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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
第一部 渇望の深淵

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第十三話 初めての軍議

 黄瀬川(きせがわ)の河原には、富士川の不戦の勝利がもたらした残響がまだ泥のように沈んでいた。


 水鳥の羽音に驚いて平家が敗走したという、滑稽な幕切れだ。弁慶の視界の端では、その戦利品として集められた、平家に置き去りにされた馬たちを、佐藤兄弟が慣れた手つきで検分していた。


「見てくれ、忠信。平家の連中は水鳥の音に魂を抜かれ、これほどの駿馬を置き去りにした。奥州の馬は雪を蹴るが、この馬は風を抱くようだ」


 継信が泥にまみれた馬の脚を丁寧に拭い、その骨格を指先でなぞる。


「まったくだ、兄者。この毛並みの良さ、都でいかに慈しまれたかが分かる。これに義経さまがお乗りになれば、戦場の露払いなど造作もないこと」


 弟の忠信もまた、馬の瞳を覗き込みながら熱っぽく応じた。そんな兄弟の姿を、三郎が「よく飽きもせず馬の尻ばかり眺めていられるな。俺は都の香りが気になって仕方ねえぜ」と鼻で笑っている。


(……三郎、貴様の言う通りだ。いよいよ評定が始まる。牛若さまの晴れ舞台、我らもしっかりと見届けるぞ)


 源氏は勝ちに乗じ、平家の逃げ帰る都を目指すにちがいない。弁慶は長刀の柄を握り直し、主君が兄のために先陣を切る瞬間を夢想しながら、頼朝の幕舎(ばくしゃ)を見つめた。




 本陣の奥で、牛若は頼朝に近い席をあてがわれている。弁慶たち従者も、主の声が十分に届く距離に控えていた。


「それでは」


 頼朝の声が響く。


「このまま勢いに乗り、都へ上ることとしよう。平家を討ち果たし、亡き父の無念を晴らそうではないか」


 威風堂々とした声だ。汚れなき直垂を纏ったその貌は、弁慶の位置からは辛うじて見える程度だったが、その声の張りには確かな野心が宿っていた。


「……兄上、よくぞ仰ってくださいました! この九郎に先陣をお命じください。一気に平家を蹴散らし、兄上に勝利を捧げましょう!」


 牛若が「九郎」と名乗り、兄に激しく呼応した。遠くからもその瞳の輝きが見える。再会の喜びを戦功という形に変えて兄に捧げたいという、純粋な焦燥が見て取れた 。


「義経さま、我らもお供いたしまする」


 畠山重忠の穏やかな声がよく響く。


「坂東の意地、都へ知らしめてやりましょう」


 梶原景季も爽やかな声で応えると、牛若は「はい!」と透き通ったやや甲高い返事を張り上げた。辺りは若武者特有の無垢な高揚感に包まれている。


 三郎が「牛若さまの元気が戻ってきたな……」と小声で拳を握り、弁慶もまた(ようやくこの時が……)と、胸の内で主の門出を祝っていた。


 だが、その熱狂を切り裂くように、冷徹な響きが幕を揺らした。


「なりませぬ。みなさま、今は動き時ではございませぬ」


 梶原景時が、手元にある帳面をぴしゃりと叩いた 。


「都は不作続きで兵糧が尽きております。さらに背後には、常陸(ひたち)佐竹(さたけ)が控えておりますぞ」


「……景時殿の言われる通り。佐竹を討たずして都へ向かえば、鎌倉の地すら守りきれませぬ。今は東国を固めるが上策にございます」


 (かたち)は見えぬ角度で、深く頭を下げたままの北条時政が、氷のような声で短く付け加えた。その声には、若者たちの熱狂を押さえようとする老練さが感じられる。


「佐竹……? 佐竹とは、いかなる者たちでしょうか……?」


 牛若が戸惑ったように首を傾げた。合流したばかりの主にとって、聞いたことのない名だろう。景季が「義経さま、佐竹は常陸を根城とする強大な一族にございます」と答え、重忠が苦い表情で言葉を添える。


