第二十四話 搦手の構成員
京の朝は、底冷えがする。
六条堀川の屋敷の庭には、昨夜から生じた霜が白く土を覆っていた。吐く息は白く、凛とした冬の空気が肌を刺す。出陣を控えた朝の張り詰めた空気を、しかし、屋敷の中から漂ってくるひどく饐えた酒の臭いが台無しにしていた。
庭先では、三郎をはじめとする郎党たちが、黙々と出陣の支度を整えている。馬の腹帯を締め、矢羽の乱れを指先で直し、太刀の柄を確かめる。甲冑の擦れる乾いた音が、静かな朝の冷気の中に響いていた。
その慌ただしさをよそに、上段の間から縁側へと這い出てきた行家は、どっかりとあぐらをかき、真っ赤に腫れ上がった顔で盃を傾けていた。彼の周囲だけが、まるで腐りかけの果実のような澱んだ空気を纏っている。
「わしは鎌倉の連中に存在が知れると厄介じゃ。ここで留守番をしておる」
行家は、誰に向かって言うでもなく、濁った目で庭を見下ろしながら言い放った。ひたすら酒の温もりに逃げ込んでいる。
馬の背に鞍を置いていた三郎が、手を止めずに小声で吐き捨てた。
「けっ、都合のいいやつだぜ」
弁慶の耳にだけ届くような、だが確かな怒りを孕んだ低い声だった。そのすぐ傍らで弓の手入れをしていた継信と忠信は、縁側の行家を冷ややかに一瞥したきり、すぐに無言で視線を外した。見る価値もないとでも言いたげな、底冷えのする態度だった。
駿河に至っては、武具の手入れすら手を止めず、ただ路傍の汚物でも見下ろすかのような、一切の感情を排した酷薄な視線を一瞬だけ行家に投げつけた。
誰もが、この男が主君の叔父であるという事実を忌み嫌っている。
だが、主である牛若だけは違った。
清らかな白糸威の鎧に身を包み、縁側へと歩み出た牛若は、腐臭を放つ叔父の姿を見ても、眉一つ動かさなかった。疑う様子も、嫌悪の素振りすらも見せず、ただ純粋な、硝子玉のように透き通った瞳を行家に向ける。
「それでは、留守をお願いいたします、叔父上。行ってまいります」
牛若は屈託のない笑顔を浮かべ、深く頭を下げた。その姿はあまりにも清らかで、あまりにも危うかった。
弁慶は無言のまま、主の細い背中の斜め後ろに付き従い、静かに長刀の柄を握りしめた。己の手の平から伝わる確かな熱と、目の前の狂おしいほどの純粋さ。
(……構わぬ)
弁慶は、心の中でひっそりと呟いた。
(この屋敷に、あのような腐敗した肉の塊を置き去りにしていく方が、我らの行く先にはいくぶん風通しが良いわ)
振り返ることなく、彼らは六条堀川の屋敷を後にした。
六波羅に設けられた源氏の陣は、尋常ではない熱気に包まれていた。
京の通りを抜け、陣へと足を踏み入れると、すでに東国から集められた数多の武将たちがひしめき合っている。重鎧が触れ合う金属音、軍馬の嘶き、そして男たちの野太い声が、冬の空気を震わせていた。
彼らが集う広間の最奥には、此度の平家追討の総大将たる範頼、そしてその傍らには、常に冷徹な視線を光らせる梶原景時が座している。
牛若が広間へと足を踏み入れると、諸将の視線が一斉に集まった。場がふっと息を呑む気配が弁慶の肌に伝わってくる。
諸将が居並ぶ中から、一人の男が歩み出た。
「それがしは、多田行綱。遥か以前より平家追討のため、奮闘しておりまする」
日に深く焼けた顔。骨太でがっしりとした体躯。東国の武者たちとはまた違う、西国特有の泥臭さと、長年生き抜いてきた者だけが持つ実務的なしたたかさを感じさせる年嵩の男だった。その声には、地に足の着いた重みがある。
牛若が静かに頷きを返すと、上座に座る範頼が、ゆっくりと口を開いた。
「えー、皆の者。よくぞ集まってくれた」
範頼の声は、広間の緊張感を削ぐような、どこか間の抜けた響きを持っていた。
「こたびの平家追討、鎌倉殿の名代として、この範頼が総大将を務めさせてもらう。平家は一ノ谷のあたりに強固な陣を構えておるというが……まあ、我ら源氏の武の前に敵ではないであろう」
一語一語の間に奇妙な空白があり、どこか眠気を誘うようなもっさりとした口調だ。
「さて、軍の配置であるが……総勢六万の兵を二つに分けることとする。わしが率いる大手軍は五万、そして九郎殿が率いる搦手軍は一万といったところか。大手がこちらから進んで、九郎殿の搦手はこちらの山を回って、こう、背後から挟み撃ちにする形じゃな……」
範頼は、目の前に広げられた絵図面の上を、心許ない手つきでなぞっている。その曖昧な説明に、広間の空気がわずかに緩みかけた時だった。
見かねた景時が、すっと範頼の横へ進み出た。
「補足いたしまする」
景時の声は、氷のように冷たく、そして鋭かった。彼は図面の一点を指の腹で強く叩いた。
「搦手軍の目標である、鵯越の口。そこを守る平家の陣ですが、その背後は絶壁の崖となっております。ゆえに、背後からの奇襲は不可能。木戸の方から、正攻法でお攻めくだされ」
景時の説明は、無駄がなく的確だった。西国の武士から集めた断片的な情報から戦場の地形を冷静に分析し、不確定な要素は排除する。
その言葉が広間に落ちた直後、牛若がふと小首を傾げた。
「崖の下に平家の陣があるのなら、その崖から飛び降りてはいかがでしょう」
とんでもないことを言っている。あまりにも無邪気な、事もなげな問いかけだった。
