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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
第一部 渇望の深淵

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第十五話 穏やかなる異物

 景時が去ってから数日が過ぎた。


 頼朝からの呼び出しは一向に来ない。


 その間、一行の口に入るものといえば、この古びた寺の住職が運んでくる、湯気の立った強飯(こわいい)と、塩辛い汁物だけだった。


「……固いな」


 牛若は、箸先で強飯をつつきながら、不満げに眉を寄せた。


「奥州の館や、吉次の屋敷や、幼すぎる頃に母上のいた京で食した、ふっくらとした姫飯(ひめいい)とはまるで違う。兄上たちは、いつもこのような喉に詰まるものを食べておられるのか……」


「盗賊の期間が長かった俺はまあ慣れてますけど、こんなの、俺たちの牛若さまが口にすべきものじゃないですよね。白い歯に傷がつかないように気をつけてください」


「奥州武士の我々には別に普通の味だが……?」


「兄者、義経さま一行の平泉でのご待遇をお忘れですか。ははは、しかし同じ強飯でも、鎌倉のやつがずっと貧相ではある」


 弁慶が静かに食事を続ける中、三郎も佐藤兄弟も、不恰好な強飯を冷ややかな目で口に運びながら、牛若の方を心配そうに見つめている。平泉という黄金の楽土で、秀衡に愛玩品のように大切にされた牛若の舌には、坂東武者の主食である強飯は、あまりに無粋で粗野なものに感じられるのだろう。


 本来であれば、こちらから使いを出して、頼朝の様子を伺うべきなのかもしれない。だが、弁慶の目から見ても、牛若や他の従者たちが自分から動く気配は微塵もなかった。


 牛若は、ただ静かに座して待っている。


 その姿は、迎えの輿(こし)が来るのを疑わぬ貴人のそれだった。黄瀬川であれほど涙を流して手を取り合った兄なのだから、向こうから迎えが来て当然だ――言葉には出さずとも、その奥ゆかしくも強固な自負が、この(かび)臭い寺の空気を支配している。


 弁慶は、それが鎌倉という武人の都では通用せぬ「甘え」であることをうっすらと理解しつつあった。だが、それをわざわざ口にして、主君の矜持(きょうじ)に水を差す気にはなれなかった。どうせ言ったところで、三郎あたりが「弟さまなんだから当たり前だろ」と騒ぎ立てるにちがいない。


「……兄上は」


 牛若が、膝の上で拳を握りしめる。


「兄上は、私を忘れてしまったのだろうか」


 その瞳が、また静かにうっすらと潤み始める。三郎が一番にぎょっとし、三郎の焦りが佐藤兄弟に伝染する。ここ数日、何度繰り返されたか分からない光景だ。


 弁慶は、主君のその脆さを愛おしく思いながらも、同時に鎌倉という巨大な他者への苛立ちを静かに募らせていた。


 弁慶が牛若を控えめに慰めようと、そっと手を伸ばしかけた、その時だった。


 入り口に、いつの間にか男が立っていた。


 門もない、朽ちかけた入り口である。誰かが通れば気配で分かるはずだった。


 だが、その男は音もなく、風が吹き込むように、いつの間にかそこにいた。


 弁慶と三郎が同時に反応して身構える。


 男には殺気がない。


 あまりに気配が希薄で、害意が皆無だからこそ、野性の勘を持つ弁慶たちでさえ、視界に入るまで気づけなかったのだ。


(……何奴だ?)


 弁慶は男を凝視した。


 直垂(ひたたれ)は色褪せ、所々の生地が薄くなっている。動作も緩慢で、ひどくもっさりとしていた。


 だが、奇妙なことに、その立ち姿には一点の歪みもなかった。


 どれほど粗末な身なりをしていても、背筋は自然に伸び、首筋から肩にかけての線には、育ちの良い者だけが持つ特有の品格が滲んでいる。


 ただの田舎侍ではない。だが、武人としての覇気も感じられない。


 男は、警戒する弁慶たちを見ても動じることなく、牛若の前に立つと、人懐っこい、しかしどこか力の抜けた笑顔を見せた。


「九郎殿」


 男は、親しげに、しかし礼儀正しくその名を呼びかけた。


「……ああ、やはり近くで見ると、光が見えるな」


 牛若が怪訝な顔で目をごしごしとこする。


「誰だ。私を九郎と呼ぶのか」


 牛若にとって、「九郎」は兄頼朝だけが使う特別な呼び名のはずだった。


「おお、これは失礼つかまつった」


 男はゆったりと頭を下げた。


「申し遅れた。わしの名は蒲冠者範頼(かばのかじゃのりより)。みんなはカバ殿と呼びおる。そなたのもう一人の兄じゃ」


「あ、兄……?」


「いかにも。わしは九郎殿の兄にあたる」


 範頼はあえて弟に「殿」をつけながら、穏やかに微笑んだ。


 牛若は一気に驚き、すぐに身を乗り出した。


「範頼兄上! これは失礼いたしました……! しかし、いつ鎌倉へ? 黄瀬川ではお姿が見えませんでしたが」


「いやいや」


 範頼は困ったように頭をかいた。


「実はな、黄瀬川での対面も、その後の軍議も、わしはずっとその場におったのじゃ」


「えっ?」


 牛若だけでなく、三郎も声を上げた。


「九郎殿が鎌倉殿と手を握り合っておった時も、わしはすぐ後ろで『よかった、よかった』と貰い泣きしておったし、軍議で九郎殿が、もし佐竹が歯向かうなら飛んでいくと言うた時も、『その意気じゃ!』と心を震わせておった」


