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影の弁慶  作者: 甲田太郎


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第一話 五条の大橋

 遠くで(からす)がひっそりと鳴いた。


 五条の大橋に立ち込める夜の霧は、京の湿った夜気(やき)を吸って、重く肌にまとわりつく。剥き出しの首筋を、夜露が冷ややかに撫でる。だが、握りしめた長刀(なぎなた)()だけは、猛る体温を吸ってひどく熱い。


「……河原の水音が妙に低いな」


 僧兵姿の武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)は、手にした長刀の柄を握り直した。


 引き締まった長身。無駄な肉を削ぎ落とした、鋭利な刃物のような肢体(したい)


 その手の平には、獲物を待つ獣のような汗が滲んでいる。


「……今日で千本目だ」


 独り言が、霧の中に溶けて消えた。


 その粗暴さと、あまりに鋭すぎる気性ゆえに、誰からも疎まれた。比叡山を追われた夜のことを、橋の欄干(らんかん)に触れると思い出す。


「……俺を疎んじた者どもの顔を、一から数えてやるほど暇ではないが」


 弁慶は、自嘲気味に口角を上げた。彼らはただ、弁慶の異端の強さを恐れ、説明もなしに追い出したのだ。


 自分の存在の証がほしい。都で自慢げに腰を反らせる武士どもから、一本、また一本と太刀を奪う。千本積み上げれば、何かが変わるはずだ。


「……さあ、来い。最後の一振りだ」


 その時、ふわりと風が動いた。


 夜風の中に場違いなほど清涼な香りが混じる。まるで白檀(びゃくだん)か何かの、残り香のようだった。


 霧の向こうから現れたのは、弁慶が待ち構えていた「剛の者」とはあまりにかけ離れた、小柄な影だった。


「……稚児(ちご)か?」


 思わず、声が漏れた。


 薄衣(うすぎぬ)を深く頭から被り、足取りは驚くほど軽い。高下駄の音だけが、夜の静寂を規則正しく冷ややかに刻んでいる。腰には美しい太刀が見えた。


「おい」


 弁慶は一歩、前に出た。鋭い双眸(そうぼう)が、霧の奥を射抜く。


 相手の足は止まらない。大柄な弁慶の威圧感を恐れる様子もなく、霧の中を滑るように淡々と近づいてくる。


「止まれ」


 弁慶は、わざと声を低めた。


「その腰の太刀、置いて行ってもらおう」


 たかが稚児のはずだった。だが、間近に迫るその気配に、首筋が妙に冷ややかな粟立ちを覚える。


 少年は足を止めた。


 透き通るような細い指先が、頭の薄衣をそっと払う。


 霧の中から現れたその顔に、弁慶は呼吸を忘れた。


 月の光をそのまま形にしたような肌。額にかかった前髪が、夜風に乱れている。


 そして、すべてを見透かすような、深く、底知れぬ闇を抱えた瞳。


「そなたが、太刀を奪う僧か」


 稚児が、鈴を転がすような清冽(せいれつ)な声で呟いた。


 口の端がわずかに吊り上がる。挑発か、あるいは無邪気な好奇心か。


「奪えるものなら、奪うがよい」


 形の良い唇が、爽やかな声音でつぶやく。


「口の減らぬ餓鬼め」


 瞬間、弁慶は長刀を大きく薙ぎ払った。重厚な鋼が空気を断ち、轟音が橋を震わせる。


 並の武士なら、この一撃が放つ殺気だけで膝を折るはずだ。


 だが、鋼の刃が少年を捉える直前、手応えが虚空に消えた。


 風が来た。目の前にあったはずの白い顔が、霧の粒子に溶けるようにして霧散した。


「……っ!?」


 少年は弁慶の頭上を、まるで夜の幻のように飛び越えていた。着地した高下駄の音が響く。


 舞い上がった衣の裾が、視界を白く染めた。


 空を蹴った稚児の影が、霧の中に溶ける。


 弁慶の長刀は、虚しく夜気を切り裂いただけだった。


「……ちょこまかと!」


 弁慶は舌打ちとともに、長刀を短く持ち直した。相手は風のように軽い。ならば、大振りの一撃は隙を生むだけだ。


 弁慶は欄干の親柱(おやばしら)を蹴り、その反動で一気に距離を詰める。突き、払い、そして鋭い石突きでの返し。無駄のない、研ぎ澄まされた連撃が少年の逃げ場を塞いでいく。


 だが、少年は止まらなかった。


 高下駄が板を叩く音は、もはや足音ではない。それは夜風が奏でる音のように、弁慶の予測をことごとく外していく。


 乾いた着地の音が響く。


 少年は橋の欄干に片足をかけ、弁慶の突きを軽々とかわした。舞い上がった薄衣が、月光を浴びて真珠のような光沢を放つ。


「捕まえたぞ……!」


 弁慶は少年の着地際を狙い、長刀を水平に一閃(いっせん)させた。欄干ごと叩き斬るつもりで放たれた、渾身の一撃。


 しかし、少年は着地しなかった。


 空中で駒のように体を捻ると、長刀の刃の上を、爪先でわずかに蹴ってさらに跳んだのだ。信じがたい光景だった。弁慶の視界が、一瞬だけ揺らぐ。その隙を、少年は見逃さなかった。


