第二十二話 招かれざる叔父
六条堀川の屋敷に、槌音が響いていた。
かつて源氏の棟梁たちが住んだ由緒ある館も、今や焼け焦げた柱と崩れた土壁が目立つ廃墟だ。
だが、今のこの屋敷には、奇妙なほど明るい熱気が満ちていた。
「そこではない。その石は、もう少し右にしよう」
牛若の声が、春の陽気のように弾んだ。
埃のついた直垂姿で、自ら庭石の配置を指図している。その顔には、宇治川で見せた神業の舞の片鱗は微塵もない。ただの、兄を慕う弟の顔があった。
「兄上は質実剛健を好まれる気がする。華美な装飾はいらぬ。この庭で兄上と夕涼みができれば、きっとお心も休まるはずだ」
牛若は、まだ見ぬ兄との暮らしを夢見て、この廃墟を兄弟の屋敷に変えようとしていた。
それはあまりにも現実離れした、哀れな妄想だ。鎌倉を出ようとしないあの冷徹な頼朝が、こんな場所で弟と仲良く涼むはずがない。
だが、ここにいる男たちは誰一人として、主の夢を笑わなかった。
「へへっ、さすがは牛若さま! こいつは名案だ!」
伊勢三郎が顔の汗を拭いながら大声で笑った。
その目には、主を傷つけまいとする必死な色が宿っているのが弁慶には分かった。
「こんな立派な隠れ家を用意されたら、兄君も『弟に任せてよかった』って泣いて喜ぶに違いないですよ!」
「左様ですな。では、こちらの柱は我らが」
「念入りに磨き上げましょう」
佐藤継信と忠信の兄弟も、真顔で頷き合っている。彼らは手拭いを真っ黒にしながら、焼け焦げた柱を親の位牌のように丁寧に拭き清めていた。
駿河次郎は、黙々と庭の雑草を抜きながら、静かに口を開いた。
「……鎌倉殿は、静寂を好まれることでしょう」
その口調は三郎や佐藤兄弟に比べると、月影に隠れるような響きがあった。
他の者に同調するような言葉ではある。だが、つい最近までは頼朝の家臣だったのだ。こんな妙な屋敷に、頼朝が弟と同居するために鎌倉から飛んでくるなどという未来など、以前の駿河なら冷たく笑ったにちがいない。
今の駿河は視線がおぼつかない。
「……松の枝ぶりも、そのように整えましょう」
迷いはあれど、声に妙な真剣さが宿った。ごくりと唾をのみ込んでいる。牛若の願いが妄想に過ぎないと分かっていながら、今の駿河はその事実を指摘できる男ではなくなったらしい。
弁慶は無言で巨石を持ち上げた。
常人なら数人がかりで運ぶような岩を、赤子の手をひねるように抱える。
「……弁慶、力持ちだなあ。それは兄上の庭に置く石だ」
牛若が声をかけてくれた。風のように笑っている。こちらの心臓は高鳴るが、弁慶に笑顔を与えてくれているわけではあるまい。唇を噛み締めながら、鼻で深く息を吸い込む。
「……心得ております」
弁慶は穏やかな低い声で答え、主が指差した松の下へ、どすんと重い音を立てて岩を据えた。
「……ここが良いでしょう」
弁慶が柄にもなく微笑んでみせると、牛若の瞳が一気にきらめく。
「兄上が腰掛けるのに、丁度よさそうだ」
嘘だ。頼朝は絶対に来ない。この石に座るのは、永遠に待ちぼうけを食らう牛若だけだ。
だが、弁慶は主の曇りのない瞳を見て、腹の底で頷いた。
(構わぬ。主……牛若さまが笑うなら、俺も共に笑うのがよい)
このあばら家を、夢の屋敷だと言い張る。その滑稽で優しい嘘を支えるためなら、岩の一つや二つ、いくらでも運んでやるつもりだった。
そこへ、六条殿からの使いが来た。確認すると、後白河法皇からの呼び出しとのことだ。
当然のように三郎と弁慶が立ち上がり、駿河までもが腰を上げた。佐藤兄弟が留守番を買って出る。
法皇の御所は、相変わらず花の香と脂の匂いが混じった、独特の空気に包まれていた。弁慶たちは牛若の背中を斜め後ろから見つめていた。
「おお九郎、よく来た。待ちわびておったぞ」
「はっ」
法皇は粘つくような甘い声で牛若を迎えた。丹後局も、扇の陰から牛若をそっと眺めている。
法皇は身を乗り出した。まるで、秘め事を打ち明ける父親のような顔だ。
「九郎よ。本日はそなたに話がある。すなわち……平家が持ち去った、三種の神器のことを思うと、朕は夜も眠れぬのじゃ」
法皇の老いた手が、牛若の華奢な手を握りしめ、弁慶は喉から悲鳴を溢れさせかけた。無遠慮でありながら優雅なのが、都の作法なのだろう。
牛若の背中が、また震えていた。まつ毛も揺れているにちがいない。
「あれがなくば、先日即位した新しい帝の位が定まらぬ。平家が連れ去った、平家の息のかかった安徳天皇がいつまでも西国で将兵を君臨させてしまうであろう」
法皇は牛若の手を、さらに強く握りしめたことだろう。
「九郎、そなただけが頼りじゃ。朕のために、取り戻してはくれぬか」
牛若の背筋が、すっと伸びた。何の迷いもなさそうだった。
「お任せください。必ずや神器を取り戻し、法皇様の御前にお持ちいたします」
まさに即答だった。澄み切った忠義の言葉に聞こえる。
法皇は牛若に褒美を与えるとは言っていない。牛若は、ただ法皇の精神的抱擁に反応して、その要請を受け入れたに過ぎない。
