第十四話 鎌倉の乾いた理
鎌倉の風はひどく乾いていた。
奥州平泉の、あの湿り気を帯びた黄金の風とは違う。山を削り、赤土を掘り返したばかりの、荒々しい土の匂い。そして、切り倒されたばかりの生木の青臭い匂いが、弁慶の鼻の奥を刺激する。
ここは都ではない。かといって、人が安らぐための里でもない。
あちこちで響く斧の音、槌の音。普請場特有の熱気と埃が舞うその光景は、日の目を見なかった武士たちの新しい根城を意味していた。
「うわっ、なんだこりゃ」
三郎が大げさに声を上げ、跳ねた泥を避けた。
「道もろくに固めてねえのか。牛若さま、気をつけて下さいよ。泥の海なんかで牛若さまが汚れちゃいけないですからね」
三郎の言葉も耳に入らぬ様子の牛若は、目を輝かせて前を見据えている。美しい直垂に容赦なく泥が飛ぶが、それを拭おうともしない。
「見よ、弁慶」
「はい」
牛若が三郎ではなく弁慶に声をかけると、弁慶の胸の奥はほんのり甘くむず痒くなる。ただ目に入ったのが三郎でなく、たまたま弁慶だったのだろうが。
「あれは新しい矢倉か?」
牛若が弾んだ声で指差した。
「さあ? どうでしょうねえ」
聞かれてもいない三郎が無意味な返答をする。
「兄上は、この新しい土の上で我らを待っておられるのだ。この活気、平泉にも劣らぬと思わぬか」
「……左様でございますな」
弁慶は低く短く答えた。同意とも否定とも取れぬ声になってしまったが、牛若は気にした風もなく続ける。
「早く兄上に会いたいものだ。積もる話もある。奥州でのこと……兄上もきっと、私の話を楽しみにしておられるはずだ……同じ屋根の下に住む生活が待っている」
それはどうか、と弁慶は言いたくなったが、牛若は信じて疑っていない様子だ。黄瀬川であれほど固く手を取り合った兄なのだから、鎌倉では当然、兄弟で一緒に暮らせるのだと。
だが、供をする弁慶たちの肌には、よそ者を拒む冷たい視線が突き刺さっていた。
「ふん、黄金の平泉に比べりゃ、ただの泥溜まりじゃねえか」
三郎が低い声で吐き捨てた。
「見ろ、あの民たちの目。まるで盗人を見るような目つきだ。俺は元盗賊だからいいが、牛若さまに向ける目じゃねえ」
そこまで言ったところで、三郎は気づいたように牛若の背中の布地に触れる。
「牛若さま、そんなに一気に進まないで下さいよ。ほら、こんなに汚しちゃって」
三郎は小まめに牛若の着物の裾を払う。
「洗えば良いだろう」
牛若の返答は素っ気ない。
「牛若さまの衣類をそう容易く触れるものはいませんからね」
三郎は自分の言葉に一人で気恥ずかしそうな笑みを浮かべながら、また気持ちを切り替え、周囲を睨み返している。
佐藤兄弟もまた、不快感を隠そうとしていなかった。
「兄者、見ろ。あの馬の痩せ方を」
忠信が小声で継信に囁くのが聞こえた。
「ああ。毛並みも荒れている。鞍の手入れもなっておらぬな」
「武士の魂である馬をあのように扱うとは……。義経さまをお迎えする地にしては、あまりに風情と敬意が欠けています」
「義経さまを早く出陣させず、このようなところに押し込められるのはいかがなものだろうな」
兄弟は、鎌倉が牛若をお迎えする手はずが整っていなかったことを、当たり前で仕方ないこととはいえ、我慢ならない様子だ。
弁慶だけが、無言で牛若の背中を見つめ続けていた。
この天界の稚児の純粋さは、汗と泥と鉄の匂いが充満するこの武人の都において、あまりに異質だった。
(牛若さまだけが、ここでは浮いている……)
その輝きが強ければ強いほど、この乾いた土地から弾き出されてしまう――そんな冷え冷えとした予感が、弁慶の胸の内で黒い澱みのように広がっていく。
一行が、頼朝のいる大倉の地へ近づこうとした時、一人の男がそっと立ちはだかった。
「げっ……またあの帳面じじい……」
嫌悪感を剥き出しにする三郎を弁慶が片手で制する。梶原景時だった。黄瀬川の軍議で見せたあの理詰めの表情は、この鎌倉の地でより一層の冷徹さを増していた。
「景時殿!」
牛若がぱっと目を輝かせ、無邪気に歩み寄ろうとする。
「兄上に会いに来た。私もここで暮らしたい。すぐに通してくれ」
しかし、景時は一歩も退かなかった。
「義経殿。おそれながら、これより先は政の場にございます」
抑揚のない、まるで帳面を読み上げるような声が、弁慶の鼓膜を打つ。
「鎌倉殿は、まだこの大倉の仮屋にて、政の指示に時間を取られておいでです。ご多忙につき、他の者との対面は後ほどと仰せつかっております」
「後ほど?……いつだ? 夕刻か?」
「さほど早くはないはず。ひと段落つくには二、三日はかかりましょう」
景時の返答に牛若の表情が一気に曇る。
「そんなに待つのか……私はどこへいけば良い。私は兄上と共に暮らすために参ったのだ。母上の話もしたい……亡き父上の話も聞きたい」
「ここは武士が政をする新しい都にございます」
景時の瞳は光を返さない。
