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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
第二部 貴公子の乱舞

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第十八話 宇治川の先陣争い

 京へ続く街道を、騎馬武者の一団が進んでいく。


 武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)は、主である源義経(みなもとのよしつね)――牛若(うしわか)の背を斜め後ろから見つめながら馬を操っていた。


 牛若を中心に、伊勢三郎(いせさぶろう)佐藤継信(さとうつぐのぶ)忠信(ただのぶ)兄弟が続く。さらに弁慶の視界の端には、新しく従者として加わった駿河次郎(するがじろう)の姿があった。


「ご報告によれば、京の木曾義仲(きそよしなか)は略奪を繰り返し、朝廷や民の信を完全に失っているとのことです」


 駿河が馬を並べて説明した。


「兵糧不足で士気も低く、すでに敗色は濃厚。敵ながら哀れなほどですね」


 それを聞いた牛若は、前を見据えたまま頷いた。


「ならば、すぐに決着をつけねばならぬな。兄上も、早い報告を待っておられる」


 その声には、迷いも気負いもなかった。心なしか、以前より少しだけ勇ましい声だ。ただ、愛する兄のために一刻も早く吉報を届けたいという、純粋な渇望がある。


「へへっ、牛若さまの初陣ですよ。楽しみですねえ」


 三郎が軽口を叩いた。


「でも、無理はしないでくださいよ。怪我でもされたら俺たち発狂ですから」


 皆の笑みがこぼれる中、弁慶は何も言わずに主の背中を見つめていた。


 五条の大橋で見せた、あの人智を超えた身軽さ。あれから長い月日が流れている。


 奥州での平穏な日々、鎌倉での屈辱的な扱い。天界の稚児に、あの時の神業が残っているのか、弁慶には分からない。残っていなくても今の自分は構わない。


「義経さまの初陣、我らも見届けねばな」


「ああ、兄者。しっかりと目に焼き付けよう」


 継信と忠信が、緊張と期待の混じった声で囁き合う。


 弁慶より少し後ろでは、畠山重忠(はたけやましげただ)梶原景季(かじわらかげすえ)が真っ直ぐな眼差しで牛若を見つめていた。


「重忠。義経さまの初陣……我らも身を引き締めねばならんな」


「うむ景季。義経さまをお守りするのが、我ら御家人の務めです」


 駿河だけは、冷ややかな瞳で牛若の横顔を観察していた。




 一行はやがて木曾が守る宇治(うじ)川へと到着した。


「……なんと」


 誰もが息を呑んだ。

 目の前には死の境界線が横たわっていた。


 折からの雪解け水を含んだ川は増水し、どす黒い濁流となって渦を巻いている。轟音(ごうおん)を立てて流れる様は、巨大な龍がのたうち回っているようだ。橋板はすべて外され、骨組みだけの(けた)が残るのみ。


 水深は馬の腹から胸あたりまでありそうだ。流れが速く、一歩間違えば人馬ともに押し流されるだろう。


 対岸には木曾軍の陣が見えるが、旗指物は力なく垂れ、兵の数もまばらだ。


「どうやってこの川を越えよう……」


 牛若が馬上で呟いた。兜の下の整った眉根が、困ったように寄せられる。


「義経殿」


 後方の梶原景時(かじわらかげとき)が、馬上からよく響く低い声で言った。眉間には深い皺が刻まれている。


「事前の情報通り、敵はすでに死に体の様子。焦る必要はありませぬ。木材を集め、(いかだ)を組むのが良いでしょう。三日もあれば対岸へ渡り、敵を敗走させられるはず。無理に渡河して兵を損なうことなどありませぬ」


