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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
第一部 渇望の深淵

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第十七話 兄の望み

 泥濘(ぬかるみ)の時から月日が流れていた。


 鎌倉の山々を彩っていた紅葉は枯れ落ち、吹き抜ける風には冬の匂いが混じり始めている。


 若宮上棟式での一件以来、牛若は表面上、いつも通りに振る舞っていた。寺での生活にも慣れた様子だ。三郎のくだらない冗談に笑い、佐藤兄弟と稽古に励み、夜には弁慶の傍らで穏やかな寝息を立てる。


 だが、弁慶には分かる。主の笑顔が、どこか薄い膜を一枚隔てたように見えることを。


 夜半ふと目を覚ますと、牛若が布団から上半身を起こし、障子越しに月を見上げていることがある。その横顔に浮かぶのは、捨てられた子供のような心細さだ。稽古の合間、ふと手を止めて遠くを見つめる瞬間がある。三郎が声をかけても、一拍遅れて我に返る。


 弁慶は、その度に己の無力さを噛みしめる。主の心の傷に、触れることも癒すこともできない。ただ見守ることしかできぬ自分が、ひどく歯痒(はがゆ)い。


 あの時、頼朝に放たれた「甘えるな」という一言。己の無知ゆえに兄を失望させてしまったのではないかという恐怖が、見えない棘となって深く突き刺さっているにちがいない。


 三郎などは「気にしなくていいですよ」と軽口を叩くが、冷徹な頼朝にはこの繊細な弟の傷など想像もつくまい。


 そんなある日、頼朝の御所から使いが来た。


「鎌倉殿が、九郎殿と(かば)殿をお呼びである」


 その報せを聞いた瞬間、牛若の顔がぱっと輝いた。弁慶はそのあまりに無防備な喜びように、胸が締め付けられる思いがした。


(また期待して、また傷つくのではないか)


 そんな予感が、弁慶の胸を冷たく撫でる。だが、主はそんな危惧など露ほども抱かず、まるで恋人に呼ばれた娘のように慌てて身支度を整える。その姿を見ていると、弁慶は自分の心配がまるで杞憂のように思えてくる。いや、杞憂であってほしいと願わずにはいられない。


 弁慶は三郎と二人で道中を護衛することに決めた。




 鎌倉殿の御所、その天井裏。闇に紛れ、弁慶と伊勢三郎は(はり)の上に身を潜めていた。


「……けっ、埃っぽいな。掃除が行き届いてねえぞ」


 三郎が鼻をすする真似をして、小声で悪態をつく。天井板の隙間から差し込むわずかな光だけが頼りだ。


 梁は思いのほか細く、体重をかけると軋む。じっと動かずにいると、背中に這い上がってくる虫の感触がある。息苦しいが、かつて盗賊として鳴らしたこの男にとって、鎌倉の警備をかいくぐるなど、軒下をまたぐ程度の雑事らしい。


「静かにしろ。……始まるぞ」


 弁慶が鋭く囁くと、三郎はにやりと笑って口をつぐんだ。天井板の隙間に顔を寄せ、眼下を覗き込む。


 眼下の謁見の間には、すでに三人の男が揃っていた。


 上座に頼朝。下座に牛若と、蒲冠者(かばのかじゃ)範頼。


 牛若は緊張で背筋を伸ばし、上目遣いで兄の顔色を窺っている。叱られた後の子供が、親の機嫌を確かめるような目だ。対照的に範頼は、相変わらずぼんやりとした表情で、何を考えているのか読めない。


 頼朝は、先日の上棟式での件には触れず、静かな声で切り出した。


「範頼、九郎。二人に大事な役目を命じる」


 牛若の背中が、微かに震えるのを弁慶は見た。期待と緊張が入り混じった、主のこういう時特有の震えだ。


 頼朝は一拍、間を置いた。その間合いが、妙に長い。牛若のような直情さがまるでない。何かを言おうとして、あえて言葉を飲み込んでいるようにも見える。弁慶は天井裏で眉をひそめた。


「上洛し、都を荒らす木曾義仲(きそよしなか)を討て。範頼は瀬田(せた)を、九郎は宇治(うじ)を攻めよ」


(範頼が大手で、牛若さまが搦手(からめて)か。お年の序列上、仕方あるまい)