秀衡に愛された平泉を去ってから、ずっと牛若が渇望していたものを、鎌倉の頼朝は与えず、法皇は即座に与えた。
法皇は満足げに目を細めた。
「頼もしいのう。そなたはまるで……朕の息子のようなものじゃ」
「はいっ」
牛若の心臓が跳ねたことが弁慶には分かった。弁慶たち従者には決して見せない動揺だ。
「もったいなき、お言葉にございます」
牛若の言葉は震えていた。法皇の慈しむような笑い声が微かに聞こえた。
牛若はこの瞬間だけ、頼朝のことを忘れたのだろうか。弁慶にとってはどうでもよいことだが、気にせずにはいられない。
帰り道、牛若の足取りは軽かった。頬を紅潮させている。
「私が神器を取り戻せば、法皇様がさぞお喜びになるだろうな」
ひどくうれしそうな声音だ。その無垢な言葉に、三郎が大きく頷いた。
「へへっ、違いないです! 法皇様って、日本で最も位の高いお方ですよね? さすが、俺たちの牛若さまの凄さがよく分かってらっしゃる」
「あの……」
駿河は遠慮がちに口を挟んだ。穏やかな表情の中に困ったような色がある。
「鎌倉や範頼殿へのご報告は、いかがいたしましょう……?」
駿河の言葉は、まるで独り言のようだった。
「兄上も喜んでくださるはずだ」
牛若は紅潮した顔のまま、迷いのない声でうれしそうに答えた。牛若がすぐに答えたことで、駿河の言葉は、かえって独り言に近づいた。牛若の笑顔を見て、駿河は微笑みながら微かなため息をついていた。
弁慶は、主の背中を見つめながら、苦いものを噛み潰した。
牛若は朝廷と武士団の緊張関係など、理解していないにちがいない。牛若にとって、秀衡に近い温かい精神的抱擁を与えてくれる法皇と、優しさと冷徹さを絶妙に振るう頼朝とは、地続きの身内に見えているのではあるまいか。
だが、嬉しそうにしている主に水を差す気にはなれない。弁慶はただ沈黙を落とした。
屋敷に戻ると、門前で騒ぎが起きていた。
「どけ! わしは客じゃぞ!」
しわがれた下品な声が聞こえる。
薄汚い僧形の男が一人、強引に門を通ろうとしていた。着ている衣はひどく汚れており、何より鼻につく安酒の臭いが漂っている。
留守番をしていた佐藤兄弟が、露骨に嫌な顔で立ちはだかっていた。
弁慶が目の前に進み出た。その巨体で男を見下ろす。
「何用か」
地の底から響くような声に、男が一瞬怯んだ。だが、すぐにふてぶてしい笑みを浮かべた。
「……九郎に会わせろ。わしは源義盛じゃ」
その名を聞いた瞬間、隣にいた三郎が弾かれたように反応した。
「ああん!?」
三郎の顔が真っ赤に染まった。野犬のような殺気が膨れ上がる。
「てめえ! そんな下品な源氏がいるかよ! しかも俺の正式な名まで騙るとはどういう料簡だ! 俺は伊勢三郎義盛だぞ!」
三郎が襟首を掴みかかろうとすると、男は慌てて手を振った。
「おお、待て待て! さっきのは昔の名じゃ。……今は行家と名乗っておる。源行家じゃ」
ぴたりと空気が止まった。弁慶もその名には聞き覚えがあった。鎌倉の古寺の坊主から聞いた噂話だ。
駿河次郎が音もなく牛若の前に立つ。主を庇うような位置取りだ。
「……行家殿といえば、鎌倉殿とは……」
駿河は言いかけて口をつぐんだ。その沈黙が雄弁に語っていた。頼朝が決裂後に最も嫌い、指名手配同然に扱っている叔父の名である、と。
弁慶と三郎は、即座に追い出すべく構えた。
だが、従者に隠されていた牛若が、真っ直ぐ清廉な歩みで進み出た。
「行家……叔父上?」
その声を聞き、牛若の顔を見た瞬間、行家の卑しい目つきが変わった。猫撫で声に変わる。
「おお……九郎か。亡き義朝兄上の面影があるのう。わしじゃ、叔父の行家じゃ」
行家は、牛若が血縁と父性の抱擁にだけ向ける、特有のいささか甘ったるい声音を本能で感じ取ったのだろう。ずい、と身を乗り出す。
「頼朝とは縁が切れたが、血は争えぬ。……九郎、実はな、わしはもう行くあてがないのじゃ。同じ源氏のよしみで、ここで匿ってはくれぬか」
三郎が「牛若さま……!」と叫びかけたが、牛若は既に駆け寄っていた。
「叔父上……! 父上の弟君でいらっしゃるというのに……!」
牛若は、行家の薄汚れた手を取った。
「行くあてがないご親族を、追い返すわけにはまいりません。どうぞ、お入りください」
三郎が絶句し、佐藤兄弟が天を仰いだ。駿河は表情を消し、静かに一歩下がった。弁慶は歯を意味もなく噛み締めた。
行家は「かたじけないのう」と下卑た笑いを浮かべ、ずかずかと門をくぐった。
その足が、三郎たちが必死に磨き上げた敷石を汚していく。
弁慶は、行家の背中から漂う、強烈な俗臭と腐臭に鼻をしかめた。
(……この屋敷は、主が鎌倉殿のために清めている聖域だ。そこに、泥足で踏み込む蛆虫が一匹)
この男は、牛若の純粋さを食い物にするとしか思えない。
弁慶の腕の中で、長刀が怒りに震えた。
だが、主が身内として招き入れた以上、叩き出すわけにはいかない。
弁慶は、どす黒い不快感を腹の底に押し込め、招かれざる叔父の後ろ姿を睨みつけた。




