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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
第二部 貴公子の乱舞

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第二十一話 六条の父

 褒美を問う法皇の声は、ほんのり甘く御所内を漂った。


 弁慶はほどよく平伏したまま、主の白い首筋を見つめていた。その肌がわずかに強張るのが見て取れる。


 牛若はきょとんとしていた。その頭の中で、「兄の命令」が反芻されているにちがいない。


 若武者は春の日差しのような無邪気さで即答した。


「何も、要りませぬ」


 法皇と丹後局(たんごのつぼね)の喉から声が漏れた。


「は……? 何も、要らぬと?」


「はい。私は兄上のお役に立つために戦いました。兄上の許しなくば、何も受け取るわけにはまいりませぬ」


 法皇が息を呑み、しんと御所が静まり返った。


 弁慶は、喉の奥で冷笑を噛み殺していた。


(御仏のような無欲、とでも思ったか。……滑稽(こっけい)な)


 牛若は欲がないのではない。今の牛若は、兄以外の全てが「要らない」だけだ。官位も、金も、名誉も、兄の笑顔一つに比べれば路傍の石ころに等しいだろう。


 それは無欲どころか、この世で最も強欲な「兄への渇望」だ。


 だが、その歪な真実に気づける者は、この場に弁慶しかいないにちがいない。


「……これほどの武功を立てて、無欲とは……。なんと清らかな」


「まるで菩薩(ぼさつ)さまのようですわ……」


 案の定、法皇と丹後局は勝手に感動し、恍惚(こうこつ)の溜息を漏らしている。泥沼の都に咲いた蓮の花だとでも思っているのだろう。


 牛若は返答に困っているようだった。沈黙が落ちる。初対面の相手が自分の言葉を何もかも美しく解釈してくれるのは、鎌倉の乾いた(ことわり)に晒されていた身にはあまりに新鮮だろう。


「……そうかそうか、いじらしいのう」


 法皇が身を乗り出した。牛若を離そうとしない、ねっとりとした声音だった。


「さて九郎……京での寝所(しんじょ)はいかがであったか……おっと」


 法皇は、ふと何かを思い出したように手を打った。


六条堀川(ろくじょうほりかわ)にある、そなたの父義朝(よしとも)殿の館。あそこが空いておるぞ。使うがよい」


 六条堀川。亡父義朝。


 その名を聞いた瞬間、牛若の背中が小さく跳ねたのを弁慶は見逃さなかった。


「父、の……?」


 牛若は「父上」とは言わなかった。


「左様。かつて左馬頭(さまのかみ)義朝殿が使っていた場所。平治の乱より主を失っておるゆえ荒れ果てていようが、源氏ゆかりの地。そなたが使うに文句はあるまい」


 牛若の横顔に生気が宿った。褒美の話の時には見せなかった、熱を帯びた輝きだ。


「父の、館……!」


 牛若は弾かれたように顔をほんの少しだけ上げた。満面の笑みにちがいない。


「ありがたき幸せ。父の家を、兄上のためにこれから清めます。兄上が上洛された折には、共にそこで暮らすのです」


「おお、よいよい。頼朝殿も、亡き義朝殿も、喜ぶであろうの」


 法皇は、牛若の喜びようを見て、自分もうれしそうに声を弾ませていた。


(……「兄上と共に暮らす」、だと……?)


 源氏の棟梁として頂点にいる頼朝が、弟の牛若と肩を並べて暮らす。鎌倉で一度拒絶されても、なお同じ望みを持ち続けている。


 牛若は義朝は「父」、頼朝は「兄上」と読んだ。牛若の中では「父の屋敷」は「兄と同居できる巣」へと変換されている。その無垢な希望が、弁慶にはたまらなく愛おしかった。




 拝謁を終え、六条殿(ろくじょうどの)を退出した一行を、夜風が撫でた。


 範頼がほっとした表情で牛若を見る。


「うまくいったな、九郎殿。わしは軍勢も多いゆえ、六波羅(ろくはら)に入ろうと思う。あちらの方が設備も整っておるし、警護もしやすい」


 範頼の選択は武将として極めてまともだ。平家が残した六波羅は機能的で、軍事拠点としても申し分ない。


「はい、カバの兄上」


 牛若は恍惚とした表情で答えた。


 弁慶は思わず鼻を鳴らした。亡父の屋敷が荒れ果てていようが、この天界の稚児にとって、機能性や利便性などどうでもよいのだ。血の幻想だけが、彼を突き動かす唯一の燃料なのだから。