 弁慶はそう納得しようとした。


「……はい」


 牛若の声は、かすかに上ずっていた。大将軍の座を与えられなかったことへの落胆か、それとも初めて与えられた実戦への緊張か。


「その木曾という者、どのような賊なのでしょうか」


 牛若の問いに、頼朝が怪訝そうに眉を寄せる。


「九郎。お前……平家はどうなったと思っておる?」


「は……? 平家は都におりましょう。私は兄上のために、平家を討ちに行くのでは……」


 牛若はきょとんとしている。


 弁慶は天井裏で天を仰いだ。見すぼらしい寺にずっと放置されていた牛若一行に、中央の情勢など何も伝わっていなかった。牛若はこの兄に会うために駆けつけ、兄のことばかり考えて過ごしていたのだ。世の移ろいなど眼中になかったはずだ。


「……平家はすでに都を落ちた」


 頼朝が、半ば呆れたように、しかし努めて冷静に告げた。


「戦に敗れた平家一門は安徳帝(あんとくてい)を擁して西国へ逃げた。今の都を支配しているのは、信濃(しなの)源氏の木曾義仲だ」


「なんと……」


 牛若は絶句している。兄のために平家を倒すつもりでいたら、敵が変わっていたのだ。


 すると、それまで地蔵のように黙っていた範頼が、思い出したように口を開いた。


「そういえば、義仲殿は都で『朝日(あさひ)将軍』などと呼ばれておるそうですな。日の出の勢いとか。我らと同じ源氏を討つことになるとは、何とも残念なことで」


 のんびりとした口調だが、その言葉は牛若の胸に鋭く刺さったようだ。範頼は、弟の動揺など意に介さず、ぼんやりと宙を見つめている。


(あの男には悪意がない。だからこそ、その無邪気な一言が、牛若さまの心をえぐるのだ)


「同じ……源氏を、討つのですか」


 牛若の唇がわなないた。牛若にとって、源氏とは一人一人が血を分けた肉親であり、絶対的な正義の象徴なのだろう。


 動揺する牛若に、頼朝はゆっくりと立ち上がり、そっと歩み寄った。その動作は流れるように美しい。牛若の前に膝をつき、その震える両手をそっと包み込む。


 弁慶は息を呑んだ。頼朝の手が、牛若の手を包む――その仕草があまりにも優しく、しかし自然には見えない。胸の奥にどんよりとした不快感が広がる。


「辛い役目かもしれぬな、九郎」


 その声は、驚くほど優しく、甘い。頼朝は牛若の瞳を覗き込む。声を落とし、まるで秘密を打ち明けるかのように、静かに、だが確かに言葉を紡ぐ。


「だからこそ、これは他の者には任せられぬ。兄弟のそなたや範頼にしか指揮はとれぬ。他人には分からぬ血の痛みだ。……私と、血を分けたお前たちにしか頼めぬのだ」


 弁慶は、牛若の身体がぴくりと跳ねるのを見た。


(「お前たちにしか頼めぬ」――あの御方が、どれほどその言葉を待ち望んでいたか。俺には痛いほど分かる。兄に必要とされること。それが牛若さまにとって、何よりの救いなのだ……)


 だが同時に、弁慶は頼朝の不自然さに違和感を覚えていた。牛若のように喜怒哀楽が顔に出ることもなく、範頼のように何も考えていない風でもない。冷徹さを今日は封印し、ただ淡々と、しかし優しげに言葉を紡ぐ。そのさまが、弁慶の目には奇妙に映った。


「兄上……」


 牛若の瞳が潤む。先ほどまでの怯えは、すでに「歓喜」へと塗り替えられつつある。頼朝の言葉が、牛若の心に甘い毒のように染み込んでいく。弁慶は、それをただ見守ることしかできない。


「私の代わりになれるのは、九郎、お前だけだ。私の手となり、正しき源氏の世を作ってくれ」


 頼朝の手が、牛若の細い肩を抱き寄せる。その手にさほど力は入っていなさそうだが、その柔らかさこそが、牛若を完全に絡め取るのだ。


「はい……はい、兄上! この命に代えても!」


 牛若は感極まったように、兄の袖に額を押し付けた。同族殺しへの本能的な忌避感など、兄からの抱擁ひとつで霧散してしまった様子だ。


 範頼はただ微笑して二人を眺めている。その表情には何の感情も浮かんでいない。まるで、遠い世界の出来事を見ているかのようだ。


 弁慶は歯噛みしながら、その光景を見つめていた。


(なんとも、妙な感覚であるな)


