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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
第一部 渇望の深淵

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第十二話 兄と弟

 黄瀬川(きせがわ)の陣に夜の(とばり)が下りる。篝火(かがりび)()ぜる音だけが、静まり返った陣中に響いていた。


「……義経さま、お迎えに上がりました!」


 静寂を破ったのは梶原景季の声だった。後ろに畠山重忠も控えている。二人の瞳に先ほどまでの苛立ちは消え、使命を帯びたような清々しい熱が宿っていた。


「おお、待ち望んでいたぞ!」


 牛若が甲高く喜びの声を上げる。


「はい、鎌倉殿がお待ちです」


 重忠が言葉を続けた。


「御同伴は、そちらのお坊さまお一人を、との仰せにございます」


 重忠の視線が、弁慶の巨躯に注がれた。それを聞いた三郎が、地団駄を踏んで声を荒らげる 。


「おい、なんで弁慶だけなんだ! 俺の方が付き合いは長いし、道中の泥も一緒に被ってきたんだぞ!」


「三郎……」


 牛若が戸惑った声を出すと、弁慶は胸の奥がむず痒くなり、三郎に向き直った。


「三郎、恨むな。これも世渡りの知恵だ」


 弁慶は静かに三郎を見据え、言葉を継いだ。


「それがしは形の上では仏に仕える身。場を清める僧としてならば、形式を重んじる先方も、道理として認めざるを得ないであろう」


「お坊さまだぁ? 弁慶、お前そんな殊勝なツラしてたかよ。……けっ、損な役回りだぜ」


 三郎は毒づきながらも、どこか諦めたように肩をすくめた。


「それでは、ご案内いたします!」


 景季の先導を受け、弁慶は三郎たちの視線を背に受け、牛若と共に静かに歩み出した。


「牛若さま……! いくらお兄さまだって、相手は初めて会うんですからね。少しは用心してくださいよ……!」


「安心して待っているがいい」


 うるさい三郎を振り返った牛若の返事はそっけなかったが、瞳の輝きに歓喜が見てとれた。弁慶の背筋を走るのは、牛若と共にその宿命の場に立ち会えることへの、重苦しいまでの緊張だった。




 本陣の入り口に至ると、一人の武者が深く頭を下げて待ち構えていた。


「……北条時政(ほうじょうときまさ)にございます。義経殿、こたびの参陣、鎌倉殿も心待ちにしておられました」


 時政と名乗ったその男は、下げられた頭のせいで顔を伺い知ることは叶わなかったが、その声には老練な政治の匂いが染み付いていた。時政はそのまま顔を上げることなく、一行を奥へと導いていく。その隙のない所作からは、源氏を支える坂東武者の底知れぬ矜持が感じられた。


 幕を潜ると、そこには張り詰めた静寂が渦巻いていた。正面に座す男がいた。


 汚れ一つない清らかな直垂を纏い、背筋を微塵も崩さぬその佇まいは、まさに源氏の棟梁たる威厳に満ちている。この男が源頼朝(みなもとのよりとも)にちがいない。主の牛若が全てを捨てて追い求めた、血を分けた兄だった 。


「……九郎か?」


 頼朝が、低く、だがよく通る声で呟いた 。


 その名を呼ばれた瞬間、隣に立つ牛若の肩が大きく跳ねるのを、弁慶は見逃さなかった 。「九郎」と呼ばれるのは初めてだろう。その響きだけで、牛若の心の壁は一瞬で打ち砕かれたのだ。


「兄上……! 兄上に、お会いしとうございました……!」


 足元が揺らいだ牛若は頼朝の元へ駆け寄った。五条の大橋で見せた神懸かりの稚児の姿は、そこにはない。あるのは、ただ愛に飢えた一人の弟の姿だった。


「兄上……!」


 牛若の手が、遠慮がちに、だが熱を持って兄の腕に触れようとする。


「九郎……」


 頼朝は穏やかな声で九郎の腕を手に取った。


 牛若の目から大粒の涙が溢れ出し、白い頬を濡らす。これまでの孤独や、奥州でのこと。そのすべてを記憶の箱に片付けてしまうような、甘ったるい、混じり気のない涙だった。


「兄上、私は……私は、この日をどれほど……!」


 子供のように泣きじゃくる牛若の姿を、弁慶は傍らで静かに見つめていた。そのあまりの無防備さに、弁慶の瞳にも熱いものが込み上げてくる。


(……牛若さまは……これほどまでに、この瞬間を求めておられたのか)


 弁慶は一つ鼻をすすり、主と共にその思いを噛み締めた。この純粋な涙こそが、自分の守るべきものの正体なのかもしれない。


 頼朝は、泣き崩れる弟を静かに見つめ、その細い肩をそっと抱き寄せた。


「九郎、よくぞ参った。兄の私もうれしく思うぞ……!」


 頼朝の声も涙に染まる。成熟の中に動揺が見てとれた。


「……かつて新羅三郎義光しんらさぶろうよしみつ殿が、兄の八幡太郎義家はちまんたろうよしいえ公の苦境を聞いて官職を投げうち、険しい山を越えて駆けつけたという話がある。……今、私の前にいるお前は、まさにその新羅三郎殿そのものであろう……」


 涙をのみ込みながらの頼朝の言葉は、まるで(いにしえ)の物語を紐解くかのような美しさを湛えていた。牛若はその言葉にさらなる情を揺さぶられ、兄の胸に顔を埋めて嗚咽を漏らす。


 気丈な弁慶も思わずもらい泣きをしてしまう。


(……立派な兄君だ。だが、なんであろう……。今、目の前で魂のままに泣いている弟の顔を見て、随分と壮大な物語の光景を思い描くものであるな……。気品はあるが、牛若さまとは何かが異なる……)


 弁慶が周囲に視線を巡らせると、景季と重忠は嗚咽を漏らして号泣していた 。彼らの信じた御曹司の「風」が、この再会で証明されたことも嬉しいであろう。


 そして、あの形式を重んじる男、梶原景時も目に入る。驚いたことに、彼の瞳もまた潤んでいた 。軍律を説き、手続きを求めたあの冷徹な男の頬に、一筋の雫が伝っている。


(……ふむ。あの男も、一応は人の心を持ち合わせていたか)


 そのまま視線を戻すと、頼朝もまた弟と共に涙を流していた。


 弁慶は吉次から、頼朝の伊豆での流人生活を耳にしていた。牛若と同じく不幸な境遇のはずだ。だが、年が十ほど上の頼朝の涙はどこまでも清らかで、そして節度があり、座を崩すことはない。


(……牛若さまと、鎌倉殿。この兄弟の気持ちは、真に同じものなのであろうか。同じ再会を喜んでいるようでいて、どこか住む世界が異なる気がしてしまう……)


 頼朝は抱き寄せた牛若の背を、静かになでている。その手の動きはどこまでも穏やかであった。


(……いや、今は祝わねば。牛若さまが、これほどまでに求めていた場所に、ようやく辿り着かれたのだからな)


 弁慶は、濁りかかった思いをそっと押し込んだ。たとえ、この先に何が待ち受けていようとも。


 変わらぬのは、俺の心だ。


 この牛若さまを抱き止め、盾となり、その影として生き抜く。


 弁慶は、主の甘えた涙を見つめながら、その決意を深く胸の底に沈めた。

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