 範頼と別れ、牛若一行が歩き出した時だった。


「義経殿」


 梶原景時(かじわらかげとき)が、抑揚のない声で呼び止めた。


「恩賞を断ったこと、賢明な判断にございます。これで鎌倉殿もお喜びになりましょう」


 景時は安堵したように息をつく。だが、すぐに眉間に深い(しわ)を刻んだ。


「しかしながら、六条堀川のお屋敷の件は承服いたしかねます」


「なぜだ?」


 牛若はきょとんとして振り返る。


「鎌倉殿からの事前の許可がございませぬ」


 景時は淡々と言った。


「あの屋敷は源氏の棟梁(とうりょう)、すなわち現在は鎌倉殿の管理下にあるべき場所。事前に使用許可を得ず独断で入居するのは、筋道として不適切であると考えられます」


 斜め後ろの駿河次郎(するがじろう)が、困ったような表情で微かに頷く。


「……確かに、梶原殿の申すことにも一理ございます。順序としては……」


「また帳面じじいの小言かよ……!」


 後から三郎が野良犬のように噛みつく。


「あんた、ほんと黄瀬川の時から何度も本当にしつこいな。牛若さまが大好きな兄君と一緒に住めるって喜んでるのを、そうやって邪魔しやがって」


「一体何を申す。わしはあくまで事前の許可を得るべきだと申しておる」


「父上、またですか!」


 後ろから景季の爽やかな声が割って入った。


「義経さまのお喜びの顔を見たでしょう」


 景季は牛若の顔から目をそらしつつ、父親を睨みつける。


「そうやって、せっかく義経さまが亡き父君に思いを馳せるのを邪魔するのは、あまりにもお気の毒です」


「お前は黙っておるのじゃ。わしは手続きのことだけを話しておる」


「景時殿、あなたにはあの風が見えぬのですか」


 背筋を伸ばした重忠が、透明感のある声で穏やかに言葉を紡ぐ。


「義経さまの清廉さが、時を超えて父君の魂を招いておられるのです。それを我々下々の者が押しつぶすのは、天も感心しますまい」


「重忠殿までもか……」


 景時はため息をつきながら拒絶を繰り返す。


「わしは義経殿の思いを邪魔するとは申しておらぬ。しかしながら、鎌倉で政務をとっておられる鎌倉殿が六条堀川にお住まいになる可能性はあまり考えられぬし、義朝公の住まいにいきなり義経殿が住む許可が必要だという筋目を申しておるのじゃ」


「……聞こえます」


 高綱が響きのよい声を景時の濁った声に被せた。


「法皇さまが荒れ果てているとおっしゃった六条堀川の古き柱。魂が呼んでいるのです。書類で魂を縛ろうなどと……。景時殿も義経殿の澄んだ瞳に宿った喜びの光をご覧になったであろう」


「一体何を申しておる。わけがわからぬ」


「父上が義経さまの美しい心を妨害するのがよくないのです」


「お前は黙っていよ……!」


 景時が声を荒げる。


「景時殿」


 重忠が透き通った低音で制止する。


「何かにつけてそのように声を荒げ、義経さまの純粋な風に雑念を混ぜることに、そしてお喜びの義経さまの心に傷をお付け申し上げることに、それがしは一向に感心できませぬ」


