第十一話 黄瀬川の冷たい篝火
駿河の道は、戦の熱を孕んだ乾いた土埃にまみれていた。
道中の民から流れてくる噂は、尾を引く彗星のように弁慶たちの耳を焼き、牛若の瞳に異様な焦燥を灯した。鎌倉殿と呼ばれる頼朝率いる源氏と、平維盛を大将軍とする平氏の総力軍が富士川を挟んで、日の本を分かつ決戦に及ぶという。
「急げ、急げ……! 兄上が、兄上が戦を始めてしまわれる!」
牛若は、泥にまみれた手で何度も馬の首を叩いていた。その目は血走り、平泉での穏やかな日々が記憶から抜け落ちたかのように、ただ一点、まだ見ぬ「兄」という幻影だけを追っている。
「牛若さま、そんなに焦っても身体をこわすだけですよ……!」
三郎が心配そうに声を上げる。弁慶は一歩後ろでその狂おしい背中を黙したまま追っていた。
(……会ったこともない兄君が、あれほど自分を慈しみ、泣いて引き止めた秀衡殿よりも尊いというのか。牛若さまは今、実体のない『血』という呪縛に、その正気を飲み込まれておられる……)
それは、やり場のない哀れみと、割り切れぬ思いが混じり合った苦い沈黙だった。
「牛若さま……!」
弁慶は馬上から低い声を張り上げた。
「逸るお気持ちは分かりますが、まずは一息つくべきです……!」
弁慶のよく通る声も牛若の耳には届かない。牛若は休息も惜しみ、ただ泥を跳ね上げ、黄瀬川へと突き進んだ。
富士川よりも手前の黄瀬川に、大部隊の布陣が見えてきた。その陣には、期待していた戦の喧騒はなかった。
そこに漂っていたのは、どこか間の抜けた、それでいて浮ついた高揚感だった。牛若は愛馬を止め、呆然と周囲を見渡す。全員が馬から降りたが、勝手の知らない空間には不安しか感じられないと弁慶には思えた。
「兄上の合戦は……終わったのか……?」
「義経さま、我らが確認してまいりましょう。忠信も」
「はい、兄者」
気を利かせた継信と忠信が歩みを進めようとする。
「お止まりなされよ」
陣の入り口で、一人の若武者が行く手を遮った。汚れ一つない直垂を纏った、爽やかな精悍さを漂わせる青年だ。
「そちらの方々、どちらの隊の方々であられるか? ここから先は、鎌倉殿の本陣である。勝手な立ち入りは禁じられている」
「いや……」
初対面の者に対して口ごもる牛若より早く、三郎が馬を引き寄せながら声を張り上げた。
「へっ、何を言う。こちらにおわすは、御曹司の牛若さまだ!」
「牛若……さま……?」
若武者は、その聞き慣れぬ幼名に怪訝そうに眉をひそめた。三郎は胸を張ってみせる。
「三郎、それでは相手に通じぬ」
「なんだと」
苛立つ三郎を制し、弁慶はそっと主の前に立った。その巨躯から放たれる威圧感で周囲を圧しながら、朗々と告げる。
「これは失礼いたしました。こちらの我が主は、亡き源義朝様の末子であらせられ、鞍馬の寺で育ち、これまで奥州に身を寄せておられた、幼名牛若……源九郎義経様にございます。此度の挙兵を聞き及び、頼朝様の弟君として、平泉より馳せ参じました」
「あの義朝様の末子……義経さまか!」
若武者の目が、驚愕に、そして瞬く間に熱狂に染まった。
「名乗りが遅れ申し訳ありませぬ。それがしは鎌倉殿に付き従う梶原が嫡男、景季にございます! 義経さま、よくぞ、よくぞ参られた! その清廉なる御姿……まさに噂に違わぬ源氏の光でしょう!」
「うむ……」
突然の反応に牛若は戸惑っている。景季は手のひらを返したように、手放しで牛若を褒め始めた。そこへ、もう一人の人影が、凛とした足取りで近づいてきた。
「どうした、景季。騒がしいぞ」
まっすぐな背筋を一度も崩さず、静かな重厚さを纏った、目鼻立ちの整った男だ。
「おお重忠! 源氏の御曹司がいらっしゃったのだ。義経さま、こちらは私とほぼ同輩の……」
青年は、名乗りの代理をためらう景季を微笑で制した。
「畠山重忠と申しまする」
彼は泥まみれの牛若を優しく見据えると、その瞳に静かな感嘆を宿し、穏やかに囁く。
「……義経様。なるほど、纏っておられる風が、我ら下々の武士とは全く異なりまする。……ですが義経様、平家との戦は、既に終わっておりまして……」
「終わった、だと……?」
牛若の唇が震え、三郎が「なんだと……!」と情けない声を出すが、弁慶はさほど動揺はしなかった。景季と重忠の表情に喜びが宿っているのが分かる。
「水鳥にございますよ、義経さま」
景季が快活に笑う。
「昨夜、我らが対峙した際、富士川の水鳥が一斉に羽ばたいた音を、平家軍は源氏の夜襲と勘違いしたのです。何万もの軍勢が一矢も報いず、算を乱して敗走しました。実に、滑稽極まる幕切れでしたよ」
横の重忠が静かに頷き、追い打ちをかける。
「平家の陣地はほとんどそのまま、何もかも置き去りになっておりまする。天が平家を追い払ったのは……義経さまをお迎えする露払いのためであったのかもしれませんね」
「誠にそのとおり!」
景季が元気に同調して笑い、重忠も穏やかに微笑する。弁慶たち従者は、ただこの二人の様子をじっとうかがっていた。
