第十話 黄金の訣別と蹄
吉次邸の離れへと続く廊下は、底冷えがした。
闇に紛れ、気配を消して座す弁慶の隣で、三郎が所在なげに指先で畳の縁をなぞっている。部屋の中からは、昨日から絶え間なく続いていた忍び泣きさえ消え、まるで死を待つような不気味な静寂だけが漂っていた。
庭の飛び石を刻む足音が聞こえた。案内する吉次の後に続く、三つの影がある。
先頭に立つ老人が笠を脱いだ瞬間、弁慶は思わず息を詰めた。藤原秀衡であった。
質素な身なりではあるが、その佇まいには隠しきれぬ王者の威厳がある。後ろに控える二人の従者は、研ぎ澄まされた風を共に漂わせていた。
秀衡が部屋に入り、襖がそっと閉まる。
秀衡は弁慶や三郎が廊下に控えていることを承知の上で、あえて隠そうとはしなかった。それは「見られても構わぬ」という、この地の支配者としての絶対的な余裕と、彼らの忠誠を試すような勘でもあるだろうか。
「……義経。先日は、声を荒げて済まなかった」
呼びかけは「義経殿」でも「牛若」でもなかった。秀衡の第一声は、意外なほどに低く、穏やかな謝罪であった。
牛若は幽霊のようにゆっくりと顔を上げた。秀衡は歩み寄り、牛若の細い肩に節くれ立った大きな手を置いた。
「わしはな、義経。実の子らも等しく愛しておる。だがな、長い月日の中で一族の中に派閥ができ、兄と弟が睨み合う地獄を、わしは毎日……血を吐くような思いで眺めてきた」
秀衡は、牛若の袖に指先でそっと触れた。その手つきは、壊れ物に触るかのように慎重であった。
「平泉を守るため、神経をすり減らす毎日に、わしの心はとっくに汚れきっておった。……そんな時よ。吉次から、鞍馬の闇に一人震える源氏の御曹司がいると聞いたのは。……わしはな、あそこでタガが外れたのかもしれぬ。平泉の利などどうでもよい。ただ、その稚児を引き取りたい、愛でたいと」
秀衡は、牛若の顔を覗き込むようにして、小さく笑った。
「だが、そなたはわしの想像を遥かに超えておった。そなたの清らかな瞳は、政治と権力に汚れきったわしの心を、跡形もなく洗い流してくれた。……義経、そなたは、この老いぼれの、たった一つの『光』だったのだ」
秀衡の言葉は切々と響く。
「……わしを『秀衡殿』と呼ぶでない。わしは、お前の父じゃ。たとえ血は繋がらずとも、わしだけは、お前の父でありたかったのだ」
秀衡は、最後に一度だけ、説得を試みるように身を乗り出した。
「なあ、義経。やはり、ここに残るわけにはいかないか。この奥州は……この平泉は、わしの目の黒いうちなら、そなたにとってどこよりも安全なふるさとである。今ならまだ……」
その瞬間であった。牛若の瞳から、一筋の涙が溢れ、白い頬を伝った。
牛若は何も言わなかった。ただ、拒絶でもなく、懇願でもない、あまりに純粋な悲しみの飛沫だ。
秀衡は言葉を失った。開こうとした口が、力なく閉じる。奥歯を噛みしめるような音がした。
弁慶は闇の中で、冷徹にその沈黙を読み取った。隣では三郎が、困ったように頭を掻いている。
「……ああ、牛若さまの……あの涙を見せられちゃ、かなわねえな。じいさん、もう何も言えねえや」
「そなたの意志は……判った」
秀衡は力なく肩を落とすと、背後の二人を呼び寄せた。
「……佐藤継信、忠信。前へ」
二人の若者が笠を脱いだ。兄らしき継信は、深い夜を映したような瞳に、涼やかな冷静さを湛えた端正な貌だ。弟の忠信は、精悍な眉の下で、野生の熱を孕んだ力強い美男子だった。
「この二人は、わしの魂、わしの『目』じゃ。また、義経たちの馬の世話を引き受けてもいた。奥州の馬のことなら誰よりも詳しい」
秀衡は低い声に力を込めて続けた。
「義経よ、この二人を道連れにせよ。わしの代わりに、そなたを見守る二人だ。……万が一、行くあてを失ったなら、いつでも戻ってくるのだぞ。平泉は、そなたがいつでも帰れる家じゃ」
「……」
秀衡の言葉が終わると、牛若は畳に額を擦り付けるようにして、無言の慟哭を漏らした。声にならぬ震えが、細い背中を幾度も揺らす。
「……時は……一刻の猶予もなりませぬ」
牛若は掠れた声でそう告げた。その瞳には、目の前の老いた王者への情愛を振り切らんとする、凄烈なまでの焦燥が宿っていた。
闇が深くなると共に、吉次邸の裏門から五つの影が静かに滑り出した。外には牛若の愛馬が待っていただけでなく、特別な時に馬を貸し出される場合以外は徒歩であった弁慶や三郎にも、立派な馬が用意されていた。
門の後の影には、秀衡と共に吉次が立っていた。
都から天界の稚児を連れ出し、平泉という楽園へ招き入れた男は、暗がりに紛れて涙をぬぐいながらも、深々と頭を下げていた。
