第十九話 若武者の舞
「九郎さま!」
駿河次郎の絶叫が、轟音の渦巻く宇治川に響き渡っていた。
弁慶の視界の先で、牛若の華奢な身体が濁流へと呑まれようとしていく。
すでに何度も叫んでいる弁慶の声はとっくに水音にかき消されている。茶色い水面が牛若の兜を飲み込もうとしている。
「牛若さまっ……!」
弁慶は濁流に足を取られる馬を必死に操り、手を伸ばした。
届かない。遠い。あまりにも遠い。
弁慶の巨躯は水の抵抗をまともに受け、思うように前に進まない。もどかしさが全身を駆け巡り、血管が千切れそうだ。
(あの方を失うのか……! こんなところで……!)
嫌だ。あの華奢な身体を、この腕で抱き止めたい。ずぶ濡れになったあの身を、胸の中に閉じ込めたい。
もし、そのままこちらへ流されてくれば、この手を伸ばして――。
(来い……! こちらへ……!)
その時、水面から漆黒の濡れた髪がゆらりと浮き上がった。
兜の緒がちぎれ飛び、白い兜だけが木の葉のように流されていく。
「牛若さまぁ……!」
牛若の顔が露わになった。濡れた黒髪が、透き通った頬や首筋にへばりついている。牛若は手綱を握り直していた。必死に馬の首にしがみついている。
次の瞬間、牛若を乗せた馬が突然いななき、踏ん張ってみせた。
流木に打たれて均衡を崩していた馬が、四肢に力を込め、濁流の底を蹴って体勢を強引に立て直したのだ。
「見よ、忠信……!」
少し近くで馬を泳がせていた佐藤継信が、裏返りかけた声で叫んだ。
「立った……! あの流れの中で、馬が立ち上がったぞ!」
「兄者……あり得ぬ……!」
弟の忠信も息を呑む。
どう見ても不可能な復帰だった。だが、馬は主人の執念に感応したかのように、猛然と水をかき分けて進み始めた。
弁慶が伸ばしかけた手は、虚しく空を掴んだ。
その距離は縮まらない。牛若は弁慶の腕に収まることなく、自らの力で立ち上がってしまった。
「……兄上……!」
風に乗って、主の声が聞こえた気がした。
牛若は兜のない頭で、濡れた髪を振り乱しながら、ただ前だけを見ている。
「私が……一番に……! 兄上……!」
作戦もない。指示もない。ただ兄への思いだけを口にし、馬を岸へと進めている。
(牛若さまは……兄君のことしか見えておられない)
この地獄の濁流の中でも、弁慶の存在など眼中にない。見ているのは、鎌倉にいる頼朝の幻影だけだ。
「牛若さま! 生きてる……よかった……!」
なかなか馬を寄せられずにいる三郎が泣きそうな声で叫んだ。
あちこちから安堵の声が響く中、弁慶はただ黙って、遠ざかる主の背を見つめていた。
対岸では、先陣を争っていた佐々木高綱と梶原景季が、すでに陸へと乗り上げていた。
その直後、三番目の騎馬が、水飛沫を上げて岸へと駆け上がるのが見えた。全身ずぶ濡れの牛若は漆黒の髪が顔に張り付き、水が滴り続けている。
「義経さま!」
「義経さま、下がってください!」
高綱と景季が馬の体勢を整えて駆け寄ろうとする。後から四番手として畠山重忠が上陸し、迷うことなく牛若の前へと馬を入れた。
「義経さま、ここは我らにお任せを! 全力でお守りいたしまする!」
彼らの響きのよい声は、まだ上陸できていない弁慶にもよく聞こえる。
彼らは牛若の戦闘能力を知らない。華奢な身体、濡れた髪、憂いを帯びた瞳。守らねばならない儚い存在としか、見えていないのだろう。
その時、岸の奥から喊声が上がった。
木曾勢の軍が、陣形を整えて迫ってくる。渡河の混乱に乗じて反撃に出てきたのだ。
「小倅が来たか! 討ち取れ!」
敵将が声を張り上げる。
「義経さま! この重忠にお任せあれ!」
「景季が付いております!」
「先陣の高綱、命にかけてお守り申し上げます!」