 その意見は論理的ではあった。


「……けっ、またあの帳面じじいか」


 三郎が小声で悪態をつく。すると、景時の息子である景季が父の方へ向き直る。


「父上、義経さまは今、懸命にお考えになっているのです。そのようにでしゃばっては失礼ではありませんか」


「でしゃばっているのはお前だ。わしは武人として当然の見解を話したまで」


「そうやって、何かにつけて義経さまに突っかかっておられるじゃありませんか。義経さまへの信頼が足りません」


「なんだと……!」


「ご子息の言う通りです」


 涼やかな顔立ちの若武者が馬を進み出た。


「義経様の思案しておられる瞳をご覧なされよ。なんと綺麗なことか」


「何を言っておられるのか……?」


 景時は突然の伏兵に動揺している。


「……誰だ、あの人は?」


 三郎が小声でぼやくと、駿河が「佐々木高綱(ささきたかつな)殿です」と静かに答える。


 高綱は牛若を穏やかに見つめていた。


「考える瞳は、お美しい。我々凡人には計り知れぬ深淵を見ておられることでしょう」


「ええ、まさに」


 重忠も透明な声で力強く加勢した。


「我々は義経さまのお心に従うのみ。景時殿のように、義経さまの澄んだ心を乱すのはいかなるものかと心得まする」


 重忠は穏やかだが綺麗に響く声で、そっと牛若に語りかけた。


「しかしながら……義経さまにとっては初めての戦。どうか、義経さまはここでお待ちくださいませ。川の流れが速いということは、敵が今ここに来る心配はないということ。義経さまはその美しい風をお守り頂くことが、将兵の希望となりまする」


「重忠の言うとおりだ!」


 景季が我が意を得たりと叫ぶ。


「我らが義経さまをお守りいたします!」


「ええ、義経さまが美しい風の中で濁った川を眺めておられる間に、我らが横から回って木曾を討ちまする」


 一斉に歓声が上がった。彼らは勝手に盛り上がり、牛若を安全地帯に置いておこうとしているのが弁慶には分かった。牛若のまとう風を尊んではいるようだが、戦闘力は期待していないようだ。五条の大橋で天界の稚児を観た弁慶としては歯痒い。


 牛若の表情は一向に晴れない。「待ちたくない」という本音が顔に出ている。


 その時、駿河次郎が動いた。彼は牛若の横に馬を寄せ、声を潜めて囁いた。


「九郎さま」


 その呼び名に牛若は慣れぬ様子で、肩が一瞬だけ揺れた。


「鎌倉殿も、九郎さまには無傷で、万全の状態で戻ってきてほしいと願っておられます」

 

 駿河は言葉を続ける。


「ここは焦らず、吉報を確実に届けるべきかと。鎌倉殿は九郎さまからの良き知らせを待っておられます」


 その話し方や仕草は、どういうわけか鎌倉の頼朝に似た部分があった。その言葉を聞いた瞬間、牛若の顔がぱっと輝いた。


「そうか、兄上は待っておられるのか」


 牛若の口元に無邪気な笑みが浮かぶ。形の整った口から、すぐに次の言葉が発された。


「ならば……この川の中を真っ直ぐ進むのが、最も戦を早く終わらせる方法だな」


「は……?」


 駿河が目を白黒させて沈黙した。


「義経殿。それは作戦ではなく、自殺行為ですぞ」


 景時が帳面を叩くように厳しく言ったが、歓声の方はさらに大きくなる。


「父上は黙っておられよ。この増水した川でも、義経さまの輝きは変わらぬ!」


「景季殿の言う通り。この川で義経さまの光が霞むことはあるまい!」


「景時殿は義経さまの風の美しさをご存じない。私は謹んで従いまする!」


 将兵たちの間から、割れんばかりの(とき)の声が上がった。


「九郎さま、あの……」


 駿河が遠慮がちに諌めようとするが、牛若はもう聞いていない。


 弁慶は黙って主を見つめていた。胸の内で、期待と不安が激しくせめぎ合う。


(あの御方は、五条の大橋のように戦えるのか? 天界の稚児の身体さばきは……?)


 三郎もまた、じっと牛若を見つめている。その手にはじっとりと汗が滲んでいる。弁慶の体内にも武者震いが起きた。


 その時だった。


「行くぞ!」


 牛若は叫ぶと同時に、躊躇なく馬を濁流へと躍らせた。誰も予想していなかった単騎突撃だ。


「兄上、参ります……! この九郎が、勝利を兄上に捧げます……!」


 牛若は熱に浮かされたように叫び、飛沫を上げながら突進していた。


「牛若さま、待たれよ……!」


 弁慶は色を失った。あの華奢な身体が、馬ごと濁流に飲み込まれる光景が脳裏をよぎる。


(……あの神業が、まだ残っているのかっ……?)