「き、気づきませんでした……」


「無理もない」


 範頼はあっけらかんと笑う。


「末席の、それも柱の陰の狭い席にぎゅっと押し込められておったからな。わしの声なんぞ、あの歓声にかき消されてしもうたよ」


 その言葉には、卑屈さも嫉妬も混じっていない。ただ事実を穏やかに述べるだけだった。


「九郎殿のような優秀な弟がいて、わしも誇りじゃ」


 範頼は目を細める。


「あの……?」


 牛若は動揺している様子だった。実は牛若が誰かに直接「優秀」と言われたのは初めてだったようだ。


「わしが鎌倉殿のもとへ参陣した際はな、わしも、鎌倉殿も、周りの誰も、涙一つ流さなんだぞ。『おう、来たか』『はい、参りました』。それで終わりじゃ」


「そんな……」


「よいのじゃ。九郎殿は皆を惹きつける。わしも惹きつけられた。それだけの話よ」


 範頼はふと視線を上げ、寺の天井を見回した。


 そして、太い柱を、骨董(こっとう)でも愛でるような優雅な手つきで撫でた。


「それにしても、立派な寺じゃのう。屋根があるし、壁もある」


「は……?」


 後ろの三郎が間の抜けた声を上げた。


 隙間風の吹く、廃寺(はいじ)同然の建物である。三郎たちが散々悪態をついていた場所だ。


 だが、範頼のもっさりした目は本気で羨ましがっているようだ。


「わしの家なぞ、農民が捨てていった掘っ立て小屋じゃよ。雨風は凌げるが、広さはここの半分もない。それに比べれば、ここは御殿じゃ。さすがは九郎殿、兄上も重んじておられる」


 心底感嘆したように言う範頼に、三郎たちは怒る気力すら失い、呆然とするしかなかった。


 この男には、嫌味がない。頼朝が牛若と範頼につけた明確な「差」を、範頼自身が全く気にしていないのだ。


「へえ、あんた……苦労してんだな、カバさん」


 軽はずみな三郎がおかしな呼び方をしても、範頼は怒ることもなく、「苦労とは思っておらんがの」と笑う。


「……カバの、兄上」


 牛若が少し戸惑いながら呼ぶと、範頼は「その呼び名、気に入った」と嬉しそうに頷いた。ふと、牛若の顔を覗き込んでくる。


「九郎殿、何故そんなに目を潤ませておる?」


 牛若は言葉に詰まり、視線を落とす。


「……兄上が」


「ほう、鎌倉殿が?」


「兄上が、一向に会ってくださらぬのだ。私はただ、兄弟水入らずで話をしたいだけなのに……」


 天界の稚児の子供っぽい話し方を、また新たな相手に聞かれてしまうのが、弁慶は少しだけ嫌な気分だった。


「なるほど」


 範頼は深く頷き、それから空を仰いでぼんやりと言った。


「そなたの気持ちも分からんではないが……なんというか、鎌倉殿は今もご多忙の様子じゃ。あれやこれやと、いろいろあるようでの」


 範頼は、まるで他人事のようにのんびりと言った。


「実はわしもな、つい先刻、鎌倉殿のところへ行ったのじゃ」


「会えたのですかっ……?」


 咄嗟に牛若が食いつく。だが、範頼は苦笑して手を横に振った。


「いやいや。わしの小屋には米が足りんでな。少しでも兵糧を分けてもらえないか聞きに行っただけなんだが、けんもほろろに追い返された。『米のことなど自分でなんとかしろ』とか、まあ、そんなようなことを言われての」


 あっけらかんと語る範頼に、その場が静まり返った。


「……米?」


 牛若は絶句していた。


 源氏の御曹司である兄が、米を乞うて追い払われたという事実に驚愕しているようだ。目の潤みは引っ込んでしまっていた。


「おいおい、実の弟君に米ぐらいくれたっていいじゃねえか。また帳面じじいの差金か?」


 三郎が呆れたように言った。


 佐藤兄弟も顔を見合わせ、眉をひそめる。


「弟君の兵糧の相談も聞かぬとは……」


「景時殿は、鎌倉殿のご兄弟に対して少し厳しすぎるのではありませぬか」


 継信も忠信も口々に不満を漏らすが、範頼は気にした風もない。


「まあ、鎌倉はそういう時分なんじゃろうて。わしらは待つのも仕事よ」


 範頼は牛若の肩をぽんと叩いた。


「九郎殿も、しばし休息するのがよかろう。焦っても腹が減るだけじゃ」


 そう言い残し、範頼は「ではな」、と緩慢な動作で去っていった。来た時と同じように、風のように、あるいは煙のように、音もなく寺を出ていく。


 弁慶は、その後ろ姿を冷めた目で見送った。


 米を乞い、追い返され、それを「仕方ない」と笑って受け入れる男。


 あの男には悪意がない。だが、それ以上に、武人としての「熱」や「矜持(きょうじ)」が欠落している。


 ふと、弁慶の脳裏に奇妙な空想がよぎる。


(もし五条の大橋で、あの霧の夜に出会ったのが、牛若さまではなくあの男だったら――)


 おそらく弁慶は、太刀を奪う気すら起きず、ただの通行人としてあくびをして見送っていただろう。


 あの男は「(なぎ)」だ。


 波も立たず、嵐も呼ばない。


 だが、弁慶が求めているのは、そんな平穏ではない。


 全てを壊し、巻き込み、破滅へと向かう美しい「嵐」だけだ。


 弁慶は、見すぼらしい寺の中でも眩しく輝く牛若を見つめた。


 この方は、米ごときで追い返されて笑えるような魂ではない。愛を求め、認められることを渇望し、そのために身を焼く。


 自分を狂わせることができるのは、この厄介で愛おしい、「牛若さま」だけなのだ。


 弁慶は自らの業の深さを、静かに噛み締めていた。

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