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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
第二部 貴公子の乱舞

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第二十三話 三種の神器

 六条堀川の屋敷に、()えた酒の臭いが漂っている。


 牛若が兄のためにと清めた上段の間を、招かれざる叔父の行家が占領しているからだ。


「おい、酒が空いたぞ。代わりを持ってくるのじゃ」


 行家が、盃を投げるように差し出した。


 庭先で武具の手入れをしていた三郎のこめかみに青筋が浮かぶのを弁慶は見た。


「……俺は牛若さまの家来だ。てめえの小間使いじゃねえ」


 三郎が低い声で(うな)るが、行家は鼻で笑った。


「固いことを言うな。(おい)の家来は、叔父の家来も同然よ。のう、九郎」


 行家は、膝元で甲斐甲斐しく酌をする牛若の頭を、薄汚れた手で撫でる真似をした。弁慶の指先がぴくりと動いた。あの手首をへし折ってやりたい衝動を、必死に理性の檻に閉じ込める。


「はい、叔父上。……三郎、叔父上用の酒蔵から良いものを」


 牛若は、屈託のない笑顔で命じた。


 三郎は奥歯を噛み締めたようだが、主の命令には逆らえないようだ。「……はい、牛若さま」と(うめ)き、足音を荒立てて去っていく。


 日が暮れ、ささやかな(うたげ)が始まった。


 行家は酔いが回るにつれ、その卑しい品のなさを舌に乗せ始めた。


「まったく、頼朝の奴め。誰のおかげで今の地位があると思うておるんじゃ」


 行家は盃を干し、忌々しげに吐き捨てた。


以仁王(もちひとおう)さまの令旨(りょうじ)を、命がけで諸国の源氏に伝えて回ったのは誰じゃ? この行家ぞ。わしが走らねば、頼朝など今頃伊豆の泥の中で朽ち果てておったわ」


 行家の語る内容は、一応は事実であるらしいが、このふてぶてしさを見ていると否定したくなる。


「それなのに、わしが鎌倉を訪ねて、ほんの少しばかり所領を無心しただけで、あやつは何と言いおったと思う?」


 行家は牛若の顔を覗き込み、下卑た声で真似てみせた。


「『行家殿は戦も下手で、まだ何の手柄もない』とな。……ふん、よくもぬかしおったわ!」


 行家は悔し紛れに酒をあおる。


「挙句の果てには『扱いにくい』などと難癖をつけ、わしを追い出しおった。……九郎、よく覚えておけ。頼朝という男はな、身内だろうが容赦せん。自分の利益にならぬと分かれば、ごみのように切り捨てる冷血漢よ」


 牛若の眉が、珍しく不快げに寄せられた。


 牛若にとって頼朝は神聖な兄でしかない。それを目前で、しかも同じ源氏の身内に侮辱されることは、何よりの苦痛にちがいない。


「叔父上……。兄上にも、お考えがあってのことでしょう」


 牛若が小さな声で反論したが、行家は聞く耳を持たない。


「考え? あるとも。わしと木曾義仲(きそよしなか)が平家を追い出したから、今さらお主らを遣わしたのだ。わしはその後義仲と決別する羽目になったが。あの男にあるのは計算だけじゃ。情など欠片もないわ」


「……行家殿!」


 耐えかねた継信が鋭い声で制した。


「酒が過ぎておられますぞ。牛若さまの御前で……」


「鎌倉殿への悪口雑言(あっこうぞうごん)、お控えくだされ」


 忠信が後に続く。


 三郎もまた、血走った目で睨みつける。駿河は隣で何も言わないが、汚いものを見るような目つきで行家を眺めていた。


「いい加減にしねえと、叔父上だろうがつまみ出すぞ」


 だが、行家はにたにたと笑いながら、さらにその防壁を土足で踏み越えた。


「いやあ怖い怖い。……ま、頼朝の話はつまらん。もっと面白い話をしようかのう」


 行家の目が、にやりと細められた。


「そういや九郎。見たか? 六条河原に(さら)された義仲の首を」


 ぴたりと空気が凍りついたのを弁慶は肌で感じた。


 三郎と佐藤兄弟が、弾かれたように顔を上げた。


「おい! その話はやめておけと言ったはずだ!」


 三郎が吠えた。牛若の心を守るために、その話題を封印していたにちがいない。


 同族殺しという罪悪感に、主の繊細な心が耐えられぬことを知っていたからだろう。市中で義仲の首晒しの噂が流れても、牛若の耳には一切入らぬよう、徹底して情報を遮断していた。