とっさに三人が前に立ちはだかり牛若を庇おうとした。だが牛若は下がらない。馬を踏み台のようにして勢いよく飛び降り、ゆらりと太刀を抜いた。珍しく助け役なしで突如下馬された馬は、体勢を乱しながら心配そうにいなないた。
牛若の顔には――笑みはない。どこか遠く、ここではない場所を見ているような、憂いを帯びた瞳だ。
「兄上……!」
何度も繰り返した言葉。次の瞬間、牛若の姿は軽々と飛び上がり、敵兵の中へとしなやかに突っ込んだ。三人の御家人が悲鳴を上げる。弁慶は岸まであと少しだ。
牛若の太刀が旋風を描き、弁慶の視界をぼやけさせる。
これは舞だ。
五条の大橋の、あの夜と同じ。天界の稚児の舞だ。
「参ります……!」
牛若の透き通った大声で涼やかな風が吹いたかと思うと、先頭にいた敵兵たちが、見えない力に弾かれたように宙を舞った。
太刀の澄んだ音が響くのみだ。ずぶ濡れの牛若は漆黒の黒髪を揺らし、岸辺に花を散らしていた。
「兄上の敵は、全て去れ……!」
牛若は、ただ敵の中を軽やかに駆け抜け、優雅に飛翔する。太刀を振るっているというより、まるで扇子を優雅に翻すように、切っ先を流しているかのようだった。
その一振りごとに、敵兵が次々と薙ぎ倒され、花びらのように吹き飛んでいく。
牛若の血色の良い肌は、戦場の只中にあっても穢れを拒絶するように輝いている。
「ああ……」
高綱が、向かう敵を斬る手を止めて見惚れていた。
「なんと……美しい」
景季も、重忠も、凍りついたように動けないようだ。言葉を失い、ただ目の前の光景に魅入られている。
あの華奢な御方が。自分たちが守ろうとした儚い存在が、戦を美に変えてしまっている。弁慶はいつの間にか自分が岸に上がっていたことに気づいた。三郎や佐藤兄弟や駿河たちも、這う這うの体で続いてくる。
弁慶は、息を切らせながら牛若の舞を目に焼き付けていた。今すぐ駆け寄って主君を守らねばならないのに、身体が動かない。隣に三郎もいた。佐藤兄弟も駿河も来ていた。誰も動けない。
(……あの舞だ)
五条の大橋の、あの夜の。
弁慶だけが見ていたはずの、あの神業。
人智を超えた美しさが、今この戦場で、多くの男たちの目に晒されている。
弁慶の胸の内で、澱んだ感情が黒く広がる。
天界の稚児の神業は、自分だけのものだったはずだ。それを景季が、重忠が、高綱が、魂を奪われたような顔で牛若を見つめている。
それがたまらなく不愉快だった。
だが、弁慶はふと鼻を鳴らした。
(……いや)
違う。
今、奴らが見ているのは、遠くから「鑑賞」したものに過ぎない。
あの夜は一対一だった。互いの熱が伝わる距離だった。汗の匂いが伝わる距離だった。荒い息遣いが確かに聞こえたのだ。
そして何より、あの夜の牛若の瞳は、兄ではなく、弁慶だけを見ていた。
(……そうだ。あれは誰にも奪えまい)
弁慶は、さっき川の中で空を掴んだ自分の手を見た。
牛若を抱き止めることはできなかった。
だが、あの夜の濃密な空気だけは、ここにいる誰とも共有できない、弁慶だけのものだ。
(いつか……いつか、必ず)
牛若の舞に鼓舞された鎌倉武士たちが続き、木曾勢は総崩れとなった。
地獄絵図の渡河だったが、結果は圧勝だった。
勝鬨の声が上がる。
牛若は全身ずぶ濡れのまま天を仰いだ。
「兄上……勝ちました……」
その声は、熱っぽく、それでいて虚ろだった。
三郎が牛若の傍に駆け寄り、濡れた髪から水滴を払おうとする。
「牛若さま……すごいです……」
いつもの仕草だが、その手は少し震えていた。この男が盗賊として退治された時に見た牛若は、弁慶の見た牛若の足元にも及んでいなかったにちがいない。