「我らと同じ源氏であり、本来は我らと共に平家を討つべき立場です」


「えっ……」


 全く予想外の情報に、ますます牛若は困惑した表情を見せる。


「同じ源氏の血を引く者を、なぜ討たねばならぬのですか……? 手を取り合い、共に父の仇である平家を倒せば良いのではないですか。兄上、なぜ争わねばならぬのです」


 牛若の声は、叫びというよりは、あまりに純粋で情緒的な困惑だった。血縁の絆を絶対の聖域と信じる少年にとって、同じ源氏と争う道理などどこにも見当たらないのだろう。敵味方が連日入れ替わる僧兵のどす黒い世界を見てきた弁慶には、別に驚くことではないのだが。


「九郎よ、聞け」


 頼朝が、先刻の勢いを一転させ、冷徹な声を響かせた。


佐竹義政(さたけよしまさ)らは、我らと同じ血を引く一族だ。しかし奴らは、源氏の一族の情よりも常陸の利を選び、我が参陣の命を無視して平家に膝を屈したままだ。我らが都へ背を向けた瞬間に、この鎌倉を、そして我が喉元を背後から狙う獣よ」


 頼朝の言葉は、牛若の熱情を一つ一つ冷たい氷で封じ込めていくようだった。


「残念ではあるが、今平家を都まで追うのは得策ではないかもしれぬな。景時の献言でよく分かった。礼を言うぞ」


「もったいのうございます」


 景時は口調を一切変えずに礼儀正しく応じたようだ。弁慶の隣で三郎が舌打ちする音が聞こえる。


「戦とは」と頼朝が言葉を紡ぎ出す。


「兵糧と兵の数、そして背後の憂いを一つずつ消すのが肝心。景時や時政の申すことは、一族の情を超えた(ことわり)よ。私はその理に従おうと思う」


「ですが兄上……!」


 牛若はなおも食い下がった。声が震えている。


(まずい……)


 弁慶は今すぐ牛若をこの場から連れ去りたかった。天界の稚児は、明らかにこの場の複雑で打算的な会話の意味を理解できていないにちがいない。


「佐竹が邪魔をするなら、私が飛んでいって倒してみせます! 同じ源氏の佐竹など放って、とにかく今すぐ都へ上りましょう。私は兄上を今すぐ都へ導きたい! 奥州からそれだけを思って駆けてきたのです……!」


「義経さまのおっしゃる通りだ!」


 景季が爽やかな声を張り上げた。弁慶は耳を塞ぎたくなる。世間を分かっていない牛若の無垢な言葉に、妙な同調が生まれてしまうではないか。


「佐竹などの小物に気を取られて勢いを逃してはいけない。私も義経さまの軍に加わらせてください!」


「私も義経さまに従いまする」


 重忠が濁りのない声で穏やかに同調する。


「今この時を逃してはいけません。何よりも義朝公の敵討ちこそが、鎌倉殿にとっても、義経さまにとっても、一番大切なことでありましょう。ご兄弟がそろった今こそ、攻め入る時だと考えまする」


「そうだ重忠。みなさま、そうと決まれば出陣ですね!」


 景季がうれしそうに叫び、辺りに歓声が広がる。


「静まられよ!」


 景時が帳面を厳しく叩いてその場を制した。


「今、それがしが申し上げたことを思い出されるが良い。都は食糧がない。背後には佐竹がいる。まず佐竹を解決するには、いったん鎌倉に止まらねばならぬ」


「父上、我らにとって一番大切な時に水を差すおつもりですか。義経さまもおっしゃったではありませんか。今佐竹は何も攻撃をしてきていないのですから、まずは平家追討が先でしょう」


「黙れ! お前の言葉は何も反論になっておらん。わしの息子なら邪魔せず黙って話を聞いておるのじゃ」


「なに……! 父上、そうやって大事な議論からお逃げなさるつもりか!」


「議論にならぬと言っておるのじゃ!」


 いつの間にか本陣で父子喧嘩が始まってしまった。牛若はどうしてよいか分からぬ様子で、時折首を傾げながら口をもごもごさせている。北条時政はあさっての方向を向いて、考えごとをしているようだった。


「景時殿」


 重忠が凛とした声で間に入る。


「義朝公の敵討ちという美しい使命のため、はるばる奥州からいらした義経さまのご意見を、そうやって真っ向から押しつぶすことに、私は感心できませぬ。我らは一体何のために集まったのか。平家を倒すためではありませぬか。肝心なことが忘れ去られておりまする」


