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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
第一部 渇望の深淵

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第十六話 泥濘の儀

 範頼との奇妙な邂逅(かいこう)から、かなりの時が流れていた。


 その間、建設途上でもある鎌倉殿の御所からは何の音沙汰もなかった。


 まるで兄弟の情など初めから存在しなかったかのような静寂が続き、このまま飼い殺しにされるのかと誰もが思い始めた頃、ようやく使いの者が現れた。


 だが、その口上は、牛若が待ち望んだ「兄弟水入らずの対面」などではなかった。


 鶴岡八幡宮つるがおかはちまんぐう若宮(わかみや)上棟式(じょうとうしき)。その神事への参列を命じる、事務的な通達であった。


 それでも、牛若は浮き立った。使いの言葉の端々に自分の名が出ただけで、強飯(こわいい)を食べながら目を潤ませたことなど忘れたかのように、まるで(わらべ)のように表情を輝かせたのだ。


「ようやく兄上の役に立てる」


 そう呟き、念入りに身支度を整えて出かけていく主君の背中を、弁慶は複雑な思いで見送った。あまりに健気で、それゆえに危うい背中だった。




 若宮の骨組みの完成を記念した、厳かな神事は滞りなく終了していた。


 新造された社殿の回廊の一番奥には棟梁の源頼朝がいる。奥の方はなかなかよく見えない。鎌倉の重鎮たちが上座に並んでいるのだろう。牛若と範頼は、そこから少し下がった位置に控えていた。


 弁慶、三郎、そして佐藤兄弟は、一般の御家人や見物人に混じり、遥か後方の雑踏から主君の晴れ舞台を見守っていた。


「……げっ、上座に帳面ジジイがいやがる」


 視力の良い三郎が顔をしかめ、忌々しげに小声で毒づく。


「おい、あいつこっち見もしねえぞ」

 弁慶が視線を向けてみると、確かに上座の梶原景時は、眼下で行われている儀式になど興味がないかのように、手元の帳面に目を落とし、筆先で何かを確認し続けている。


 この男にとって、今日の儀式もまた、処理すべき膨大な業務の一つに過ぎないのだろう。その冷徹な仕事ぶりは、いっそ清々しいほどだ。


「しっ、声が高い。……お、あちらには畠山殿もおられるな」


 継信がたしなめつつ、視線で示した先には、あの清廉な武者が控えていた。


「おお、重忠さんか。あの人はちゃんと話が通じるから安心だ」


 三郎の表情が少し緩む。


 だが、弁慶の目は主君の姿から離れない。


「……牛若さまの背中が固い。久方ぶりの兄君の前で、粗相があってはならぬと必死なのだろう」


 その緊張は、遠く離れたこの場所まで伝わってくるようだった。


 不意に、上座の頼朝が立ち上がった。


 朗々たる声で若宮の完成を祝い、大工の棟梁たちへの褒美として、自身の(うまや)から馬二頭を引出物として与えることを宣言する。


 そして、頼朝は低い声で指名した。


「……範頼、九郎。その馬を引いて、大工に取らせよ」


 名を呼ばれた瞬間、牛若の顔がぱっと輝くのが、遠目にも分かった。兄上が私をご指名くださった、そういう表情であり、役目を与えられたことへの無垢な歓喜だろう。


 だがその直後、牛若の表情が凍りつくのを弁慶は見逃さなかった。


「おい、なんでそんな雑用を弟に……?」


 隣で三郎がぼやいている。


「源氏の棟梁の弟にそんな雑用をやらせるなんてひどいじゃねえか。……またあの帳面じじいの差し金かよ」


 三郎は早速景時のいる方角を睨んでいるが、どうすることもできない。


 まず動いたのは、範頼だった。


 もっさりとした動作ながら迷いなく立ち上がる。そこには躊躇も、御曹司としての矜持(きょうじ)による葛藤もない。


 その補佐として、一人の若武者が静かに進み出ていた。梶原景季(かげすえ)――景時の嫡男だ。


 弁慶は目を細めた。景季が、手綱を取る直前、上座にいる父の景時の方をきっと睨みつけたように見えたからだ。その瞳には、侮蔑に近い色が混じっている。


(……あれは……牛若さまや範頼殿へのお役目を、父である景時の謀略だと思い込んでおるな。息子にすら疎まれるとは、景時も因果な男よ)


 一方の景時は、息子の鋭い視線など気づきもせず、まだ帳面を見ている。


 範頼と景季は、互いに目配せ一つで連携した。


 神社の境内とはいえ、完成直後の地面は最近の天候の影響もあり泥濘(ぬかる)んでいる。だが二人は、足元の泥も気にせず、事務的に馬を引いていく。そこには正確な作業があるだけだった。景季は黄瀬川での軍議の時のような熱さは微塵もない。


 一方、牛若はまだ何も動けておらず、固まったままだ。


 どういうわけか顔は不安な子どものように青ざめ、向こうの立派な馬を見やったまま、足がすくんでいる。


 頼朝が怪訝そうに眉をひそめた。


「どうした、九郎」


 その問い詰めるような口調に対し、牛若は必死に声を絞り出した。


「……あの、兄上。牽馬(ひきうま)の役は、雑色(ぞうしき)の仕事ではないでしょうか……。私には、できませぬ」


 なぜかごくりと唾をのみ込んだ様子で、揺れた吐息が漏れた。


「それに……口取りの役もいません」


 牛若の透き通った声で紡ぎ出された言葉に、場が静まり返った。


 やがて、御家人たちの間から困惑のさざ波が広がり始めるのが弁慶には分かった。それは牛若が公の場で「鎌倉殿」に口答えをしたという事実への戸惑いだった。


 だが、牛若から遠い距離にいる弁慶たちの戦慄は、そんな次元のものではなかった。


「……おい、まずいぞ。周りの風が変わっちまったじゃねえか。牛若さま……なんであんな返事を……?」


 三郎が焦燥を滲ませる。弁慶も疑問だった。いつも下々の者に優しい牛若が、珍しく身分の差を自分から言ったように聞こえるからだ。だが三郎はすぐにあっ、と何かに思い至ったようだ。