戦場が落ち着きを取り戻し始めた頃、後方で渡河を終えた梶原景時の元に、先陣の御家人たちが集まっていた。全ての力を出し切った牛若は、少し離れたところで片膝をつき、遠くを潤んだ目で見つめていた。
景季が、紅潮した顔で父に詰め寄る。
「父上、ご覧になりましたか。義経さまの美しい舞を。あれが、父上の邪魔した作戦の結末です」
重忠も、静かな口調で言葉を紡ぐ。
「景時殿。帳面に書けるものだけが、この世の全てではありませぬ。義経さまのまとう風は、やはり我らとは異なっておられました。義経さまの作戦が、勝ったのです」
「まさに」
高綱がうっとりとした表情で続ける。
「義経さまの清き心が、我らを勝利へと導いて下さいました。景時殿の計算の届かぬ光が、戦場を輝かせたのですよ」
三郎も後ろで腕を組みながら、弁慶の後で「帳面じじい、牛若さまの邪魔ばっかりしやがって。ざまあみろ」と毒付いていた。佐藤兄弟はそれを笑って受け流し、駿河次郎はただ圧倒された、夢うつつの表情をしていた。
景時は、静かに彼らを見回した。
「義経殿の武勇は見事であった。それは認めよう」
表情は一切変えず、景時は淡々と言い放つ。
「だが、勝因は義経殿の武勇だけではない。敵が、すでに浮足立っていたからだ。今回はそれで勝てた。だが、次の敵が同じように弱いとは限らぬ。軍律なき突撃が通用するのは、相手が崩れている時だけだ」
戦勝の興奮に酔う若者たちへ水を差すような、冷ややかな口調だった。
高綱は憐れむような目で景時を見た。
「景時殿……あなたには、見えぬのだ。義経さまの瞳の奥にある、深い思いとその光が」
景季も続く。
「父上。義経さまは、兄君のために美しく舞っておられました。その純粋さが、勝利を呼んだのです」
重忠が締めくくる。
「景時殿。義経さまの風は、軍律では縛れぬ。あの憂いを帯びた瞳に、我らは従う。それが、武士というものです」
景時が何か言い返そうとした瞬間、重忠はさらに言葉を重ねた。
「義経さまが命を賭して道を切り拓かれたのだ。その高潔な御心を、軍律などという物差しで測ることは許されぬでしょう。我らは、これからも義経さまの風をお守り申し上げまする」
景時は、それ以上何も言わなかった。ただ深く息を吐き、感情の読めない瞳で義経の背中を一瞥しただけだった。
「これより」
牛若の声が静かに響いてきた。
「法皇様をお救いに参る」
牛若は濡れた黒髪をかき上げもせず、御所の方角を見据えている。
「義仲は、法皇様を幽閉していると聞く」
御家人たちの目はうっとりと牛若を見つめていた。そのことが、弁慶には誇らしく、それでいてむず痒かった。
「兄上のご命令は、都の奪還と法皇様の救出だった。急がねば」
牛若の言葉を受けて、鬨の声が上がった。いつの間にか景時と他の御家人たちの問答など、途切れてしまっていた。
弁慶は、三郎の助けで馬にまたがる牛若の背中を見つめていた。声をかけるのは後でよい。
兜のない濡れた後ろ姿に、弁慶の胸の中は黒くざわめいていた。
あの日、五条の橋で見た稚児は、いまや大勢の兵を魅了する若武者となっていた。
――牛若さま……あなたさまは今日、一人で立ち上がった。誰の手も借りずに、あの舞を皆の前で見せてしまった。だが、それでも。
(五条の大橋の夜は、俺だけのものだ)
あの距離は、あの汗の匂いは、あの息遣いは。
誰にも、奪わせない。
弁慶は、さっき空を掴んだ手を強く握りしめた。
(いつか……この腕で)
その決意を胸に、弁慶は馬を進めた。
「……どこまでも、お供いたします。……牛若さま……」
弁慶は、誰にも聞こえぬように、低い声でそっとつぶやいた。
川面を渡る風が、牛若の濡れた黒髪を揺らした。
京へ向かう軍列は、主の熱に浮かされたように速度を上げていく。弁慶もまた、その熱の中心にいる主を追いかけ、手綱を強く握り直した。