「……お気をつけて、牛若……義経様。これからは、あなたさまご自身が、源氏という名の黄金にございますぞ」
吉次の呟きは、商人の算盤を弾く賢さと、共に過ごした月日への隠しきれぬ慈愛が混じり合っていた。彼にとって、この旅立ちは自らの夢を戦地に解き放つような、それでいて物悲しいものだったにちがいない。
「秀衡さま……私牛若は行ってまいります」
「ふむ……達者でな……」
秀衡が嗚咽を漏らす。牛若の言葉が「秀衡殿」から「秀衡さま」に変わっていた。不思議と距離が遠のいた響きはしない。秀衡はそのことには何も言わなかった。
牛若はくるりと踵を返すと、そのまま三郎の助けで愛馬に跨り、ゆっくり力強く歩みを進める。三郎、弁慶、継信、忠信がその後に続く。
だが牛若はすぐに馬を止め、名残惜しそうに振り返った。闇の中に立つ秀衡と、その隣で小さく頭を下げる吉次の姿を目に焼き付けている。
「……もう振り返ってはならぬ。それが父というものじゃ……!」
秀衡の声が風に乗って届く。
「はい……秀衡さま……!」牛若は唇を噛み締め、最後の一呼吸を平泉の夜気に求めた。
「この牛若、行って参ります!」
牛若が厳しい手捌きで馬を俊敏に走らせ、弁慶たちがその後に続く。蹄が石を打つ音が、平泉の黄金を砕け散らせるかのように響いた。
その刹那、弁慶は一度だけ、秀衡の方角を振り返ってしまった。老いた王者の顔には、涙の中に、自らの「光」を戦地へ送り出した誇りと、諦めの念が見てとれた。弁慶はそれをほんのり苦く噛み締めて前に向き直った。
主は「義経」ではなく「牛若」として、「秀衡さま」の元を去った。そのことを、弁慶は忘れられそうにない。疾走の中、牛若の嗚咽が聞こえてきて、それを「牛若さま、頼むから泣かないでくださいよ……!」と三郎が甲高い声で慰めている。だが弁慶は、まだ牛若に声をかける用意ができてはいなかった。
関東への旅路は、正気を欠いた疾走だった。
牛若は馬をいたぶることはなかったが、その魂には休止という概念が欠落していた。取り憑かれたような狂気で馬を操り続け、焦燥が馬の限界を忘れさせていたのだ。
奥州と関東を分かつ険しい峠道。
「う……!」
不意に牛若が体勢を崩す。
「げげっ、牛若さま!」
慌てた三郎が元盗賊のすばしっこさで即座に馬を降り、牛若のもとへ駆け寄る。
「どうなされた……!」
色を失った弁慶だが、三郎のように小回りが効かないので馬から身を離すのに手間取ってしまう。三郎が、落馬しかけた牛若を抱き止めるのが目に入り、弁慶の心臓が一気に乱れた。
「私は大丈夫だ……! 馬がっ……」
牛若はすぐに三郎の腕から離れる。弁慶は少しほっとした。精神的負荷のために確かに苦しそうな表情ではあるが、力尽きたのは馬の方だったらしい。連日の強行軍と、不慣れな土地への不安、そして主人の乱れた情動を吸い込んだ名馬が、ついに力尽きたように膝をついたのだ。
「継信、忠信」
弁慶が手際よく呼びかける。
「馬を診てみるのだ。三郎は周囲を警戒しろ」
「分かった!」
継信が静謐な動きで馬の全身に指を這わせ、全てを読み取る。忠信は馬の表情を凝視している。
「兄者……これは……!」
忠信が焦ったような声を出す。継信は苦渋の表情で首を横に振った。
「……駄目だ。怪我ではない。足の筋などではない。馬が、希望を失い、心を閉ざした。これでは……」
牛若はぬかるみに膝をつき、倒れ伏した馬の首に縋り付いた。
「頼む……立ってくれ。私は、独りになりたくないのだ。兄上に……、会わねばならないのだ……!」
秀衡を傷つけてしまったことの自責もあったかもしれない、と弁慶は思った。やや甲高い声には孤独への恐怖と剥き出しの悲鳴が見てとれる。
牛若の涙が、馬のたてがみに次々とこぼれ落ちる。嗚咽が止まらなくなった。
だが、その刹那であった。
まるで死を待つようだった馬の瞳に、人ならざる意志の光が宿った。
馬は牛若の涙を吸い込むように鼻を鳴らすと、信じがたい力で立ち上がり、主を促すように鼻先でその肩を突いたのだ。
継信と忠信の端整な顔が驚愕に染まった。
「兄者……こんなこと……」
「ああ、こんな光景を見たことなど……」
「おい弁慶……」
三郎が弁慶を小突く。
「……牛若さまの涙を見せられたら、馬だって逆らえねえんだな……」
三郎が、どこか熱っぽく、感慨深げに呟いた。その声には、自分たちが選んだ主への狂おしいほどの心酔が混じっていた。
「牛若さま」
弁慶は穏やかに語りかけた。
「天は牛若さまに味方していますぞ」
弁慶は牛若の背中に寄り添った。三郎が鼻で笑うのが聞こえた。こんな歯の浮くような台詞を言う柄ではなかった。ただ牛若に、何かを言いたかった。
牛若の兄を求める旅。目指す先はかなり近づいてきていた。