「そういえば……奥州でも馬の稽古はやってたが、馬装や手入れ、徒歩で移動する際の手綱引きは秀衡じいさんの馬屋番(うまやばん)がほぼやっていたな。都からの道中は俺が全部やっていたし……」


「あ、なるほどであるな」


 弁慶はすぐに合点がいった。継信も困ったようにため息をつく。


「それなら、あの『雑色の仕事』というのは、義経さまにとっては事実です」


 自分の額を指先で叩いて付け加えた。


「それに奥州からの道中は、いつも我らがお手伝い申し上げていたような……」


 忠信も青ざめて頷く。


「そうだ兄者。義経さまが馬に乗る時は、いつも我らのどちらかが手綱を押さえて踏み台になり、降りる時も抱えて降ろしていた」


 弁慶は呻いた。全く思いも寄らないことだった。


「……つまり牛若さまは、馬に乗って駆けることはできても、『地上に立って馬を制御し、泥道を歩かせる』作法をご存じないのだな」


 いや、さすがに全く何も知らないということはないかもしれないが、今までずっと忠実な(しもべ)がそばに控えていたせいで、一人でやったことは一度もないにちがいない。


 それは、頼朝の与えた任務が雑色のすべき仕事かどうか、という問題ではない。


 一人で扱ったことのない巨躯の獣を、たった一人で御せと兄に言われた者の、切実な困惑と怖れなのだ。


「まずいぞこりゃ」


 三郎の声に焦りが滲む。


「牛若さまが本当に言いたかったのは、やり方を知らないので無理ですってことかよ……」


 せっかく兄から与えられた任務なのに、どうしたら良いか分からず、一人窮地に立たされてしまっているのだ。


「まずすぎる……! 牛若さまは『やり方知らねえから無理』って言ってるだけなのに、言葉選びが綺麗すぎて、まるでわがままみたいに聞こえちまう。また帳面じじいの思う壺だ……!」


 三郎が頭を抱える。だが、ここからでは助け船を出すこともできない。




「甘えるな」


 頼朝の声が、一段低くなった。


「九郎の補佐など、造作もない」


 吐き捨てるような言い方に、牛若が背筋をびくつかせたのが弁慶には分かった。


「義経殿」


 清らかな声ととともに、颯爽と一人の男が進み出た。あの畠山重忠だ。


 弁慶には重忠の表情が遠くからでも見えた。


 牛若の怯えた姿を見て、重忠は何か義憤に駆られたような顔をした。景時の方角を冷たく見据える。おそらく、「これは景時殿から義経さまへの陰湿な嫌がらせにちがいない」と確信し、使命感に燃えているのだろう。


 重忠は牛若の前に跪き、さわやかな笑顔を向けた。


「九郎殿、ご安心を。この重忠がお供いたします」


 その態度は実に清々しい。


「……重忠さんでよかった、あの人はちゃんと話が通じる」


 三郎がほっと胸を撫で下ろす。


「助かりましたね。あの人がついていれば……」


「とりあえず馬に蹴られる心配はなさそうだ」


 佐藤兄弟も安堵の息を吐いた。


 牛若の表情が一気に緩んだ。「自分の知っている重忠殿が助けてくれる」という安心感が、その顔にありありと浮かんでいる。


 牛若は素直に頷き、躊躇なく泥濘(ぬかるみ)の中へ歩みを進めた。


 重忠ががっちりと手綱を制御し、牛若を導く。


 重忠の端整な横顔と、牛若の儚げな優美さが目に入る。二人が泥を上げながら寄り添って馬を引く姿は、絵巻物のような美しさを放ち始めていた。御家人たちのざわめきが、次第に妙なため息へと変わっていく。


 頼朝の不本意そうな吐息がこちらまで聞こえてくるようだ。弟にけじめをつけるつもりが、なにやら美しい儀式になってしまったからだ。その横で景時は、まだ帳面を見ている。




 どうにか大工に馬を渡し終え、牛若が戻ってきた。


 だが、その姿に先ほどの「美しさ」はなく、覇気も消え失せていた。


 泥で汚れた直垂のまま、濡れた子犬のように小さくなり、上目遣いで頼朝の顔色を窺っている。


 その瞳は、言葉にならぬ問いかけを繰り返している。弁慶にはすぐに分かった。


 兄上、私はうまくできましたか……? もう怒っていませんか……? 牛若はそう言いたいにちがいない。


 その悲痛な姿を見つめ、弁慶は独りごちた。


 世間はさっきの牛若の言動を「気位の高い御曹司」と噂するだろう。


 だが、真実は違う。あの方には武士の面子などない。あるのは兄の愛を乞う、子供のような本能だけだ。だから、やり方も知らぬ泥仕事を、ただ兄に言われたからというだけで、泥に汚れながらやり遂げたのだ。


(なんと哀れで、不器用で……狂おしいのか)


 主君の切実な思い。その心の無垢な歪み。


 それを自分だけが正しく理解しているという事実に、弁慶はまた暗い優越感を噛み締めていた。

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