差しで捉えた。
この年嵩の武士は、己の犯した罪や穢れを、前を歩く天界の稚児の光に浄化してもらおうとしているのだ。泥に塗れた大人であればあるほど、あの眩い光に惹きつけられ、己の身を投じようとする。
このような汚れた過去のある男なら、さぞ牛若の清らかさは衝撃だろう。行綱はわざわざ汚い過去を牛若に暴露したようだが、兄のことばかり考えている牛若にはどうでもよい話だったから、素っ気なく返したのだと思うと笑えるものだ。行綱、にわかに現れた分際で厚かましくさえある。
弁慶は小さく息を吐いて前を向いた。
ふと咳払いをした行綱は、実務的な顔つきに戻っていた。
「……義経さまは、鵯越の木戸ではなく、背後の絶壁に興味を示しておられたな。もちろん無謀だ」
ばっさり斬り捨てるような言い方ではあったが、景時ほどの拒絶は見られない。
「それがしは在地の武士ゆえ、木戸周辺の道ならば熟知している。だが、平家の陣の背後にあるという絶壁への獣道となるとお手上げだ」
「多田殿では軍を崖上まで導くことはできぬということか」
「さよう。そもそもそんな崖にたどり着いたところで、攻めるのは無理なはず。鵯越の木戸が最善に思える。崖の話は聞いたことがあるが、人や馬が降りられるような代物ではない」
「そうか」
その行綱の真っ当な懸念を、弁慶はただ静かに聞き流した。
さらに山を分け入ったところで、隊列の後方がにわかに騒がしくなった。
弁慶が振り返ると、伊勢三郎が目を丸くして、一人の武将に詰め寄っている。
「重忠さん、なんでこっちに来たんですか」
視線の先には、この泥まみれの山道にはひどく不似合いな、優雅な鎧を纏って涼しい顔で歩みを進める畠山重忠の姿があった。
先ほどの六波羅での軍議で、重忠は大手の範頼軍に配属されたはずだった。それがなぜ、搦手軍の隊列の中ほどにしれっと混ざっているのか。
重忠は三郎の問いに対し、歩みを止めることもなく、いつもの上品な口調で答えた。
「範頼さまに、密かに許可をもらって参りました次第でして」
平然とした声だった。なるほど、景時でなく範頼なら、一人ぐらいならしれっと例外を認めてくれそうではある。
重忠はそっと微笑んだ。
「義経さまの漂わせる清らかな風の元へ集うのは、武士としての本懐。大手の泥にまみれた陣に留まるなど、それがしの武士の心が許しませぬ」
澄み切った瞳で、重忠はそう言い切った。
「さすが重忠さん。そりゃあの帳面じじいより、牛若さまの隊の方が絶対良いに決まってるからな」
「ご加勢、誠にありがたく存じます」
弁慶も微かに笑みを返した。誰がどこから合流しようが、弁慶にとっては些末なことだった。
日は高く昇り、冷たい風が山肌を吹き抜ける。
やがて、軍勢が尾根の開けた場所に出たとき、先頭を歩いていた牛若がふと足を止めた。
背後に続く一万の兵も、波が引くように次々と歩みを止める。
牛若は、眼下に広がる険しい山の連なりをしばらく無言で見下ろしていたが、やがてくるりと振り返り、傍らに控えていた行綱に向けて静かに口を開いた。
「軍を二つに分ける。行綱殿、あなたは主力七千を率いて鵯越の木戸へ向かい、西口を攻めて頂きたい。私は残りの三千を連れて、平家陣の背後、崖の上を目指す」
静かな山間に、その涼やかな声が響くと、一気に歓声が上がる。
弁慶の心臓の鼓動が速まった。今ここに景時はいない。敵の陣容も正確に把握しきれていないこの山中で、主力を行綱に預け、自らは少数で未知の絶壁へ向かうという。
「義経さま、承知いたしました!」
行綱が力強く答えると、周りの歓声がますます大きくなる。
そんな中、三郎や佐藤兄弟と駿河次郎の視線が、瞬時に後方に控える一人の老将へと向かった。三郎の視線はいつもの景時に対するものとほぼ同じだ。新しい「帳面じじい」がどう答えるか、警戒しているにちがいない。
景時の代わりとして牛若に同行しているこの土肥実平は当然、ここで異を唱え、軍を抑えにかかるだろう。いつも牛若を擁護してくれていた景季や高綱はここにはいない。唯一同行中の重忠は、てぐすね引いて待っている様子だ。今回は彼が一人でいつもの論破をとり行わなければならない。もちろん三郎も手伝いはするだろうが。
「義経殿」
実平が列の奥から静かに進み出てきた。声に棘はない。その白髪交じりの顔からは、穏やかさしか読み取れない。
実平は牛若の前に進み出ると、深く一礼し、顔を上げた。その口角は微かに上がっていた。
「義経殿はいつも、我ら御家人を驚かせて下さりますな。ご作戦としては、多田殿が木戸に向かい、我らが崖からということですな」
声に妙な温かみがある。
「そうだ」
実平が笑顔であるせいか、牛若の表情は景時と接している時とは別人のように柔らかい。
「とてもお美しいご作戦にございます。しかしながら、崖から飛び降りたら、残念ながら人は死にまする。それがしは、義経殿にまだ生きて頂きたく……」
「私はこの戦で平家を滅ぼし、三種の神器を奪還せねばならぬ。それが兄上の望みであり、法皇さまの望みでもあるのだ」
頼朝に腕を握られた日のことを思い出したのか、牛若の瞳はちょっとだけ潤んでいる。
