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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
上巻 第二部 貴公子の乱舞

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第二十話 法皇との謁見

 夜の(とばり)が下りても、六条河原(ろくじょうがわら)の熱気は冷めやらなかった。


 あちこちで焚き火が()ぜ、濡れた鎧や直垂(ひたたれ)を乾かす武者たちの影が揺らめいている。


 その炎の前で、駿河次郎(するがじろう)は泥人形のように座り込んでいた。


 ずぶ濡れの直垂からは白い湯気が立ち上っているが、彼は寒さを感じている様子もない。ただ虚ろな瞳で、揺れる炎の芯を見つめている。時折奥歯が鳴る音が聞こえる。


「駿河殿。着替えねば、法皇様に失礼になるぞ」


 弁慶は立ったまま大太刀を拭い、低い声で呼びかけた。ずぶ濡れの牛若に着替えを勧めなかったことは口に出さない。


 駿河の肩がびくりと跳ねた。


 彼はゆっくりと顔を上げ、焦点の定まらない瞳で弁慶を見た。鎌倉を出発した頃は冷徹な観察者のようにも見えた男の顔は、今は見る影もない。魂がどこかへ抜け落ちてしまったようだ。


「……駿河、でよい」


 (かす)れた声が漏れた。


「あれは、なんだ……」


 弁慶は駿河つぶやきの意味が分からずにいた。


「人は……あのように舞えるのか。あのような戦が……この世にあるのか」


 駿河の脳裏には、まだ焼き付いているのだろう。濁流の上で扇子を翻すが如く敵を散らした、あの牛若の姿が。世の法則を無視した、あの白い軌跡が。


 胸の奥であの暗い優越感が湧き上がる。


「牛若さまの武勇だ。見事だったろう」


 あえて、平凡な言葉で返した。


「武勇……。いや、あれは……」


 駿河は言葉を濁し、また炎へと視線を落とした。その手は小刻みに震えている。


(この男も、落ちた)


 弁慶は冷ややかに見下ろした。


 駿河は覗いてしまったのだ。人の身で踏み込んではならぬ、天界の稚児の領域を。


 だが、駿河が見たのはあくまで遠景に過ぎない。


 あの五条の大橋で、刃を交え、互いの吐息と熱を感じ合った夜を知っているのは、この世で弁慶ただ一人だ。


 闇の中から一陣の風が吹いた。


「駿河、何を呆けている。参内するぞ」


 濡れた髪を布で拭う牛若が現れた。


 川の水を浴びた肌は、焚き火の明かりを受けて磁器のように発光しているように見える。数刻前に数百の兵を薙ぎ払ったとは思えぬほど、その瞳は澄み切っていた。人ならざる透明な気配だけがある。


「あ……」


 駿河が弾かれたように立ち上がる。その瞳には主君への忠誠だけでなく畏れが入り混じっていた。


「九郎さま、申し訳ございませぬ。一つ失念しておりました」


 駿河は慌てて姿勢を正すと、何かを振り払うように早口で言った。


「参内される前に、鎌倉殿より預かった厳命をお伝えせねばなりませぬ」


「兄上から?」


 その言葉が出た瞬間、牛若の顔がぱっと輝いた。先ほどまでの超然とした気配が消え、褒め言葉を待つ子供のような顔になる。


「法皇様からの贈り物は、官位であれ財物であれ、断じて受け取ってはならぬと」


「……受け取るな?」


 牛若が首を傾げる。むろん興味はなさそうだ。


「ふむ」


 牛若は深く頷いた。


「兄上がそう仰るなら、一欠片(ひとかけら)たりとも受け取るまい」


 即答だった。迷いも、不満もない。


(理由などどうでもいいのだ)


 弁慶は嘆息した。


 この御方にとって重要なのは、「何をするか」ではない。「兄上の命令を守る自分」であれば、それで幸せなのだ。満足に言葉も交わせず鎌倉を出発したからこそ、かえって兄への思いが通常の行き場を失ったまま強まってしまったのではないか。