「重忠殿っ、そんなことはそれがしも承知しておるのじゃ。冷静に話を聞いて頂きたい」


「冷静さを失い、景季と父子喧嘩を始めておられるのは、景時殿の方ではありませぬか」


「その通りじゃ! 父上は頭をいったん冷やされよ!」


「なんだと……!」


「景時、そこまでだ」


 頼朝の凛とした声が騒音を泥の中に一気に沈めた。牛若と五条の大橋で出会った時の声に、ほんの少しだけ似ていると弁慶は思った。


「九郎」


 頼朝は、この騒ぎの口火を切った牛若の方へ厳しい表情で向き直った。


「熱に浮かされた情で戦には勝てぬ」


「えっ……」


 牛若は、期待していた兄から拒絶のような口調が滲んだことにひどく動揺しているようだった。


「背後の憂いを断たずして、ただ闇雲に使命を求めても、優れた武者ではあるまい。今は鎌倉へ戻るのだ。これは決定事項である」


「兄上……!」


「景季も重忠も、良かれと思って発言してくれているのは分かるが、まだ戦はこれからである。堅実にまずは鎌倉を立て直すのが最善であることを分かってくれ」


「……承知……」


「承知いたしました」


 景季は戸惑ったように、重忠は観念したように、棟梁の頼朝の言葉を受け入れた。


「九郎も、良いな?」


 頼朝の声は凛としていて厳しかった。


「はい……」


 牛若は小さな子供が叱られた時のような、頼りない声で返した。


(牛若さまは、この軍議におけるご自身の立ち位置を理解されていないのではないだろうか……)


 弁慶には、牛若がこの場の動きをよく理解できず、ただ兄に拒絶されたとだけ感じているように思えた。事務的に軍議が締めくくられ、牛若は熱狂の残骸の中で立ち尽くしていた。弁慶たちは牛若が自分たちのもとへ戻ってくるのを根気強く待っていた。


「……ちっ、なんだよ。兄貴まであの帳面じじいの味方かよ」


 三郎が吐き捨てるように呟き、継信は「……せっかく連れてきた馬たちも、今は戦場へは向かえぬのだな。せっかくの義経さまの初陣が……」と肩を落とした。忠信も「義経さまの魅力は、あの景時殿には通じぬらしい……」と静かに俯いている。


 弁慶はこちらへ戻ってくる牛若の凍りついた横顔を凝視した。


(……牛若さまは頑張った。頼朝殿の言葉は立派な理屈だ。だが、先ほど都へ上ると言った兄君の貌はどこへ消えたのであろう……)


「三郎……」


 弁慶ではなく、一番手前にいた三郎に、牛若が透明感のある声でささやいた。


「私の先陣を、兄上は信頼してくれなかったようだ……」


 牛若の目が潤む。弁慶の胸の奥が妙に締め付けられた。三郎は「牛若さまっ」とぎょっとした声を出し、とっさに両肩に手を置いていた。


「あの帳面じじいのせいですよ。牛若さま、軍議なんて初めてだったでしょう。よくやりましたよ……! あと少しで出陣が叶うところでした。それを……!」


「最終的には……」


 弁慶が三郎の言葉を引き取る。


「鎌倉殿のご決定ゆえ、仕方ないことと思われます」


 馴れ馴れしく牛若に触れながら慰めようとする三郎を引き剥がしながら、弁慶は「お気になさるな」と低い声でささやいた。


「それにしても……」


 その声は佐藤継信だった。


「あの帳面を持った御仁は、何かにつけ話をややこしくする癖があるな……」


 そうつぶやく継信は、腕組みしながら考え込んでいる様子だ。


「そうですね兄者。義経さまの兄君も、あの景時殿が割って入るまでは同じご意見だったのに……悔しくてなりません」


 皆が牛若の味方だった。弁慶もその一人ではある。だが、牛若が軍議で作り出してしまった空気のおそろしさに気づいているのは、自分だけなのであろうか。


「とりあえず鎌倉へ向かうしかありませぬ」


 弁慶の重厚な声に、落ち込んでいた牛若一行はそっと同調の頷きを見せた。

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