「鎌倉殿は、そのようなご兄弟と共に暮らす余裕などおありではない。肉親の情よりも、御家人としての理が優先されまする。義経殿といえども、例外ではありませぬ」
理。
その言葉が放たれた瞬間、弁慶は牛若の背中が強張るのを見た。「兄との団欒」という温かな幻想が、墨で黒く塗りつぶされていく音が聞こえるようだった。牛若の足が止まる。
「そんな……」
牛若は瞳を潤ませて俯いてしまう。
「あんた、黄瀬川の時からしつこいな。牛若さまは命がけではるばる奥州から頼朝さまを助けるために駆けつけたんだぞ」
我慢ならなくなったらしい三郎が喰ってかかった。景時の表情は変わらない。
「一体何を申す。義経殿の合流に鎌倉殿はもちろんお喜びじゃ。それとこれとは別のこと」
「兄君と会いたくて今にも泣きそうになっている牛若さまを、帳面係のあんたが門前払いするのがおかしいって言ってるんだ」
「控えよ。これは某の仕事にすぎぬ」
景時は三郎を一瞥すらせず、ただ冷ややかに言い放つ。その視線の鋭さと湿り気のなさに、調子の狂った三郎が言葉を詰まらせるのが分かった。
「義経さまともう一度お会いになれば、鎌倉殿も必ずや気が変わるはずです」
継信も礼は守りながら景時に詰め寄った。
「兄者の言う通りだ。そんな、ただ理屈をこねて義経さまを追い払うなんて……!」
忠信も震える声を漏らす。
皆が、牛若を門前払いにする景時を許せずにいた。
弁慶も、この景時の口の聞き方はいちいち癪に触る。だが、この男はただ仕事をやっているだけなのかもしれない。ただ兄と一緒に暮らしたい一心で現れた天界の稚児の思いなど、全く予想だにしていないにちがいない。
弁慶は、そっと一歩前に出た。
無言のまま、主君と景時の間にその巨躯を割り込ませる。大きな壁となり、景時の視線から、傷つきやすい牛若を遮断する。弁慶の肌が、景時の放つ冷気を感じ取り、それに対抗するように熱を帯びる。
「我らの牛若さまは、どこへ行けば良い」
「……ご案内いたす」
どこまで執拗に阻まれるかと思ったが、景時の返答はあっさりとしていた。景時はくるりと踵を返し、一行を導き始める。弁慶が先頭となった。
「……牛若さま、とりあえずあの帳面じじいに付いていきましょうか」
三郎が牛若を促し、先ほどとは全く別の方向へ一行の歩みが進む。
案内されたのは、大倉の仮屋から遠く離れた、山裾にある古びた寺だった。
「鎌倉はまだ未完成の都です」
景時は去り際に淡々と告げた。
「今はここで時を過ごされよ。鎌倉殿も悪いようにはいたしますまい」
言い捨ててその場を去った景時の背中を、三郎と佐藤兄弟は不快さを隠さない目で見つめていた。
「兄者、これは何の陰謀だ……」
「陰謀かは分からぬが……都が未完成だからとのことだが、それと兄君の元から追い払うことに何の関係があるのだろうな」
佐藤兄弟の落ち着いた声での苦言に対し、三郎はもっと直情的だった。
「大倉の仮屋だって見すぼらしかったが、牛若さまが住む空間がないわけじゃねえだろうに! あの帳面じじい、本陣入りも軍議も徹底的に牛若さまの邪魔をした挙句、とうとうこんな僻地を牛若さまにあてがいやがった!」
「三郎、静かにしておれ」
弁慶は一行の中では不思議と冷めていた。隙間風が容赦なく吹き抜け、畳の縁は擦り切れ、湿ったかびの匂いが鼻をつく。
牛若は、埃っぽい板敷の上に力なく腰を下ろしていた。
「……兄上とは、同じ屋根の下では暮らせぬのか」
ぽつりと漏れたその声は、驚くほど幼かった。
弁慶の目には、さっきまで「兄上のために」と輝いていた武士の顔が、剥がれ落ちていくように見えた。誰もいない闇の中で、膝を抱えた子供の顔だ。
弁慶は牛若に声をかけることができず、ただ斜め後ろからその細い背中に壁を作っていた。
牛若の様子に、三郎たちが動揺する気配が伝わってくる。
「ちょっぴりわびしい部屋ですね!」
三郎がわざとらしく明るい声を張り上げた。
「へっ、風通しが良すぎて風邪を引きそうだ。牛若さま、俺がもっとマシな敷物を、どこかから調達してきますよ。寺の坊主を脅せば一枚くらい出てくるでしょう」
「三郎、滅多なことを言うな」
継信がたしなめるが、その声にも焦りが滲んでいる。
「義経さま、今すぐに我らが手入れをいたします。忠信、荷を解け」
「はっ、兄者」
佐藤兄弟は持参した荷を解き、奥州の美しい織物を取り出した。それを冷たい床に重ね、少しでも主君の座所を温めようと甲斐甲斐しく動く。
だが、弁慶だけは動かなかった。じっと、小さくなった主君の背中を見つめていたのだ。
(この方は今、また一人で闇の中に放り出されたのだ)
秀衡に別れを告げた牛若が、頼朝という血を分けた兄に拒絶され、行き場を失った天界の稚児。
その絶望の深さを理解できるのは、世界で自分一人だけだ。
弁慶の胸の奥で、暗い優越感が音を立てて燃え上がった。この乾いた鎌倉の風の中で、牛若を湿らせる涙を受け止められるのは、自分しかいないのだという歪んだ安堵だ。
弁慶は、小さく震え出した牛若の肩に、そっと指先を置いた。