「牛若さま……カバさんが来ました」


 三郎が軽薄な声を上げた。


 向こうから、数人の従者を連れた武将が歩いてくる。義経の異母兄、源範頼(みなもとののりより)――通称、蒲冠者(かばのかじゃ)、すなわちカバ殿である。


 範頼の直垂も泥で汚れてはいるが、それは常識的な武人の汚れ方だった。牛若のように天界の気を放ってはいない。生々しい人の疲れを纏っている。


「カバの兄上……」


 牛若の声音は肩の力を抜くことができている。


「九郎殿、無茶をしたそうだな。川を馬で渡るとは」


 もっさりと話す範頼は微笑して弟を見ていた。


「橋がなかったのです」


 牛若は悪びれもせず答える。


「……そうか。まあ、勝ったのなら良い」


 範頼は疲れたように息を吐いた。


 この凡庸な兄の存在が、牛若の異常さを際立たせている。弁慶はこの男のことをこれ以上知りたいとは思わなかった。天界にこの男の住処はあるまい。




 明け方、兄弟二人は法皇の待つ六条殿(ろくじょうどの)へと歩き出した。弁慶たちも後に続く。戦は終わったのだ。


 仮御所である六条殿が視界の奥にうっすらと見えてきた。梶原景時(かじわらかげとき)である。


「義経殿。釘を刺しておきますぞ」


 景時の眉間には深い(しわ)が刻まれている。彼は牛若の背後にいる弁慶たちを一瞥してから、低い声で告げた。


「法皇様に対して、不用意な発言は命取りになります。ご褒美などは全てお断りなされよ。くれぐれも鎌倉殿の意向を無視なさらぬよう」


「駿河からも聞いた」


 牛若の返答は素っ気なかった。天界の稚児は褒美など何の興味もなかろう。それに気づかない景時を弁慶は滑稽に思った。


「……ちっ、帳面じじい、いつもしつこくてうっせえな。一体何度現れる気だ」


 三郎が小声で毒づく。


 だが、牛若は予想外に真剣な顔で頷いた。


「兄上の言いつけは守る」


「……本当に、分かっておられるのか」


 景時は不安そうに牛若を見つめ、やがて諦めたように踵を返した。


「牛若さま。あの帳面じじい、いちいち牛若さまにしつこく失礼なことを言ってきやがりますよね。そろそろ出入り禁止にしたらどうでしょう」


 三郎が腹立たしそうな顔で牛若を慰める。


「そろそろ出発するとしよう。三郎も」


 牛若の返答は素っ気ない。三郎の提案に答えていない。だが名を呼ばれた三郎はうれしそうに微笑んだ。


(景時の懸念は正しいかもしれぬ)


 弁慶は心の中で同意していた。牛若にとっては政治的な損得などより、今は「兄への愛」だけが何よりも大事だ。それ以上のことは何も分からぬに違いない。




 一行は御所の中へと足を踏み入れた。


 六条殿は、木曾義仲から逃れた後白河法皇が移り住んだ仮の御所である。


 範頼と牛若は緊張した様子でかしこまっていた。ここは急ごしらえのためか、御簾(みす)は薄く、法皇との距離が妙に近い。そこには、むせ返るような香の匂いと、異様な重圧が満ちていた。ずらりとかしこまって控える下々の弁慶たちからも、なんとか様子が見える。


(おもて)を上げよ」


 やや年を重ねた女性の涼やかな声が響く。寵愛を受けていると噂の丹後局(たんごのつぼね)だろう。


 御簾の向こうに法皇が座していた。今様(いまよう)を愛していると専らの噂で、この国の頂点に君臨する治天(ちてん)の君だ。その双眸(そうぼう)は笑っているようでもあり、柔らかい威厳があった。