 弁慶は己の感情の正体を探ろうとするが、うまく言葉にならない。怒りか。嫉妬か。それとも、諦めか。


 純粋な弟に身内殺しを命じておきながら、あたかも愛を与えるかのように振る舞う。これは呪いだ。牛若の心に、消えぬ楔を打ち込んでいるのだ。そして牛若は、その呪いを愛だと信じて疑わない。


 弁慶の拳が、知らず知らずのうちに握りしめられていた。爪が掌に食い込む。だが、その痛みすら、今の弁慶には遠い。


 頼朝が手を叩くと、襖の向こうから一人の男が現れた。中背だが姿勢が良く、所作に無駄がない。


「九郎の軍に、この者をつける。駿河次郎(するがじろう)、これまでは私が使っていた者だ。郎党に加えるように」


「お初にお目にかかります、九郎さま。駿河次郎と申します」


 男が丁寧に頭を下げると、牛若の目にわずかな動揺が宿った。「九郎さま」という呼び名は弁慶たちが初めて聞く響きだ。声は柔らかいが、どこまでも平坦だ。


 駿河の年の頃は三十を少し過ぎたあたりか。顔立ちは整っているが、目立った特徴がない。口元には微笑が浮かんでいるが、それは習慣によるもので、心からの笑みではなさそうだ。


「へえ、優男(やさおとこ)じゃねえか」


 天井裏で、三郎が小声で評した。


「だがあの目、笑ってねえな。……品定めしてやがる」


「……ああ」


 弁慶も同意した。


 駿河はにこりと笑っているが、その瞳は冷徹に、観察対象としての牛若を見定めている。佐藤兄弟のようにうまくはいかないにちがいない。




 寺へ戻る牛若の足取りは軽やかだった。


「兄上が、私に大事な役目を任せてくださった」


 牛若は興奮気味に語る。その頬は紅潮し、目は綺麗に輝いている。後ろに控える駿河次郎は、影のように気配を消していた。


 牛若は先を歩き、弁慶と三郎がその後ろに続く。駿河はさらにその後ろを、一定の距離を保って歩いている。


 駿河がふと、独り言のように静かな声を発した。


「……しかし、因果なお役目ですな。同じ源氏の血を引く者を討てとは」


 それは同情のようでもあったが、頼朝の郎党だった人間の言葉として見ると複雑な言葉だ。


 牛若はきょとんとして振り返った。


「因果? なぜだ?」


 その瞳には、一点の曇りもなかった。


「兄上がそう望まれたのだ。ならば、それが源氏にとっての正義だろう。私が兄上の手足となり、その正義を成す。これ以上の誉れはない」


 一瞬、駿河の表情が強張ったのを弁慶は見逃さなかった。


 常人ならば抱くはずの葛藤や迷いがない。兄が黒と言えば白も黒になる。その純粋すぎる心に、この男は初めて「異物」を感じたのだろう。


(……駿河よ。お前の物差しでは、この御方は測れまい)


 弁慶は暗い優越感を込めて、駿河の背中を見つめた。


 自分だけが、牛若の本質を理解している。自分だけが、あの危うい純粋さを受け止められる。その確信が、弁慶の胸に重く、熱く沈殿していく。それは黒い誇りだった。




 翌朝、牛若と範頼の軍勢は西へ向けて出発した。


 空は高く晴れ渡っていた。馬の嘶きが響き、鎧の金具が朝日を反射してきらめく。兵たちの掛け声が、冷たい空気を震わせる。出陣の喧騒の中で、牛若だけが静かに馬上にいた。


 だが頼朝は見送りには来なかった。


 牛若は何度も馬上で振り返り、御所の方角を見つめていたが、やがて諦めたように前を向いた。その肩が、わずかに落ちるのを弁慶は見た。


 その背中は、見送られなかった寂しさと、「次は必ず兄上を喜ばせてみせる」という悲痛な決意で張り詰めていた。


 弁慶は、己の長刀を握りしめた。


(いよいよ戦だ。主を守る。どんな戦場でも、どんな敵からも。そして、牛若さまの純粋さからも――守れるものなら)


 だが、それが叶うのは難しいにちがいない。胸の奥で、諦めと執着が複雑に絡み合っていた。

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