第二話 三郎と吉次
少年の足取りは、都を離れてもなお、風のように速かった。
石ひとつ敷かれぬ、剥き出しの土の道。弁慶はその華奢な背中を追うだけで、全身の感覚を研ぎ澄まさねばならなかった。
霧の底を滑るように、迷いのない小さな背中だ。この世の理から解き放たれたかのようなその歩みに、弁慶は眩暈に似た敬畏を抱いていた。
――天界の稚児かもしれぬ。
比叡山で学問と武芸に明け暮れながら、誰とも交わらず生きてきた弁慶にとって、それは初めて触れた、清浄な「祈り」に等しい思いだった。
だが、その祈りは、霧の向こうから響いた粗野な叫び声によって、無残に砕かれる。
「――牛若さまっ! 牛若さまっ!」
松明の、赤く濁った炎が揺れる。泥を撥ね飛ばしながら駆けてくる、一人の男の影があった。
「牛若さま、冗談じゃありませんよ! あんなに勝手に動かないでくれって、あれほど言ったじゃありませんか!」
現れたのは、身軽な装束を纏った若者だった。整った眉に、快活そうな光を宿した瞳だ。
その男は弁慶など視界に入っていないかのように少年に駆け寄ると、あろうことか、その華奢な肩を掴んだ。
「……何だ、この男は」
弁慶の口から、低く地を這うような声が漏れた。男は構わず、無遠慮な手つきで少年の衣についた砂埃をはたき始めた。
「ほら、こんなに汚して。吉次さんも、他のみんなも、血眼になって探しているんですよ。本当にもう、俺がどれだけ肝を冷やしたと思っているんですか」
ずけずけと放たれる、遠慮のない言葉。弁慶は、こめかみの血管が微かに浮き上がるのを感じた。
「貴様、その手を離せ。主の御身に気安く触れるな」
弁慶が長刀の石突きで地面を叩くと、男はようやく顔を上げた。
「……え、主? ああ、あんた。牛若さまを連れてきてくれたのか? そりゃどうも」
男は悪びれもせず、さわやかでさえある笑みを向けた。
「俺は伊勢三郎。牛若さまの第一の家来だ。あんた、山のような長身だな。どこかの用心棒か?」
「第一の……家来だと?」
弁慶は絶句した。自分が先ほど魂を削って名乗ったにもかかわらず、主からはまだ一度も呼んでもらえていない。
「……三郎、案ずるな。少し、寄り道をしていただけだ」
少年――牛若は、三郎の無礼を疎ましがる様子もなく、ふっと視線を落とし、風のようにつぶやいた。
牛若。それが、この少年の名らしい。
弁慶は、その響きを脳裏で反芻した。自分はまだ一度も呼ぶことを許されていない名を、目の前の男は、当たり前のように呼んでいる。
「寄り道って……そんなひょいひょい消えられちゃあ、護衛の俺の立場がありませんよ」
「……三郎と言ったか。貴様、その口の聞き方は何だ。身の程を弁えよ」
弁慶の冷徹な指摘に、三郎は首を傾げた。
「身の程? ああ、元盗賊には縁のない言葉だな。俺は俺のやり方で牛若さまを守っているんだ。なあ、牛若さま」
「盗賊だと……?」
弁慶は、さらなる衝撃に目を見開いた。天界の静寂を纏った主の傍らに、これほど俗悪で、無教養な男が居座っている。その事実が、弁慶の抱いた神聖な緊張感を、滑稽なものへと変えていく。
「……五条の大橋で拾った」
牛若が短く答えた。
拾った。その一言が、弁慶の胸に冷たい氷の粒を散らす。自分にとっては魂の転換点だったあの夜が、主にとっては路傍の石を拾う程度の出来事に過ぎなかったのか。
「拾った? そりゃまた、ずいぶんと物騒なものを拾いましたね。……まあいいや。とにかく合流しましょう。ほら、行きましょう、牛若さま!」
三郎は牛若の背中を、まるで弟を促すようにぽんと叩き、先導して歩き出した。その後ろ姿を見つめながら、弁慶は長刀の柄を、砕けんばかりに握りしめていた。
「……解せぬ」
弁慶の唇から、苦い呟きがこぼれた。自分は、少年のただ一人の家来になったつもりでいた。しかし、そこにはすでに、自分の知らぬ主の顔を知り、慣れ慣れしくその肌に触れる先客がいたのだ。
三郎という男の、あの泥臭くも密接な距離。弁慶の胸の底で、黒く、淀んだ思いが、音もなく起こり始めていた。
しばらく進むと、暗がりの先に、無数の馬の嘶きと、荷車が軋む音が聞こえてきた。松明の明かりが集まり、重い荷を背負った馬を連れた、商人一行の姿が浮かび上がる。
「牛若さま! この吉次、お探し申し上げておりましたぞ!」
一行の中から、立派な直垂を纏った商人風の男が駆け寄ってきた。吉次は安堵の表情を浮かべながらも、商人らしい鋭い目つきで牛若の無事を確認した。
「奥州の秀衡さまの元へ向かうにあたり、これ以上旅程を遅らせるわけにはまいりません。……して、そちらの御仁は?」
吉次の視線が、三郎の隣に立つ弁慶に注がれる。三郎が明るい声で、横から口を出した。
「橋の上で拾ったんだそうですよ、吉次さん。見てくださいよ、この身体。荷物持ちにはうってつけだと思いませんか?」
「……荷物持ちだと? 貴様、万死に値するぞ」
弁慶が殺気を込めて三郎を睨むと、吉次が慌てて割って入った。
「これ、三郎。失礼なことを申すな。……失礼、僧体とお見受けするが、牛若さまにご同行頂けるのであれば、不肖吉次、歓迎いたしますぞ」
吉次は弁慶の知性をたたえた双眸を見て、ただの荒法師ではないことを瞬時に見抜いたようだった。
弁慶は、三郎の軽口を耳にしながら、再び牛若の背に視線を戻した。
吉次も、三郎も、すでに主の周りに確かな居場所を持っている。自分はまだ、ただの「拾われた大男」に過ぎない。胸をざらつかせるような思いが、弁慶の中で静かに、だが確実に熱を帯びていった。