「重忠殿、わしの話をよく聞いて頂きたい」


「景時殿こそ、義経さまの瞳の美しい光を見つめる努力を放棄しておられますな」


 高綱があきらめの表情で景時を見る。


「武士の心として」


 重忠が付け加えた。


「景時殿の所業が果たして武士の心としてふさわしいか、よくお考えになってはいかがでしょう」


「その通りだ! 父上は頭を冷やされよ!」


「なんだと……! 景季、父を愚弄しおって」


「父上こそ、こんなところで義経さまの邪魔をしている暇があるなら、他にやるべきことがござろう!」


「何を言う! 我々の寝所はすでに手配済みじゃ!」


「いつも父上は議論から逃げておられる!」


 梶原父子の親子喧嘩がまた勃発してしまった。そのまま二人は消えていき、重忠や高綱も後に続いて見えなくなった。


「私は、兄上との屋敷を諦めねばならないのか……?」


 牛若の寂しそうな声が落ちた。駿河は口を半開きにしたまま沈黙していた。


「牛若さま、帳面じじいのいつものやつですよ。俺たちはみんな、牛若さまの味方ですから。お屋敷に今から行きましょうよ」


 三郎が力強く言い放つ。


「奥州武士として、源氏の棟梁のお屋敷に義経さまがお住まいになる勇姿が楽しみでございます」


 継信がかしこまった口調で言うと、忠信も「気を取り直して参りましょう」と同調した。


「牛若さま……」


 弁慶は、今だに口にするたびに動悸が走りそうになる主の名を控えめに呼んだ。


「それがしも、牛若さまにどこまでもついていく所存」


 陳腐すぎる言葉ではある。景時のようにうるさい人間は比叡山の中にはいくらでもいたが、弁慶はそのような雑音を気にするよりも、ただ目の前の主に従うのみだ。




 辿り着いた六条堀川の屋敷は、無残なものだった。


 大門は焼け焦げ、塀は崩れ、庭には雑草が背丈ほども生い茂っている。屋敷というよりは、巨大な墓標のような廃墟だった。


「こりゃひどいな……」


 三郎が呆れたように呟く。


 だが、牛若には違って見えているようだった。


「ここに、父が住んでおられたのか……」


 牛若は、焼け焦げた柱にそっと手を触れた。


「温かい気がする……」


 牛若はそっと微笑んでいた。それは弁慶に向けられたことはないものだった。


「ここを直そう……そしていつか、兄上をお迎えするのだ」


 牛若は、夢見るような顔で虚空を見上げた。


「兄上と一緒に、ここで暮らすのだ。父の思い出話を聞きたい……」


 牛若の目が潤んでいる。三郎も佐藤兄弟も狂おしいため息をついていた。駿河も遠慮がちのため息を吐いていた。


 弁慶には分かる。これはあまりにも現実離れした、残酷な夢にちがいない。


(……哀れかもしれぬ)


 弁慶は、気品が漂いながらもはしゃいでいる主君の背中をじっと見つめていた。


 あの頼朝が、このような過去の遺物に来るはずがなかろう。牛若は、この廃墟という鳥籠の中で、決して来ることのない主を待ち続けるのか。


 いや、それよりも――。


 弁慶の視線が、先ほどまでいた六条殿(ろくじょうどの)の方角へと向いた。


 あの法皇。牛若に対する、あの粘つくような声音。


 この屋敷に染み付いた、顔も知らぬ「亡き父」の影よりも、目に見える形で温もりを与えようとするあの法皇の方が、牛若にとってはよほど甘美な「父」になりはしまいか。それは「兄」の冷たさとはあまりに異なりすぎている。


 頼朝が決して与えぬ「情」を、あの法皇が与え続ければ、牛若の心はどうなるのだろうか。


 あの老人は、牛若の心の隙間に入り込めるのではないか。


(……まあ、よい)


 弁慶は、闇の中で口の端を歪めた。


 法皇がどれほど甘い愛を注ごうと、頼朝がどれほど冷たく突き放しながら牛若を制御しようと、この華奢な主の心が真に満たされることはないはずだ。


 牛若は永遠に飢え、永遠に彷徨うにちがいない。


 そして、その傍らで飢えを満たしてやれるのは、おそらく最後には一人しかいまい。


「……さあ、皆様。まずは草むしりから始めましょうぞ」


 弁慶は低い声で皆を促した。


 牛若の無垢な輝きと、死に絶えた屋敷の暗闇。その対比があまりにも鮮やかだと、弁慶は眩暈(めまい)にも似た陶酔を密かに覚えていた。

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