「さあ、義経様。すぐに我らが鎌倉殿の元へご案内いたしましょう」
景季と重忠は、初対面の牛若を英雄として扱うことに何の疑いも抱いていないようだった。弁慶のように天界の稚児の神業を見たわけでもあるまい。客観的に見れば不思議なことだと弁慶は思った。
二人に促され、牛若もまた、吸い寄せられるように本陣の奥へと足を進める。
「忠信、いきなりで大丈夫か……?」
「いや兄者、さすがは義経様だ」
背後で佐藤兄弟が感心したように声を漏らす。「さすが牛若さまだな」と三郎もつぶやき、成り行きで弁慶たちも後ろから歩みを進めた。
だが、その行く手を、一枚の帳面を手にした中年の武士が、冷徹な表情で遮った。
「待て、景季。……重忠殿もだ」
「あ、景時殿」
「父上……!」
男は景時という、梶原景季の父のようだ。
「父上、こちらのお方は鎌倉殿の弟君の義経さま。はるばる奥州から馳せ参じてくださったのです。すぐに鎌倉殿の元へお通しいたしましょう」
「ならぬ」
景時は重厚な低音で拒絶を示した。三郎の「なんだと……」とつぶやく口を弁慶は無遠慮にふさいだ。
「父上……?」
「いかに弟君と名乗られようと、事前の連絡もなく、身元の確かめもないまま本陣へ通すわけにはまいらぬ。軍律は厳守せねばならぬのが、鎌倉の理だ」
「父上、なんて野暮なことを……!」
景季が父に向かって真っ向から色をなした。
「義経さまは奥州から不眠不休で駆けつけられたのですよ! なぜ今、そのようなくだらない儀礼で、畏れ多くも足止めをする必要があるのですか! この御方から漂う雰囲気、どう見ても御曹司でしょうが」
「ならぬ。そのような、雰囲気などと何の証にもならぬことを連呼しても無意味じゃ。鎌倉殿の安全も守らねばならぬし、仮にその御仁が御曹司であられるなら、我らの準備もある」
「父上、そのようなおかしなことを長々と話さずともよいではありませぬか」
「おかしなこととは、これは異なことを申すな。わしの息子であるなら、なおさら理解するものじゃ」
「景時殿」
重忠もまた、冷たい一瞥を投げた。
「法を説くのも結構だが、あなたには風情というものがない。情というものがありませぬな。普段から帳面ばかり見ておられるから、真実が見えぬのです」
「いや重忠殿、それがわしの仕事であって……」
景時が必死に反論しようとするが、景季と重忠は聞く耳を持たなかった。両脇から景時をなじり、そのまま口論になってしまう。
「父上には失望いたしました。もうよい。私が今すぐ鎌倉殿にかけ合えば済むこと」
「私も参りましょう」
「ならぬ」
ぐんぐん歩みを進めて遠ざかる景季たちを景時が厳しい声で追う。
「この程度のことで鎌倉殿にいきなり話を投げかける者がどこにおる。まずは本陣の手前におられる、挙兵を取り仕切っておられた北条時政殿にお伝えするのだ」
「ええい、要らぬことばかりおっしゃる父上め……!」
「景時どの、そのような杓子定規は武士の心ではありませぬ」
「重忠殿までわしを愚弄するか……!」
口論する三人の声がどんどん遠ざかる。
「義経さま、しばしお待ちくだされ! なんとかいたします!」
父親に首根っこを掴まれるような形になりながら叫ぶ景季の声がかき消えていく。騒がしい三人の背中が見えなくなった。
後に残されたのは、夜の黄瀬川の湿った風と、一行の沈黙だけだった。
篝火の火が、ぱちりと爆ぜる。牛若は泥まみれの手を見つめ、所在なげにぽつりと呟いた。
「……あの景時殿は、なぜ私を阻もうとするのだ? 私はただ、兄上に会いたいだけなのに……。私は、何か良からぬことをしたのだろうか」
怒鳴るでもなく、ただ迷子のような困惑だった。三郎が我慢ならぬといった風に鼻を鳴らす。
「牛若さま、気にしなくていいです! ありゃあ、とんだ嫌なじいさんでしたね! 『帳面』ばっかり見て、牛若さまの御顔も見てないんだから。ああいう手合いは放っておくに限りますよ」
「こら三郎、言い過ぎだ。梶原殿は役目に従っておられるだけだろう」
弁慶が穏やかに窘める。気づくと、牛若の身体が石のように、不自然な強張りを伴って固まっていた。
「……まずい、俺としたことが……」
三郎が頭を抱える。「言葉を選べ」と弁慶は冷たく切り捨てた。三郎が何気なく言った「じいさん」という言葉が、奥州の秀衡に重なったことに気づいたのだ。三郎の口から出た一言が、牛若の瞳から焦燥を追い出し、代わりに取り返しのつかない「影」を呼び込んだ。
牛若の瞳は虚空を見つめて動かない。
弁慶は、喉の奥に苦い味が広がるのを感じた。
(……ああ。牛若さまは三郎のせいで思い出されたのだ……自分をあれほど愛し、泣いて引き止めた秀衡殿のあの温もりを。あの方を捨ててまで、遥か遠くから追い縋るように求めてきた兄という幻影。その入り口で、あのような冷たい拒絶に遭った……。牛若さまの心は今、平泉の残響に焼かれているのだ)
牛若は何も言わず、ただ夜の冷たい風に打たれている。
弁慶はその細い背中を、もはやかける言葉も見つからぬまま、立ち尽くして見つめ続けるほかなかった。