 だが、行家は嘲笑いながら続けた。


「あ? なぜ止める。傑作であったぞ。かっと目を見開いて、無念そうに死んでおったわ」


 がちゃんと箸が落ちる音が響いた。


 弁慶の視線の先で、牛若の顔から血の気が引いていくのが見えた。


「……そうでしたか……」


 声が震えている。


 牛若は首実検も避けていた。見たくなかったのだろう。同じ源氏の血を引く従兄弟(いとこ)を殺し、その首を晒し者にするという現実を。


「なんだ、見ておらんのか! 負け犬の顔よ。次は平家がああなる番じゃ、愉快なことよのう!」

 行家は口汚く嘲笑(あざわら)った。


 牛若の呼吸が乱れた。弁慶が耳にしたことのない音だ。


「てめえ……っ!」


 三郎が立ち上がった。


「俺たちがどれだけ気を使って、牛若さまに隠していたと思ってやがる!」


 三郎が掴みかかろうとした、その時だ。


「……九郎さま」


 静かな声と共に、駿河次郎(するがじろう)が割って入った。


 駿河は三郎を手で制しつつ、微かに震える牛若の前に跪いた。


「お気になさいますな。あれは謀反人(むほんにん)の末路。九郎様が成された武功とは別物にございます」


 淡々とした、しかし有無を言わせぬ口調だった。もともと付き従った時から温かい声とはいえなかったが、それが今はかえってよかっただろう。


「それよりも九郎さま、明日の調度品の件ですが……東の間の(しつら)えは、如何いたしましょう」


 鮮やかな話題の転換だった。主の心が壊れる前に、強制的に意識を逸らさせる。


 弁慶は、駿河の横顔をじっと見た。


(……ほう。この男も気が利くようになったか)