「おい、牛若さまって、泳げたっけ……!」


 三郎が絶叫していた。


「いや、奥州では浜辺で月を眺めてただけだぞ……!」


「まずいな忠信……!」


「兄者、たいへんなことになった!」


 継信と忠信も慌てふためきながら、脇目も振らず馬を強引に進める。


「義経さまをお守りせねば!」


「俺が先陣を切る!」


 景季と高綱が叫んだのをきっかけに、皆が一斉に馬を川へ飛び込ませた。敵が牛若の異常行動に気付き矢を浴びせてくるのを、男たちは牛若を死なせまいと必死に太刀で薙ぎ払う。


 宇治川は、一瞬にして阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄絵図と化していた。


「我が名は梶原景季! 我が馬は磨墨(するすみ)! 鎌倉殿より拝領した名馬である! 誰にも後れはとらぬ!」


「我が馬もまた名馬生食(いけづき)なり! この先陣、佐々木高綱がもらった!」


 景季と高綱が我先にと先陣争いを繰り広げた。二人の馬が水飛沫を上げて牛若に迫る。


 その少し後ろで、畠山重忠も馬を一気に進めていた。


「義経さま、お待ちを!」


 彼は先陣争いには加わらず、荒れ狂う波を巧みな手綱さばきでいなし、義経の背を守るべく、美しい軌跡を描いて濁流を切り裂いていく。


「牛若さま! 待ってくれ!」


 三郎も死に物狂いで馬を叩く。


「義経さまをお守りせねば!」


「兄者、急げ!」


 佐藤兄弟も必死に続く。


 だが、弁慶はあいにく遅れていた。その巨躯が災いした。水の抵抗をまともに受け、馬が思うように進まないのだ。


(天界の稚児よ……!)


 主のために必死に手綱を操るが、牛若の背中は遠ざかるばかり。胸が張り裂けそうになる。


 近くの駿河も悲惨だった。ずぶ濡れになりながら、必死に馬の首にしがみつく。流木が肩を打ち据えていた。


「待て! 待たんか!」


 後方で景時が立ち上がり、声を荒らげている。


「貴様ら、軍律を守れ!」


 だが、その声は轟音にかき消され、誰の耳にも届かない。


 濁流は容赦なく彼らを襲う。水深は馬の胸まで達し、泥水が顔を打ちつける。流木が巨大な槍のように飛来し、馬がいななく。


 男たちは我を忘れ、牛若の華奢な身体を敵から守ろうと必死になっていた。正気を失っているのが弁慶には分かった。牛若に必死に追いつこうとする弁慶も心臓が破裂しそうだった。


「……兄上……!」


 牛若は馬ごと流されそうになりながらも、先頭をなんとか真っ直ぐ進み続けていた。


 華奢な身体に重い鎧兜を纏い、それでも兄への思いだけで必死に前進を続けているのが弁慶には見えた。泳げるかどうかも怪しいのに、気にする様子もない。


「兄上……! 必ずやお役に立ってみせます! 必ずや、この九郎が……!」


「義経さま、待たれよ!」


「先陣はこちらが!」


 景季と高綱が必死に追いすがる。三郎も継信たちも必死だ。


「牛若さま……! 死なないでくれっ!」


「義経さまぁ!」


「兄者、もっと急がねば……!」


 弁慶は水をかき分けながら、祈るような思いで主を見つめていた。


(あの御方は……神業が……まだ……)


 横の駿河は泥水を吐き出しながら、信じられないものを見る目で前方を見ていた。


 その時、川の中ほどで牛若の馬の動きが止まった。


 巨大な流木が、横から牛若の馬めがけて押し寄せたのだ。


 どすんと鈍い音が響いた。馬が悲鳴を上げ、大きく体勢を崩した。牛若の華奢な身体が、ぐらりと傾く。


「あっ……」


 牛若の手から手綱が離れた。五条の大橋で見せた、あの均衡感覚は水の上では発動していなかった。天界の稚児は濁流に呑まれようとしていた。


「牛若さまぁぁ!」


 弁慶が絶叫した。だがその手は届かない。


「牛若さまぁぁぁ!」


 三郎の悲鳴も重なる。


「義経さま!」


「しまった!」


 継信と忠信も色を失う。


「義経さま!」


「まずい!」


 景季と高綱も慌てて振り返る。


「義経さま! どうかお待ちを!」


 重忠の叫びも濁流に虚しく消える。


 牛若の兜が、茶色い濁流へと傾いていく。誰も間に合わない。


「九郎さまー!」


 その場の狂乱が伝染したかのように、駿河の絶叫が川面に響いた。

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