 まず、範頼が顔を上げた。


「源範頼にございます」


「うむ。ご苦労」


 法皇は、興味なさげに短く答えただけだった。この数年における都の混乱で、武人は見飽きているのかもしれない。


 次に、牛若が顔を上げた。


「源九郎義経にございます」


 弁慶が聞き慣れている透明感のある声だ。法皇と丹後局が同時に息を呑む気配がした。


「……これは……」


 法皇が身を乗り出した。


 牛若の濡れた漆黒の黒髪はまだ乾ききっていまい。戦場帰りの硝煙の匂いをまといながら、白磁のような肌は透き通っている。そして何より、敵兵を薙ぎ倒してきてさほど経っていないというのに、澄み切った瞳が見えることだろう。


 そこには人の世の汚れが一切ないはずだ。研ぎ澄まされた刃のような純度だけがある。弁慶が五条の大橋で体感したものだ。


「九郎……」


 法皇はただその名を噛み締めるように呟いた。弁慶は主の背中が一瞬揺れ動いたのを見逃さなかった。義経、ではなく、九郎。頼朝と同じ呼び方だ。


「まあ……」


 丹後局が扇で口元を覆った。


 二人は牛若の異質な存在感に呑まれた。天界の風が皇室に吹き始めたのだ。


「頼朝は流人の身からよくぞここまで。そなたの兄は見事じゃ」


 法皇は頼朝を褒めた。牛若がうっかり顔を上げそうになるのを抑えると、法皇は「よいよい」と穏やかな声を発した。


「兄上は、日本一の武士にございます」


 湿度の高い声だ。わざわざ法皇に向かって言うべき言葉ではない。


「まさに」


 どういうわけか、法皇は微笑んだ声で強く肯定した。本気で源頼朝が日本一だと思っているわけではあるまい。ただ牛若の言葉を、肯定した。


(ちん)はそなたの父の義朝(よしとも)も知っておる。……今のそなたには、頼朝だけじゃな」


 やんごとなきお方の言葉には無駄がない。ただ、隣に範頼がいるのを法皇はど忘れしているようにも聞こえる。今の法皇は牛若だけを見ている。


「父を知らず育ったそなた。朕を父と思うがよい」


「父……?」


 牛若の微かなつぶやきを聞き取ることは、遠い距離にいる弁慶にとって容易いことだった。


「まあ……法皇さま、素敵なご子息ですわ」


 蜜のような声で丹後局が微笑む。


「のう、九郎」


 その場に不自然な沈黙が落ちる。牛若の肩が頼りなく揺れているのが弁慶には分かった。


 牛若は予想外の言葉に、何と答えたらよいか分からず色を失っているのだ。奥州の秀衡を最後まで父と呼べなかった主が、法皇の言葉に激しく動揺している。


「……そう、そうじゃ」


 法皇の声音に、少しだけ緊張が宿った。緊張というより、焦りと言ったらよいだろうか。声音はさっきよりさらにずっと温かい。まるで、牛若を安心させたいような。


「まず……」


 なぜかつばをのみ込んだ法皇が、範頼の方へ向き直るのが見えた。


「範頼。褒美は何が良いか」


 法皇の声が(まつりごと)のそれになる。


「はっ」


 いつもはもっさりしている範頼も、今は責任を果たそうとする緊張が見てとれる。深く息を吸い込んでいるようだ。


「恐れながら、平家追討の院宣(いんぜん)を賜りたく存じます」


 範頼は淀みなく答えた。


 亡父の敵討ちに、朝敵討伐という大義名分を求める。鎌倉の頼朝が与えた任務だろう。


「……ふむ……よかろう。少し時間はかかる」


 法皇の声はよく通っていたが、感情は宿っていなかった。


「ありがたき幸せ」


 範頼はほっとしたような声で答えた。


 そして、法皇の視線が牛若へと移った。


「では九郎」


 その呼び名でまた牛若の背筋が跳ねるのが、弁慶の胸の中をむず痒くした。法皇の声が、ひどく温かい。


「……はい」


「そなたは何がほしい? 官位か? 領地か?」


弁慶には法皇がその言葉を満面の笑みで言っているのがよく分かった。

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