「なるほど、美しき使命にございますな。このじじいも感動いたしております。しかし、命は大事になさいませんと……」
景時のいちいち耳障りで不快な小言とは異なり、実平の声音は老人の心地よさがあるため、いつもとは勝手が違っていた。
「我らが義経さまは、奥州からわざわざ馳せ参じた時から、鎌倉殿の御為という美しき使命で動いておられまする。この使命を何よりも大事にするのが、まさに我らの務めかと」
重忠が牛若に加勢すると、実平は腕を組んで考え込む仕草をする。
「崖までの道、それがしも多田殿も存じませぬが」
「地元の猟師とかを探せば良いだろう」
実平は話し方が素直なので、牛若も素直に答えている。
「……では、崖からはどうなさりますか? 飛び降りたら死んでしまいますゆえ、鎌倉殿がお悲しみなさることでしょう」
「兄上が……?」
牛若の背中が不意に跳ねる。なるほど、この老人は景時より牛若の扱いが上手い。頼朝の名を出すことで、牛若が耳を傾ける素地を作っているのだ。
「しかし、とにかく……」
牛若は困ったように小首を傾げた。
「崖は平家を一気に殲滅する鍵のはずだ……飛びおりるのが駄目なら、絶壁の岩に沿って降りてゆけば良いのでは……?」
「なるほどにございます。まずはその崖に行ってから考えるのもよろしいかと。義経殿の仰せのままに、我々は崖まで向かいましょう」
実平の声は静かではあったが、確かな熱を帯びていた。
三郎や佐藤兄弟と駿河は、その予想外の反応に一瞬、目を丸くして顔を見合わせていた。口うるさい老将だと思っていた男が、主の言葉を肯定してくれているのだ。
数拍の沈黙の後、三郎の顔ににんまりとした笑みが広がった。
「なんだ、あいつと違って話が分かる爺さんじゃねえか」
「それがしも安心いたしました」
駿河もまた、警戒を解いたようにわずかに肩の力を抜いて安堵の色を浮かべた。
「義経さまの魅力が伝わって何よりです」
佐藤継信もうれしそうな声を上げる。
「やはりおかしいのはあの帳面のお方だけなのだろう」
忠信は鎌倉の事情がよく分かった様子だ。
一方弁慶は、微笑む実平の横顔をじっと見つめていた。
景時は、己の代わりに牛若の手綱を握らせるつもりでこの男を送り込んだのだろうが、その目論見は外れたのである。
弁慶は喉の奥で小さく息を吐き、再び主の背中を見据えた。牛若が行綱を微笑で見送ると、行綱はうれしそうな表情でその場を後にした。
行綱の軍と分かれて三千の精鋭となった牛若の軍は、さらに深く険しい獣道へと足を踏み入れていった。
道なき道を切り拓くように進む中、先頭を進んでいた駿河が、木立の陰で動く影を素早く捕らえた。
「曲者か」
駿河が低く鋭い声を発し、腕を捻り上げる。
引きずり出されたのは、獣の毛皮を纏い、粗末な弓を手にした小柄な若い男だった。手足には獣のようなしなやかな筋肉がついている。地元の猟師だろう。
「なんだよ、離せよ! 俺はただの猟師だぜ!」
男は猟師らしい生意気な口調で駿河の腕から逃れようと暴れていたが、ふと、その動きが完全に止まった。
彼の視線の先に、歩み寄ってきた牛若の姿があった。
男は牛若並みに小柄な体格だったが、その背中がさらに小さく縮こまったように見えた。白い鎧を纏い、泥一つ跳ねていない牛若の姿は、この薄暗い山中において異様なまでの輝きを放っている。
たとえ山の民が一生拝み倒しても、通常はこの牛若に出会える機会はまず生まれまい。都の五条の大橋ぐらいにしか現れないだろう。
「え、偉い人か……っ?」
男は瞬きすら忘れたように、牛若の顔をただ茫然と見つめている。まるで、山奥で神仏に遭遇したかのような顔だった。
牛若は、男の小柄な体格をゆっくりと見下ろし、静かに口を開いた。
「そなた、名はなんという」
「お、俺……鷲尾三郎、だ」
男は魅入られたようにぽつりと答えた。伊勢三郎が「げっ、また俺と同じ名前のやつが現れやがった」と迷惑そうな声を出す。
牛若はわずかに頷き、遥か先、木々の隙間からわずかに覗く険しい山の稜線を指差した。
「鷲尾」
牛若が男を「三郎」と呼ばないのを見て、三郎は分かりやすく笑顔になっていた。
「平家の陣の背後にあるという絶壁の崖。あそこは鹿は通るか?」
鷲尾は、牛若の透き通るような瞳に見つめられ、喉をゴクリと鳴らした。
「……鹿なら、通るけどよ……人間とか馬はちょっと……」
戸惑いながらも、事実だけを答えたようだ。
牛若は微かに微笑んだ。
「鹿が通れるなら、馬も人間も通れるはずだ。我らを崖の上まで案内してくれ」
鹿の四つ足と、重い人間や鎧を乗せた馬の足とでは、比べ物にならないにちがいない。それでも弁慶はこの主についていくと決めていた。
鷲尾の目にも迷いはなかった。
「……ああ、分かったよ。俺が連れて行ってやる」
鷲尾は素直に頷き、身を翻して先頭に立った。
弁慶は、主の光に魂を惹きつけられた新たな小さな背中を見つめた。
牛若は野生の猟師すらも一瞬で惹きつけてしまった。
弁慶はただ黙って長刀を握り直し、獣道の奥へと歩を進めた。