 この男もまた、牛若という壊れ物の守護者になったのだろう。弁慶は、最後に守る位置にいる。


 その時、門の方で馬の(いなな)きが聞こえた。


「鎌倉殿より、(ふみ)でございます!」


 使いの者の声に、牛若は弾かれたように立ち上がった。


「兄上からか!」


 先ほどまでの蒼白な顔色は消え、瞳に光が宿る。牛若は転げるように縁側へ飛び出した。


 ついに来た。宇治川の戦勝報告をしてから半月。待ちに待った、兄からの言葉だろう。


 牛若は震える手で文箱(ふばこ)を受け取ろうとしたが、指先が震えて紐が解けない。期待と恐怖がない交ぜになっているようだ。


「……お貸しください」


 弁慶は主の手から文箱を優しく取り上げた。紐を解き、中から一通の書状を取り出す。


 牛若が、すがるような目で弁慶を見上げている。三郎たちも固唾を飲んで待っている。


 弁慶は書状を開いた。視線が文字の上を走る。


 そこに書かれていたのは、簡潔な文字の羅列だけだった。(ねぎら)いの言葉など、一文字もない。「よくやった」の一言も、「怪我はないか」の問いかけもない。


 予想通りだ、と弁慶は言いはせず、ただ黙っていた。


「……弁慶? 兄上は、なんと?」


 牛若の無垢な問いかけに、弁慶は一瞬、言葉を詰まらせた。主が名を呼んでくれたことに甘い喜びが走る。


 これをそのまま読めば、主の心はどうなるか。だが、読まねばならないだろう。


 弁慶は腹に力を込め、低い声で読み上げた。


「……『一ノ谷(いちのたに)付近に集結する平家を追討せよ。何としても三種の神器(さんしゅのじんぎ)を取り戻せ』……以上でございます」


 それだけだった。読み上げた弁慶の声が虚しく屋敷に響き、そのまま静寂が落ちた。


「……おい」


 三郎の声が震えた。


「嘘だろ……? それだけか? 宇治川の戦功のことは、無視かよ……!」


 三郎は弁慶の手から文をひったくるように覗き込み、そして叫んだ。


「ふざけんな! あの激流を渡って、命を張ったのは誰だと思ってんだ! 兄貴なら『よくやった』の一言ぐらい書けってんだよ!」


 佐藤兄弟も、悔しげに唇を噛んだ。


「……あまりに冷たい文です。せっかくの身体を張った御作戦でしたのに」


「これでは義経さまが報われません」


 駿河でさえも、眉間に深い(しわ)を刻んでいた。


「……言葉少なにも、程が過ぎるのでは……」


 行家だけが、盃を干しながら下卑た笑い声を上げた。


「くくっ、さっきわしが言ったであろう。頼朝は昔からそういう可愛げのない男よ。人を道具としか思うておらん」


 その嘲笑だけが、残酷なほど正鵠(せいこく)を射ていた。


 弁慶は主の顔を見た。


 牛若は幽霊のように立ち尽くしていた。


 兄のために戦った。兄のために同族を殺した。なのに、兄からは無視されたに等しい。


 その事実に、心が砕け散る寸前なのだろう。弁慶は、主が崩れ落ちるなら支えようと、一歩足を踏み出した。


 だが牛若は、ふっと顔を上げた。


 その瞳には、狂気にも似た、痛々しいほど明るい光が宿っていた。


「……いや、これは好機だ」


 牛若は、自分に言い聞かせるように、早口で言った。


「兄上も、法皇様も、望みは同じ『神器』ということだ。……そうか、これは私の試練なのだ」


 牛若は自らの胸を抱きしめた。


「神器さえ取り戻せば、兄上は私を認めてくださる。法皇様もお喜びになる。そうすれば、皆でこの屋敷で暮らせるのだ!」


 (いびつ)な論理だった。


 冷淡な無視を「信頼ゆえの厳命」へと、強引に情緒で心を書き換えたのだ。そうでもしなければ、立っていられないからにちがいない。


 三郎は泣きそうな顔で主を見つめていた。


 ここで「目を覚ましてください」と言うのは簡単だ。そんなことは弁慶でも分かる。だがそれを言えば、この華奢な主は壊れてしまう。


 三郎は、鼻をすすり上げ、そして大声で叫んだ。


「……っ、そうですね! 神器ですね! 分かりましたよ!」


 三郎は、破れかぶれのように拳を突き上げた。


「俺たちが平家から全部ぶん獲ってやりましょう! 宝剣も鏡も、全部まとめて持ち帰ってきましょう!」


 継信も、深く頷いた。


「我らが必ず、宝剣を見つけ出しまする」


「そうだ兄者。義経さまの御為(おため)ならば」


「……一体何を申しておる」


 酒が冷めたのか、行家が一同を気味が悪そうに見つめていた。


「それがしも全力を尽くします」


 駿河が凛とした声を響かせた。駿河でさえ、迷いはない。主を絶望から救うため、この現実離れした意気込みを肯定することに。


 弁慶は静かに主の前に(ひざまず)いた。


「……仰せのままに」


 地の底から響くような声で、弁慶は誓った。思い直して、言葉を続けた。


「牛若さまが望むなら、海の底からでも拾って参りましょう」


(……我らは皆、牛若さまの心を守ろうとしているのだ)


 弁慶は、出陣の支度を始める主の、痛々しいほど勇んだ背中を見つめた。


 このあばら家を兄と住む屋敷だと言い張り、主の夢を守っている。


 だが、現実から離れたものはいずれ剥がれ落ちる。神器を手に入れたとしても、頼朝が笑う保証などどこにもない。


 その時、この華奢な魂はどうなる。


(……構わぬ)


 弁慶は、決意を込めて拳を握りしめた。


 その時は、自分が受け止める。


 砕けた魂もろとも、この腕で抱き止めて、地獄の底まで付き合うだけだ。


「さあ、これから一ノ谷へ向かうぞ!」


 牛若の号令が、虚しく、そして清らかに響き渡った。

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