広間が、水を打ったように静まり返った。
鎧の擦れる音すら消えた。諸将たちは、自分の耳を疑ったように互いの顔を見合わせ、あるいは牛若の顔をただ呆然と見つめた。
景時が、こめかみのあたりをぴくりと引き攣らせ、小さく、そして重い息を吐き出した。
「義経殿。崖から馬で降りるなど、ただの自害にござるぞ。お命を大事になされよ」
絞り出すような声だった。どういうわけか声に疲れがある。
「けっ、あの帳面じじい、相変わらずしつこいな。牛若さまの閃きにケチをつける気かよ」
弁慶の背後に控えていた三郎が、周囲には聞こえぬほどの低い声で、忌々しげに毒づいた。
「父上」
諸将が座す列の端から、景時の息子の景季が爽やかに立ち上がった。
「義経さまの美しい発案を自害呼ばわりなどと、不吉で無礼な物言いはおやめなされよ」
景季の声には、父親への反発と牛若への心酔が入り混じっていた。
その言葉を合図にしたかのように、広間のあちこちから声が上がる。
「左様。景時殿の目は随分と曇っておられるようだ」
佐々木高綱が、床の板目を見つめながら冷ややかにつぶやいた。。
「義経さまの放たれる眩い光の先には、常に勝利への道筋が照らされております。景時殿のような古い慣習に囚われた眼では、その一条の光が捉えきれぬのでしょう」
「その通りです」
畠山重忠も、真っ直ぐに背筋を伸ばしたまま、透き通った声でそっと言葉を紡いだ。
「義経さまが戦場に呼び込む清らかな風は、古き軍略の枠など軽々と越えていくもの。それを泥に塗れた帳面の理屈で押し潰そうとするのは、義経さまの志を無にする邪道と言えまする」
「景季も高綱殿も重忠殿も、一体何を申しておる。わしの見立ては義経殿のお命を守るためにも大切なことじゃ」
「……景時殿は武士として大事なものが見えておりますまい」
「聡明な重忠殿もよく考えられよ。一番大事なことは生きて勝つことじゃ」
「まずは義経さまの光を信じるのが先決でしょう」
高綱は牛若の瞳を凝視しながら景時に冷たく言葉を放つ。
「父上、いい加減に義経さまの邪魔をするのはおやめ下さい」
景季がうんざりした表情で爽やかな声に力を込める。
「景季、いい加減に軍議では黙っておれ」
「父上はいつもそうやってすぐ、ご自身への反対意見を弾圧しようとするではありませんか!」
「何を申す。そなたの言葉は反対意見なんて代物にもなっておらん。出直してくるのじゃ」
「なに! すぐそうやって議論からお逃げなさるのが父上の手口じゃ!」
「……帳面じじいのいつもの喧嘩かよ」
三郎が呆れた口調でため息をついた。継信と忠信は微かに顎を上げ、景時を冷ややかに見下ろしている。駿河はただ直立したまま、冷たい眼差しで景時をじっと見据えていた。
弁慶は、斜め後ろからこの光景をただ黙って見つめていた。
牛若の言葉一つで、広間の空気が、ひどく熱を帯びていくのを肌で感じる。理を説く景時の無様な言葉は、彼らの耳には届かないにちがいない。
景時は、己に向けられた無数の冷たい視線を一身に浴びながら、こめかみを強く押さえて咳払いをした。
「……おのおの方、少し静まられよ。景季も、身の程をわきまえよ」
景時は諸将を鋭く見回し、一切の感情を排した冷徹な声で告げた。
「軍勢の配分を申し上げる。景季、重忠殿、高綱殿は皆、わしと共に大手の範頼軍に配属する。宇治川での振る舞いを忘れたわけではあるまい。此度は軍律を乱すことはまかり通らぬ」
それは組織の理としての命令だった。範頼も、ゆっくりと重く頷いた。
「うむ。ちょっとそこの皆は興奮しておるようだからの、わしの軍にいた方が安全じゃ。九郎殿の軍には、もう少し冷静な者をつけるのがよろしかろう」
「父上。なぜ私も大手に回らねばならぬのですか」
景季が、顔を真っ赤にして食ってかかる。重忠は「なんと、義経さまと離れるとは……」と悲痛なため息を漏らした。高綱は景時に背中を向けて牛若のまつ毛を眺めていた。
混沌とする広間で、先ほど名乗りを上げた多田行綱が、静かに声を発した。
「それがしは西国の者ゆえ、地の利に明るくござる。九郎殿の搦手軍にて、先導の役目を果たしとう存じます」
淡々とした、論理的で実務的な口調だった。その泥臭い声が、広間に満ちていた異様な熱をわずかに冷ました。
景時は、ようやくまともな会話が通じる相手を見つけたかのように、深く安堵の息を吐いた。
「うむうむ。そなたは落ち着いている。搦手に加わるのがよろしかろう。……それから九郎殿、そちらの軍にはもう一人、わしの代わりに土肥殿にご同行していただく」
景時が視線を送ると、列の後方から一人の老将が静かに歩み出た。
「それがし、土肥実平にござる」
白髪交じりの顔つき。深く刻まれた皺。生真面目を絵に描いたような風貌で、牛若に向けて深く一礼する。
その姿を見た三郎が、弁慶の背後で再び舌打ち混じりに呟いた。
「げっ、またもう一人、別の小うるさい帳面じじいがいるのかよ……」
弁慶は平伏する実平の姿をそっと見下ろした。景時のような頑迷な硬さや、人を歯車のように見下すような冷たい気配は感じられない。
喉の奥で小さく息を吐くと、弁慶は再び主の細く危うい背中へと視線を戻した。