 頭上から舞い降りてきた影。白い指先が、弁慶の長刀の柄を、ふわりと押さえた。


 その刹那、少年の手にあった鞘の先端が、弁慶の鳩尾(みぞおち)を鋭く貫く。


「ぐは……っ!」


 肺から空気が一気に絞り出される。鋭利な痛みが走ったわけではない。ただ、体の芯にある力の結び目が、一瞬で解かれたような感覚だった。


 視界が、ぐらりと揺れた。


 引き締まっていたはずの膝から、力が失せる。冷たい板張りの床が、急速に顔に迫った。乾いた音を立てて、千本目を仕留めるはずだった長刀が手から滑り落ちる。


 腕が痺れている。完敗だ。弁慶の全存在を否定するような、圧倒的な、無慈悲な敗北だった。


「……殺せ」


 伏したまま、弁慶は絞り出すように言った。屈辱が、焼けた鉄のように喉を焼く。


 比叡山で浴びた罵声よりも、誰からも疎まれ、石を投げられた日々よりも。目の前の稚児に、ただの一太刀も浴びせられずに屈した事実が、彼の魂を真っ向から叩き折っていた。


 しかし、待っていた刃の冷たさは、いつまで経っても来なかった。


「対等に刃を交えたのは、そなたが初めてだ」


 凛とした声が、頭上から降ってきた。さっきまでの冷徹さが嘘のような、穏やかでいて、どこか遠い場所を求めているような、寂しげな響き。


 弁慶は、震える腕で上体を起こし、顔を上げた。


 少年は、勝ち誇るでもなく、ただ真っ直ぐに弁慶を見ていた。


 すべてを見透かすような、それでいて深い空洞が垣間見える瞳。それが、ほんの一瞬だけ、熱を帯びたように見えた。


(……「初めてだ」……?)


 弁慶という存在を、ただの「化け物」としてではなく。あるいは「奪うべき敵」としてでもなく。一人の対等な相手として、認めてくれた。


 この男は、自分の持つ力の裏側にある、忌々しい孤独に触れてくれたのか。千本間近の刃を奪っても埋まらなかった空虚に、この稚児の囁きが、温い毒のように染み込んでいく。


 胸の奥で、何かが音を立てて崩れ落ちた。比叡山で得られなかったもの。千本の太刀を奪っても埋められなかった。それが、この少年の発した一言で、急速に埋め尽くされていく。


「……御身の家来に、加えていただきたい」


 弁慶は、深く頭を垂れた。板張りの床に額がつくほど、深く。


「我が名は、武蔵坊弁慶」


 震える声で、己の名を告げた。千本目の太刀を奪い、日の本一の強者(つわもの)として名を売るための道具だったはずの名が。今は、この小柄な少年に捧げるための、何よりも重い供物のように感じられた。


「これより先、御身の影となり、盾となりましょう。たとえ、この命が果てる時までも、お守り申し上げる」


 少年は、驚いたように目を見開いた。それから、今度は本当に楽しそうに微笑んだ。


「ふふ、よかろう」


 差し出された細い手が、弁慶の荒れた指先に、そっと触れる。指先から伝わる体温は、驚くほど頼りなく、儚かった。


 その微かな熱に、弁慶の胸は焼かれるような震えを覚えた。己がどれほど疎まれ、この千本目の夜をいかに孤独に迎えたか。


 腹の底からせり上がってくる、泥のように重く熱い情念。それを、すべて主に捧げ、受け止めてほしかった。


「……っ、御身(おんみ)、俺は」


 弁慶の唇がさらなる告白を紡ごうとした、その時だった。少年の手は、名残惜しさなど微塵も感じさせぬ速さで離れた。


 少年はすでに、弁慶の心の深淵(しんえん)などには興味を失ったかのように、霧の先へと視線を投げている。弁慶がどんな地獄を歩んできたか、その忠誠がどれほど重いものか。少年はそれを当然のように、涼やかに受け流していた。


「立て。夜が明ける前に、戻らねばならぬ」


 少年は振り向かずに言葉を奏でる。自らの素性も目的も明かさぬまま、ただ当然の(ことわり)として歩き出した。その背中には、弁慶が抱いたような「運命」への感傷など、一欠片も乗っていない。


 ただ、新しい玩具(がんぐ)を手に入れた子供のような、純粋で残酷な足取りだ。


 弁慶は、立ち上がりきれぬまま、その背を見送った。胸の中に渦巻く、行き場のない熱。


 この少年の行く末を、自分は見届けなければならない。いや、自分がいなければ、この危ういまでの無垢は、俗世の泥に容易く呑み込まれてしまうだろう。


「……お待ちいただきたい!」


 弁慶は、置き去りにされそうになった心を、必死に体へと引き戻した。主は、振り返らない。


 名も知らぬ少年の、あまりにも軽やかな、浮世離れした足取りを、弁慶は必死に追いかけた。

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